18.不安
おばあちゃんと『仲直り』したからと言って、私が翌日からスカートを履けるようになる訳じゃない。「もしかしたら」と「やっぱり」が同時に心に小波みたいに寄せて、私はただ息を吐いた。
まぁいいか。そう思えないのはたぶん、私は自分の人生にちょっとは期待してて、未来は希望に満ちてると信じたいから。今の私は、少し前の自分とは違うから。
カーテンの外は明るくて、今日も暑くなりそう。
「ねぇ紗世、今日予定ある?」
「ありそうに見える?」
母さんはあらかわいくない、と言いたげに眉を上げて首を傾げた。
昨日母さんが居たおばあちゃんの部屋で盛大に泣いたことが何となく気まずくて、ついぶっきらぼうな態度になっている。
でも深く追求しないことにしたらしい。
「あたし、今日は宮子さんの通院について行くのよ。辰くんも祐くんも一緒に行くことになってるんだけど、ネットで買ったオムツとかなんやらが届くみたいで。紗世、宅急便来るまであっちの家にいてくれない?」
「何時くらいまで?」
「んー病院終わったらすぐ帰ってくるつもりだけど、総合病院て半日かかるわよねぇ」
別にいいけどと答えたので、私は朝から祐の家で留守番をすることになった。
「悪い、頼む」
「うん。受け取りだけでいいんだよね」
「ん、清子さんがダンボールで頼んだから、結構デカいと思う。重くて無理なら外に置いといていいから。お前だけなんだから迂闊に中に入れんなよ」
「うん分かった」
祐の髪は一日経っても真っ黒で、作り物みたいにツヤツヤして見えた。まだ茶髪のイメージがあるからかな、と思いつつ話に肯いていた。
家の鍵を預かって、受け取り後はウチに戻ってもいいと確認。Wi-Fiもない場所で長時間過ごすのはキツイと思ってたからよかった。
「頼む」と祐は何度も私にそう言って、辰おじさんの大きな車におばあちゃんを乗せて出かけて行った。外の光の下で見るおばあちゃんはますます細くて頼りない。よそ行きの服がだぼだぼで、何か違う服を買ってあげたいと思った。
車の音が遠ざかると唐突に暑さが襲って、私は早々と家の中に入った。
とりあえずインスタでも見るかと開いた途端に、読みこみマークが回るだけで動かなくなってしまった。
「明日から学校なのに……やば」
あー、と見慣れ始めた客間に寝転んだ。夏の陽が立ちこめていた。
この夏休みでインスタするのは減ったものの、スマホをいじってないと暇と時間が過ぎない感覚は変わらない。
祐ってすごいな。最初から持ってないと我慢できるのかな。
でもすぐにそんなんじゃない、と打ち消した。
眩しい。
祐は眩しい。
しばらくそうして、埃がきらきら光って浮かんでいるのを見ていた。一分か五分か、私はエアコンを止めて起き上がった。そしておばあちゃんの部屋に向かった。
*
作業に熱中しすぎて、今自分が呼びかけられていることにすぐ気づけなかった。祐の苗字は海藤。海の藤ってきれいだなと子どものときから思っていた。
「こんにちはぁ宅急便で……あ、海藤さんの家の方ですか?」
「あ、はい! すみません気づかなくて今行き、わぁ!」
ずっとしゃがんでいたので膝が固まってつんのめってしまった。
「大丈夫⁉︎」と宅急便のお兄さんが段ボールを持ったまま一歩こちらに踏み出した。
私は何とか無事を伝えて、ぴょこぴょこサインを書きに庭から出た。合計三つの伝票に『カイトウ』と書いた。
祐の予告した通り、オムツの段ボールはすごい大きさで祐の家の立派な玄関先じゃなければ入れられないサイズ。
「中に入れますか?」
と問われて、躊躇なく「お願いします」と答えるくらいには私には大きすぎた。鍵を開けて玄関先戸を開ける。その間にも額からは汗が垂れてきて、私は何度も袖で拭った。お兄さんも同じように汗を拭いつつ、框まで上げてくれた。
「学生? 草むしりなんてえらいね」
物理的に火照っていた頬がさらに熱くなった。働く人に褒められたことなんてなかったし、今の私は完全におばあちゃんルックで片手に鎌を持っていたから。もごもごと返事をした。
「じゃあ荷物はこれで三つです。どうも、ありがとうございましたー」
お兄さんは爽やかな笑顔で帽子のつばを軽く持ち上げると、小走りで門を出て行った。
