19.二学期初日

 私がシャワーを浴びている間に、藍衣と母さんは仲良くなっていた。

「藍衣ちゃん、いつでも遊びに来て! いつ来ても帰りは駅まで乗せてくから」

「ありがとうございます。遠慮なくお世話になります」

 台詞だけ聞くと心温まる会話のようだけど、実際はふたりとも変にニヤついていて嫌な予感しかない。

 藍衣が駅で車から降りたときも、

「じゃあよろしくお願いします、清子さん」

「任せといて藍衣ちゃん」

 と、謎の握手を交わしていた。でも私は、一日中草取りをした疲れもあって放っておいた。また何か母さんが余計なことを言ったなら、聞くのも面倒だと思ったから。


 この日は夕食を食べたらすぐ眠たくなってしまって、学校の準備もそこそこに眠ってしまった。



 ◇



 翌朝、スマホのアラームがけたたましく鳴ったとき、私は寝ぼけたままそれを消した。なんでアラームなんかセットしたんだっけ、と丸くなった。そして五分後のアラームでようやく目を覚ました。

「がっこう!」

 ガバッと起きて時間を見た。六時半——ギリセーフ。

 動悸に深く息を吐きながらベッドから降りた。体中が痛い。何でだろうと思いつつ顔を洗うときに思い出した。洗面台に屈もうとして太腿が突っ張った、地面を掘りまくった角度だ。

 急いで部屋に戻って、ハンガーに掛けてあった制服を下ろした。

 白地のセーラーはまだ糊が効いていて、紺の襟もきりりとしている。かぶって着て、脇のチャックを閉める。スカートを手に取って、ふと鏡を見た。

 ……やっぱ、長くて変。

 昨日の藍衣のスカート姿が目に浮かんで、自分がどれだけ人と違うか思い出した。パジャマのズボンを履いたままスカートに脚を入れ、チャックを上げる。ホックもしっかり掛け合わせた。もぞもぞとパジャマを脱ぐと、裾が脛を撫でてまだ裸足と気づく。

 見下ろすとプリーツのひだが階段みたいに並んで、足先すら見えなかった。


「おはよう紗世。ちゃんと起きて偉いじゃない」

「……おはよう」

 学校なのに母さんが台所にいる。昨日までの数日でそれが日常になりかけていたけど、今朝改めて母さんは帰ってきたんだと思った。

 朝ごはんはベーコンと目玉焼きとお味噌汁。

「ほら食べちゃいな。今日って午前授業だっけ」

「うん、昼前で終わり」

「じゃあウチでお昼でいい? それとも藍衣ちゃんたちと食べてくる? あたし十一時からホーム巡りしてくる予定だけど」

「あるもので食べるからいい」

 母さんは「ほー」と変な声を出して、

「頼もしくてちょっと寂しいわぁー」

「何その棒読み」

「あら本心よ」

 お味噌汁は私の好きなジャガイモとわかめで美味しかった。朝の情報番組を見ながらゆっくり食べる朝なんて初めてのような気がする。バスは七時十分、まだ大丈夫。

 星座占いが始まったと思ったら、突然インターホンが鳴った。

 こんな時間に誰だろうと、母さんがパタパタ出ていくのに耳を澄ます。

「おはよう祐くん。あら学ラン似合うじゃない」

「っス。……紗世は」

「まだご飯食べてる。ちょっと待っててー」

 なんで祐が! 私は慌ててご飯をかきこんだ。あんまり急いだから喉に詰まりそうになってお味噌汁で流しこむ。せっかくのジャガイモが台無しだと思いつつ、とっておいたベーコンをもぐつく。

