21.変わりたくない

 祐の庭がきれいになってから五日。

 金曜夕方、久しぶりのフル登校を終えた。帰りのバスで寝てしまうくらいにはへとへとだ。

 硬い窓ガラスに頭を寄せて、意識の遠くで押しボタンの音が鳴るのを聞く。

「起きろ」

 あぁバス停が近いんだ。眠い。

 抗えない目蓋の重みが憎い。

 祐が私の肩を揺する。分かったからもうちょっとだけ。

「もう着くぞ」

 ピンポーン、と鳴ってから私はようやく目を開けた。ピンクパープルの押しボタンが私を囲むように光っていた。目蓋が乾燥してるみたいにごわごわする。

「おい、紗世」

「……分かってる」

「毎日これじゃお前、かなり体力ねぇな」

 うるさいと思いつつ黙って目を擦った。見慣れた神社の前を通り過ぎる。みんな降りたのか他には誰も乗ってない。でも祐は私の隣に座っていて、窮屈そうに片脚を伸ばしている。

 そう、祐とは毎日一緒に登下校していた。

 朝迎えに来て駅で別れて、帰りはまた駅のバス停で合流する。そしてご飯のあとは私の家か祐の家で課題をする。

「今日は親父がいないから、俺の家な」

「……うん」

 反応が遅れてしまう。

「なんだ大丈夫か」

「ねぇ祐」

「あ?」

「ええと……今日は、数学?」

「英語と化学もある」

「うん」

 週末課題たくさん出たんだろう。今日の勉強会は九時過ぎそうだなと思う。

 私たちは空っぽのバスを降りた。

 ……やっぱり言えないや。

 実は、朝はともかく帰りまで『一緒じゃなくてもよくない?』と伝えるのを、私はもう何度も飲みこんでいる。


 水曜のことだった。バス停からはちょうど見えづらい位置にある、以前も長居したスペースで私は藍衣とおしゃべりをしていた。

 そのとき偶然、祐がバスを乗り過ごしたのを見た。

「……あいつ紗世を待ってたんじゃない? キモ。ストーカー?」

「エェ」

「一緒に帰る約束してんの?」

 間に合わなかった様子ではなかった。むしろ、列が短くなるのを一番後ろで眺めるようにして、そのままバスを見送っていた。

「してない、けど……」

 祐はすぐにバス停を離れて、私たちの見える窓のフレームから消えた。

「チャットとか来てないの?」

「祐はスマホ持ってないから」

 藍衣が目を剥いた。相変わらずアイラインを引くのが上手い。さっき指で薄く塗っていたシャドウも似合っていた。

「嘘でしょ」

「ホント。それにさっきのは……何か用でもあったんじゃない」

「えー持ってないとか、ある? マジ?」

 藍衣は苦々しげに脚を組んだ。太腿がちらりと見えてどきっとする。

「確かに。スマホないなら、ここで待つのが合理的だわ」

「うん?」

「紗世、まだヤッてないよね?」

「やる?」

「あいつと」

「やるって……えっ! ヤッてない! 何言って」

 声デカいよ、と藍衣が冷めた目を向けたから、私は顔を隠して小さくなるしかない。

「何だっけなんか気になるんだよな」と呟く声がしたけど、明確な問いじゃなかったし無視した。

 大声出して恥ずかしい。ってかヤる訳ないじゃん、話が飛びすぎだよ!

「まぁ、紗世がいいなら。べったりされんの嫌になったら離れなよ」

 藍衣は面倒くさそうにそう言って、あとはインスタで上がってたリップの話をし始めた。


 結果、藍衣は鋭かった。

 二十分後、藍衣と別れた私はやっぱりバス停で祐と行き合った。

 あとから来た祐は私の腕を急に引っ張り、私を三番目から一番後ろに連れて行って言った。

「お前遅せぇ。明日はひとつ前で帰るぞ」

 確定した。

 ホントに待ってたんだ……。

 とはいえ勝手すぎる行動に呆然としていると、当たり前みたいに祐が言う。

「今日はお前ん家な」

 前に並んでいたM高の子がちらっと振り向いた。目が合ってしまい、なんて思われたんだろうと焦って返事ができなかった。誤解だと念を送る。

 藍衣が変なこと言うから! やってるのは課題だよ!

 それでバスを乗り継ぐ頃には、この『べったり』に対策すべきかどうか私は真剣に悩み始め——木曜の朝、課題をし終わった夜。今朝、そして今。

 まだ伝えようか伝えまいか悩んでる。


 古文の単語が分からないふりをして、単語帳を開く。登場人物が嘆くだけの場面は気が滅入って集中できなかった。

 付き合ってもないのに毎日一緒に登下校して帰ってからも一緒に課題をやってるのは、確かに距離感がおかしい。私も他の女子が同じことをしてたら、ただ仲がいいだけとは思わない気がした。いくら「違う」「友だち」と言い張ってても、内心好きなんじゃないのと勘ぐってしまう。

 ってことはこの状況って周りから見たら変、だよね。

 藍衣の探るような視線を思い出した。

 祐のことをどう思ってるか聞かれたら、なんて答えよう。 

 ——だって難しい。

 私の、祐に対する気持ちを言葉にするのは。

 うまく分類できない。きっと、それは祐も同じなんだと思う。

 テレビで芸人が「人と言う字は」ってネタをやるときの話に似てる。私は当分、祐を支える方の二画目でいようと思ってた。だから、祐がそうしたいならそのままでいいような気がしていたけど、他の人から見ればおかしなことなんだと気づく。

 それでいて、きっと私たちは他の友だちとは共有し合えない想いや経験をしてると、驕りのような気持ちもある。バス停で身勝手に腕を引っ張る権利があると、きっと祐が思ってるのに似た。