ふぅと暑さを逃して俯くと、視界にはダサくてぴかぴかの黒長靴。薄紫の小花が散った薄い割烹着に肘までのゴム手袋。首には白いスポーツタオル、農作業用のつばの広い麦わらの紐がぶらぶらと揺れている。着替えたあとに洗面所の鏡に映してみたらまさか女子高生がする格好ではなかったし、むしろ仕上がっててひとりで笑ってしまった。
今やっと玄関側の一角の地面が見えてきたな、という頃合い。ついでと顔を洗って水を飲んだ。あの熱中症になったときのような辛さはなかったけど、宅急便が来なかったらまたうっかり水分補給を忘れていたかも、と反省する。
「やっぱり長いのを全部抜いちゃった方が効率がいいのかな……あー調べられたらいいのに」
放っておくとこうなっちゃうんだな。おばあちゃんがいつも草むしりしてたのって暇だからじゃなかったんだな。
すっかり草むらになっている庭を玄関の日陰から眺めて悩む。
ってか明日から学校なのに何やってるんだろう。
一日じゃ絶対終わらない作業に手をつけてしまった途方のなさを味わう。でも、と首のタオルで顔を拭いた。
「今日は木曜だから明日行ったらまた二日できるから」
本当に暇な私だからできること。
「とりあえずお昼までやろう。それで帰ってシャワー浴びる」
よしと気合いを入れて、死神が持ってそうな柄の長い鎌を手に取った。
十二時を過ぎても祐たちは帰って来なくて、私の手も限界を迎えた。変な力の入れ方をしてしまったみたいだ少し痛い。
腰を伸ばして立ち上がって、鎌は玄関先前に立てかけて家に鍵をかけた。おばあちゃんルックのままウチに歩いて戻ることにする。
たぶん知らない人が見たら完全におばあちゃんだろうなぁ。
祐と母さんはともかく、辰おじさんが見たらすごく驚きそうだ、と少し愉快な気分になる。でも行き合うことはなかった。
全部脱いでシャワーを浴びるとさっぱりして午後も頑張ろうと思えた。おばあちゃんの割烹着も全部洗濯機に突っこんだ。シャワーのあとも体は暑くて今だけは涼しい格好をしたい。
少し悩んで七分丈の部屋着を履いた。去年勢いで買って初めて。ふくらはぎに裾がさらりと擦れてしばらく落ち着かなかったけど、いつもより涼しくて着続けていられた。
朝の残りのおかずとご飯のあとおかわりまでして、手元にスマホがないことに気づく。祐の家の客間のテーブルに置きっぱなしだった。
「まぁ……いいか」
茶の間に大の字に寝転がった。少し気怠くてお腹がいっぱいで、すごく気分が良い。
「運動って大事なんだな」
なんて呟いてみる。部活を辞めてからはずっと帰宅部を貫いてきたし体育もやる気なく休むことが多かったから。
「ラケットってどこだっけ。……捨てたかな」
本当はテニスが好きだった。何年かぶりにグリップを握る感触や打ち返すときの手応えを思い出した。忘れていたし、考えないようにしていた。きっと好きだった気持ちはずっと忘れないんだろうと思う。
ごろりごろりと寝返りを打って、また元に戻る。
さっき、すごく暑かったなぁ。
ふと汗を流して働くさっきのお兄さんの背中が浮かんで、いつかはあんな風に就職するのだろうかと思う。祐もあんな感じになるのかなと思った途端、おばあちゃんを支えてお世話をする祐の腕や顔も思い出してしまい、ぎゅっと目をつむった。ともすればその腕は近すぎる距離まで迫るから。
でも目蓋の裏でもその映像が続いてしまって降参する、見慣れた天井に視界を戻す。
祐の、おばあちゃんを支える腕や大人みたいに骨ばった肩はきっと、いつか誰かを助けていくんだろう。
……私、本当に大学に行きたいのかな。
当たり前に行くと思って進学クラスにいた。別に行きたい専門学校もないから。でも——。
今勉強していることは本当に私の未来に繋がるんだろうか。
漠然とした不安が胸をよぎる。大嫌いな微積も嫌いじゃない古文も、D判定も、職員室で見た担任の多田の真顔も全部——夏に汗水垂らして働くことに本当に関係してるのだろうか。
祐はもう、あのお兄さんと同じなのに。きっと働けるのに。どうして留年してまで高校に行くんだろう。
何をして生きていくんだろう私は。
私は。——祐は。
洗濯機が私を呼んだ。薄紫の割烹着はすぐに乾きそうだった。
*
お盆を過ぎたと言っても午後の日差しはやっぱり夏。