「紗世、祐くんが迎えに来てくれたわよ」

あんえたふくあなんで祐が

「祐くん今日からバスで行くことにしたって……昨日話したでしょ」

 眉を顰めて考えたけど記憶になかった。車の中では居眠りしてたからかも。

 最後のご飯を口に放りこんで立ち上がる。歯磨きは無理でも口をゆすがないと。

「おう」

 茶の間から出ると祐は立ったままだった。祐は制服を着ると黒髪になったせいか別人に見えた。「おはよう」と言うのも忘れて見入ってしまい、変な顔をされた。

「なんだよ……おい、あと五分で出ないとまずいぞ」

「わ、分かってる!」

 待てよ五分なら歯磨きできるかも、と思ったのがまずかった。結局私たちはバス停まで走るはめになった。

「お前、ちょっとは運動しろ。この距離でそんじゃ弱すぎ」

 息が切れて汗だくになってしまった私を見下ろす祐は憎らしいほど余裕で、バスではむくれて一言も話さなかった。席は空いてるのに祐がわざわざ隣に座るから悪い。

 私は汗臭くなったのが気になって身じろぎもできないし、筋肉痛を隠し通すのに必死だった。

 一番後ろの席で、私たちは黙ってバスに揺られていた。


 商店街のバス停で降りて、駅までのバス停へ。すでに十人くらい並んでいて、私と祐は前後ろで列に従った。次のバスまで三分くらい。

 息を整えながら私はスマホを出して、インスタの通知をタップした。藍衣から『おはよ』『バス乗った?』とチャットが来ていた。

『乗ったよ』と返す。『筋肉痛ヤバい』とスタンプがついた。

 ふ、と笑いが漏れた。

 祐がそれに気づいたか、私の頭の横から勝手に画面を覗きこんでくる。

「それ、昨日の奴か」

「ちょっと勝手に見ないで」

「お前、なんか変だと思ったら筋肉痛か」

 煩いな、とスマホを胸に伏せた。バスが遠くから近づいてきて、列が少し詰まった。

「……ありがとな」

「え?」

「昨日の、そいつにも言っといてくれ」

 後ろから頭を撫でられて頬が熱くなる。そのまま頭を押されるようにしてバスに乗った。席はもうひとつしかなくて、祐は私をそこに座らせるとすぐ側に立って吊り革に捕まった。

 バスの中は冷房が効いていたけど、私の頬はしばらく熱いままで困った。



 駅前で祐と別れた。八時丁度くらいに学校に着く道すがらは同じ制服の子たちで溢れていて、夏休みが終わった実感を持つには充分。相変わらず私のスカートは誰よりも長くて、ひとりだけ違う制服を着ているみたいだ。

 そうだった、私はそうだった。

 非日常から日常に戻る感覚がぐうと私に迫る。

 不意にポケットのスマホが震えた。いつの間にか立ち止まっていた。藍衣からのチャット。

『昇降口で待ってる』

 気を遣ってくれてると分かった。今まで待ち合わせたことなんかない。

 同じ色の人並みがどんどん私を追い越していく。軽やかなプリーツ。肉の薄い膝裏。急ぐほどに揺れる裾。白いセーラーも白シャツも、みんな私に背を向けて夏を進んでいる。

『どこ?』『着く?』立て続けにスマホが呼ぶ。

 一歩踏み出した。

「いち」

 と、数えて。声が聞こえたか黒髪の男子がちらりと振り向いた。でも興味を失ったようにさっさと先に行く。それが少しだけ祐の後ろ姿に似ているように思えて、私は「に」と「さん」を数えることができた。

 昇降口で藍衣とおはようを交わすと、予鈴が鳴った。時間ギリギリで教室に入ったおかげですぐHRになり、変な間がなくて助かった。ひと月ぶりの自分の席は変わりがなくて安心したけど、なんとはなしに居心地の悪さを味わう。

 学校の椅子ってこんなに硬かったっけ。

 懐かしい気怠い空気に、ぼんやり思ったときだ。担任の多田が「体育館の暑さがヤバいから、ちょっとでも具合悪くなったら声かけるように」と言って、私に視線を合わせた。

 思わず小さく肯くと、「そうだ野上」と多田が教卓に肘をついた。

「熱中症経験者として何か対策あるか」

 ザァとみんなが私を見た。視界の端に藍衣もいる。

「……え?」

「入院したくらいだ、命の危機だっただろ。よかったな、元気になって」

 多田が珍しく笑った。私が言葉を失っているとまた鐘がなった。

「お、じゃあ朝飯食ってないやつは水飲んで体育館行けよ。五分後には体育館整列、遅れるなよ」

 視線が一気に散って時間が動き出した。

 ……今日は二度も予鈴に救われた。

 ざわつき始めた教室の中で半ば呆然としていると、藍衣が来て「多田のやつ。普段は塩対応のくせに草」とニヤついた。


 *


 帰りの駅は午前授業から解放された高校生でごった返していて、私はやっぱり一本バスを乗り過ごした。塾で自習しないと親がうるさいけど行きたくない、と藍衣が暇つぶしに付き合ってくれることになった。