またおばあちゃんの帽子を借りないとな、と思って坂を登る。あと三歩で登り切るというところで「紗世!」と呼び止められた。
驚きのまま振り返ると見慣れた制服の女子がいた。
「え、
「あーよかった。迷ったかと思った」
「なんで」
藍衣はまるで学校の廊下を歩くみたいにして近づいてきた。私も少し坂を下ったけど、藍衣がしっかりメイクしているのが分かって足が止まる。自分の洗いざらしの顔とか、草取りするからと気の抜けた格好をしているのが気まずかった。
「紗世のウチってそっち?」
藍衣はスマホと周囲を見比べた。なんで、と呟いた問いに答えがなくて胸がもやつく。
「あ、ウチはここだよ」
「えー? どこ行くの?」
「近所の家。留守番頼まれてて」
留守番? と、藍衣が不思議そうな顔をした。
おかしいと思われた、と焦る。
「あ、仲が良い家で……。宅急便来るからって」
「へぇ。じゃあ私も行くよ」
え? 私が反応する前に、藍衣は「こっち?」と私を追い抜いて歩き始めた。
「夕方まで暇なんだよねー」
「あ、でも……」
いいのかな、と思った声が届いたように藍衣はすぐ振り向いた。
「もしかして他人に厳しい家? ならやめるけど」
『厳しい』と聞いて咄嗟におばあちゃんのことが浮かんだけど、すぐに辰おじさんや祐は大丈夫そうだと思い直した。
「たぶん……大丈夫」
「なら行こう」
教室での藍衣は強引だけどギリギリのところで空気を読んでくれる。助けられることも多いけど、わざわざウチに来るほど仲がいいとは思ってなかった。
私は少し混乱しながら小走りで藍衣の隣に並んだ。
私は藍衣を客間に通した。麦茶のグラスを盆に乗せて。でも藍衣が「美味すぎる」と一気に飲み干してしまい、結局今はピッチャーごと彼女の前に置いてある。
「ある分飲んでね」
「ありがと。……ここって、紗世の家じゃないんだよね?」
「うん違うよ」
「留守番って、多いの? 普通、他人の家の台所って勝手に入れないと思うけど。めっちゃスムーズに麦茶出てきたし」
確かにそうだ。
何にも考えてなかった。ここが祐の家だと自覚して戸惑う。
なんて説明すればいいんだろう。
「ま、いいや。仲良いって言ってたもんね。それより具合どう?」
「あ、うん。もうなんともないよ」
ショート動画みたいに切り替わった話題にホッとする。
「だよね。かなり元気になった感じする。顔色いいよ」
「そうかな」
「うん。休み前とか真っ白だったから」
結構みんな心配してたんだよ。
藍衣はスマホを持った手を伸ばしてテーブルに突っ伏した。腕に頭を乗せてこっちを見る。私は見上げられてそっと顔を俯けた。
「講習も模試も来なかったじゃん。インスタは返事が来てたけど」
「ごめん」
「いや別に責めてないでしょ。謝らなくていいし」
その瞬間、いつもの『学校』が藍衣の周囲から広がるみたいに鮮明になった。
グループの誰かが私に何か言う。それは簡潔な感想だったり意見だけど、私ははっきり返せずに笑って誤魔化す。それで話が流れればいいけどダメだと藍衣がさらっと取りなして、最後に私は黙るか謝る。
その繰り返しの日常、つまらない授業との螺旋。
楽しいとも、楽しくないとも言えない記憶。
「じゃあさ……明日から学校来る?」
きれいに整えられた眉が少しだけ歪んで、目蓋に乗る細かなラメがささやかに光った。少し色の薄い茶色の瞳が真っすぐ私にそそぐ。
言葉に詰まりそうになった。でも、
「うん。行くよ」
と答えた。声の割にきっと伏目がちで弱々しい顔をしたと自嘲する。
「よかった」
ちょっとホッとしたわ、と藍衣は眉を下げた。
「記述模試さぁ、受けてるの理系ばっかで気まずかった。紗世が来ると思ってたのに」
「う……ごめん」
「だから……ま、いいか。ちょっとは罪悪感持ってよ。来なくて寂しかった人もいるってことだから。再来週にマークあるからね」
ぼんやり返事をしながら、私は『寂しい』を口の中で転がしていた。本当にそんな風に思ってくれていたんだろうか。
すると「あーダメさいあく」と、藍衣が両腕を枕にしてテーブルにうつ伏せた。
「勉強の話なんかしたくないのに模試の話になってるし」
「うん」
「はぁ。やだなぁなんで受験なんてあるんだろうね」