「ってか今日も草取るの?」

「うん、そのつもり。まだ半分以上あるし」

「女子高生が草取りの話してるのウケる」

「わかる」

 コンビニで買った紅茶を飲みながら、バス停の見える駅のベンチでおしゃべりする。なんとなく構内の冷房が感じられる場所で汗が垂れるほどじゃないし、人の少ない心地よさに会話は弾む。

 初日を無事に過ごせたことで気分もよかった。

「明日、私もまた手伝おっかなぁ」

「でも藍衣、塾とかあるんじゃないの」

 週末は塾が忙しいと誘いを断る彼女を何度も見ていた。

「んー。まぁいいよ、たまには。てか紗世ひとりじゃ無理でしょ」

 実は無謀なことを始めてしまったと何度か後悔していたから「うん」と素直に肯いた。



 じゃあ十時くらいに、と約束したところでそろそろバスの時間になる。

「あれ、あいつじゃん?」

 藍衣がバス停の列を指差した。祐だった。

「ホントだ」

 祐も一本遅かったんだ、と立ち上がった。紅茶を飲み切って側のゴミ箱に捨てる。藍衣はなぜか顰めっ面で外を睨んでいた。

「紗世、あいつと付き合ってんの?」

「……は?」

「違うけど何もない訳じゃないってとこか」

 探偵みたいに顎に手を当てた藍衣が唸る。

「えっと私、別に祐とは……」

「幼馴染なんでしょ。距離感間違っちゃってる感じの」

「ちが」

「あ、ほらバス来たよ」

 わぁと私はバッグを掴んで自動ドアから飛び出した。ちゃんと否定したかったけど、もうバスはロータリーを回り始めていた。

 祐がバタつく私に気づいて列を抜け、最後尾に並び直した。呆れた顔が私を待って、わざわざ憎まれ口を叩いた。

「お前、走るの好きだっけ」

「うる、さい」

 肩で息をしながら振り向くと、まだ藍衣がこっちを見ていた。手を振り返した。



 冷蔵庫におにぎりがあったのでそれを食べて、乾いたばかりの草取り衣装を着て祐の家に行った。もちろん草取りだ。

 玄関で「こんにちは」と声をかけると、祐が「おう」と茶の間の戸から顔を出した。ヘルパーさんが来ているようだった。私は客間にスマホと替えのタオルを置いて、すぐ庭に出た。

 昨日掘り返した土はすっかり白くなっている。よし、と気合を入れてもはや手に馴染んできた鎌を担いだ。

 

 作業は難航、やっぱりひとりじゃキツい。途中、祐が麦茶を届けてくれて飲んだ。生き返る、と年寄り臭いことを言いそうになる。

 ……もう一踏ん張りしよう。

 意地になってる自覚はあった。なんとか突っ張る太腿を撫でた。

「祐、なにしてるの?」

 框に腰掛けた私を見下ろすみたいにして、祐は突っ立っていた。さっきヘルパーさんが帰った声がした。茶の間の方では辰おじさんが動く気配もある。夜勤かな。

「ちょっと、相談ある」


 結局、浮かない顔の祐から頼み事をされて、作業は中止。シャワーを浴びる時間をとって、ウチに集合した。

「あーだめだ、全然分かんねぇ」

「待って、二年の参考書持ってくる」

「悪ぃ」

 まさか祐から数学の質問をされるとは思ってなかったから少しだけくすぐったい。

 玄関先で気まずそうに「課題が出たけど、ひとりじゃ無理だ」「いつもなら出さねぇんだけど」と眉を下げた祐の真っ直ぐさは、眩しかった。私にできるなら、応えたいと思ったから。

 なんか……中学のときみたい。

 祐の家のちゃぶ台で並んで宿題をした懐かしさが胸に湧いた。わざと真面目な顔を作って茶の間に戻った。

「ここの……二次関数の復習からした方がいいかも」

「この辺は分かる」

「場合分けは?」

「何だそれ」

 自分の課題は全く進まなかった。でも祐が背を丸めてシャーペンを走らせる様子を見守るのは悪くないと思った。

 カテキョってこんな感じなのかな、と祐の課題を確認したりするのも楽しい。


 母さんが帰ってきて、祐が「やべ」と時計を見た。お互い時間を忘れていた。

「佐藤さん帰る時間だ。……これ借りてっていいか」

「いいよ。三年のも持ってって。課題の範囲違うから大丈夫」

「助かる」

 分厚い参考書を軽々と持ち上げて、祐は帰った。ぐるりと私の頭を撫でてぐしゃぐしゃにして。

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