「そうだね」
「……てか紗世は留守番て、何してたの。スマホ見てないでしょ」
「あ、えぇと。草取り」
「は?」
起き上がった藍衣の、見開かれた目はアイラインできれいに縁取られていた。私は正直に話したことが気恥ずかしくて目線を逸らした。
「いやその、庭の」
「いいじゃん。私もやる」
え? 今度は私があんぐりする番だった。
「あー制服じゃ無理だわ。紗世、なんか服貸して」
おかしなことになっちゃった、と思ったのはほんの一瞬だった。
「よし。背の高いのはこのくらいにして、紗世はとにかく鎌で雑草の根っこを掘りまくって」
「う、うん!」
藍衣には私が着ていたUVカットの薄パーカーとジャージの下を貸して、私はまたおばあちゃんの割烹着と祐の物らしいジャージを拝借していた。
藍衣は地面に這いつくばるようにして私が掘った根についた土を払っている。その手慣れた様子に思わず感心する。
「藍衣、なんか慣れてない?」
「まぁね。小学生のとき、じいちゃん家に泊まりに行くと必ず草取りさせられてさ。お小遣いほしさにガチでやってた時期あったから」
「そっか」
「てかこの広さでここまで荒れてんのヤバいでしょ。よくやろうと思うわ。あ、その草の根っこ、横に繋がってるから気をつけて」
「わ、分かった」
ほら手を動かす、終わらないよ! はい!
私たちは部活みたいに声を出してから、一心不乱に作業に集中した。
バタンと車のドアの音が鳴って、藍衣が「げ」と言った。
「ヤバい。今、何時だろ」
「え、あ……すごい!」
いつの間にか庭の三分の一の地面が見えていた。掘って引っこ抜いたその縁には草の山がいくつもできていて、まるで山脈みたいに並んでいる。埋もれたようになっていた百日紅も、もう少しで姿を現しそうだ。
「すごいよ藍衣! こんなにきれいになってる!」
「……紗世って、地味に体育会系だよね」
「え?」
「なんでもない」
見下ろすと藍衣の鼻の頭には汗が浮いていて、もうメイクなんてお構いなしの顔。暑さで真っ赤な頬を藍衣が拭うと、私のこめかみからも汗が垂れた。
「はーさすがに疲れた。シャワー借りたいわ」
「うん。あの……藍衣、手伝ってくれてありがとう」
「いいよ。私も久々に汗かいて楽しかったし」
藍衣が笑ったから、私も笑った。立ち上がった藍衣が「いてて」と膝を伸ばしたのを見て、「私もそれ、さっきなった」「ババアじゃん」と笑い合う。
そのとき、
「紗世!」
唐突な大声に私と藍衣は目を瞬かせた。
門の方から祐が慌てた様子で玄関に走り去った——と思ったら、私たちを見つけて今度はこっちに駆け寄って来た。すごい勢いで私は肩を掴まれた。
「紗世! お前……全然連絡取れねぇから!」
「え、あ。スマホ置きっぱなしだった」
「心配すんだろ! マジでお前もうちょっと危機感」
藍衣が私の腕を引っ張った。
「紗世、何こいつ。上から過ぎて引くんだけど」
「あ?」
両腕を絡めて「うざい」と祐を睨みつける。
すると祐は私にぐっと顔を近づけて、目をつり上げた。
「藍衣、祐はここの家の人だよ……」
「お前、誰だよ」
「えと祐、藍衣は友だちで」
「あんたん家の庭掃除を手伝ってやったのに。その態度はないわぁ」
「あ?」
藍衣が人を煽るのを初めて見た。しかも男子に。どうしよう。
肩が砕けるか腕がちぎれるか。私がやじろべえみたいにふらついたとき、母さんが庭に入ってきた。
「あらーこんなにきれいになって! すごい、偉いじゃない紗世!」
ほっこり顔と手にいくつも紙袋を提げているところを見ると、どうやらモールに買い物に行ってきたんだろう。遅くなった理由が分かった。
祐が母さんを振り向いた瞬間、わずかに手の力が緩んだ。今だ、と叫んだ。
「母さん! ウチのシャワー! 友だちに貸すからぁ!」
祐が驚いたようにギョッと目を見張った。
こんな大声は、テニス部以来だったかもしれない。母さんは祐の影に隠れた私をひょいと見て、
「ちょっと紗世、その格好まるでおばあちゃんそっくり!」
とゲラゲラ笑った。
母さんに毒気を抜かれたか、私の肩も腕もそれでようやく解放された。
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