 だからきっと。きっと口に出したら祐は怒る——傷つく気がする。


 だから私は言いかけて言い淀む度、藍衣のため息が聞こえる気がしている。

 必死にmolモル計算する祐のつむじをそっと眺めた。

「それ、そんな難しいのか」

 わっと跳びあがりかけた。祐は顔を上げないままで言った。

「お前、国語得意じゃねぇの」

「う、うん。えと……なんか気が合わないというか。あるでしょ、二ページくらいで読み進められなくなる本」

「あんま小説とか読まねぇから、大体それだわ」

 あーでも、と顔が上がって見下ろされる。

「現国の教科書で読むの放棄したやつある。展開が嫌すぎて」

「へぇ。何?」

「なんか女の髪抜いてさ……いいや、わかんねぇ」

 すん、と祐の表情が抜け落ちた。

 ほらこういうときだ。祐が日常の中で苦しんでると思うのは。


 私は曲げていた膝を伸ばしながら太腿をさすった。デニムの硬いざらざらが私を守っている。安心する。

 古文は閉じた、英語に切り替える。

 私はもう少し黙ってようと決めた。



 ◇



「父さん、なんか痩せた?」

『しっ! 母さんに聞こえる! 面倒であんまり食べてないのがバレるだろ』

「いやもう絶対バレてるよ」

 画面に映る父さんは明らかに衛生度も下がってる。背景も荒れてる。

『僕のことはまぁいいよ。紗世は元気そうだね』

 うん、と答える。

『お、反抗期も落ち着いたかな』

 ニヤリと笑う無精髭がウザい。

「そういうのいらない。切るね」

『待ってごめん、調子に乗ったのは謝るから!』

 母さんとはほぼ毎日連絡し合ってたらしいけど、私とは半月ぶり。仕方ないので私はマウスから手を離した。

『それで紗世は本当に元気かい?』

 静かな口調に、私は肩をすくめた。

「まぁね。……おばあちゃんにも謝ったし、祐とも仲直りしたよ」

『聞いたよ、頑張ったね。庭掃除もしたとか。母さんから聞いて感激した』

 大袈裟、と思ったけどちょっと口が歪んでしまった。草取りを褒められるのは純粋に嬉しい。

 父さんは目を細めると、コーヒーかなにかをすすった。珍しく言葉を溜めてから苦笑して言った。

『草取りは贖罪? それとも同情?』

 ハッとした。じっと見返した。

『少しは心が軽くなったかい?』

「父さん」

 今度は睨む。

「嫌なこと言わないで。ホントに切るよ」

『軽くなったんなら受験に集中しなさい』

 何を言われても言い返そうと思っていた声がグッと止まった。

「そんなこと……分かってる」

『僕も「勉強しろ」なんてあんまり言いたくなかったけど。君は今、人生で一番机に向かう時期かもしれないよ』

 自分のためにね。

 開けた窓から風が吹きこんだ。もう夜風は涼しい。時々、秋の虫の声も聞こえてくる。

『無理強いはしない、君の人生だから。でも、以前のことに少しはケリがついたならあと半年だけ本気で勉強してごらん』

 D判定はまだ母さんに見せてなかった。来週、模試があることも黙っていた。言うつもりではいた。でも、祐と課題をしてると寝る時間になって——。

「今週は忙しくて課題で精一杯だったけど、来週からはちゃんと」

『うん。言い訳は通用しない事実だけの世界になってくる。大方そこは外側が重要視される世界だよ、不愉快なことにね。正直、父さんもうんざりしてるんだ』

 父さんは席を立つと荒んだ部屋を横切ってすぐに戻ってきた。目の前でポットからコーヒーを注ぐ。

『ごめん紗世、半分ヤキモチだよ』父さんが視線を合わせないまま目尻を下げた。 混乱して、ただ肯いた。

 私いま、祐を言い訳にした。

 ずんと頭が重くなる。でも平気な顔をしなきゃと思って「なんで、ヤキモチって?」と返事をした。

『そりゃ君の可能性と……だって最愛の妻も娘も、辰くんと祐くんのことばっかり! 聞く話によると君は祐くんと毎日仲良くしてるって? それにいくら父さんが離れて暮らしてるからって母さんは他の家に肩入れしすぎだし、辰くんも甘えすぎだと思わない? 』

「それは……ごめん、父さん。私が母さんに頼んだから」

『いや君の行動は賞賛されるべきことだ、誇って紗世。でもズルい、清子とモールで買い物するのは僕の役目なのに!』

「うん……じゃあ、切るね。勉強、するから」

『あっ紗』

 指に力が入って、退出をクリックしたとあとさらにミュートになった。

 タブを消すことすら億劫で、私はそのままベッドに飛びこんだ。



 土曜になっても、私はベッドから動かなかった。食欲もなくて水で誤魔化した。藍衣からのチャットとか母さんが買い物に誘ってきたりとか、祐から電話が入ったりしたけど全部断った。時々インスタを見てネットニュースを見て昼寝した。勉強はできなかった、する気にならなかった。こんなに勉強したくないのは初めてだな、とぼんやり思いながら。今日だけ、今日だけ。

『だる』

『塾』

『草取りしたいw』

 分かるよ藍衣。あの暑くて汗だくの、目の前には引っこ抜く草だけの庭に戻りたい気持ち。そっか、燃え尽き症候群なのかも。でも藍衣は塾に行ってるすごい。

 そんな風に冷房の効いた部屋でタオルケットをかぶって丸まる。

 何度か家電が鳴った。インターホンが鳴って、鳴って静かになった。

 なんか、全部どうでもいい。

 頭もお腹も痛い気がして目をつむる。でも真っ暗でちかちかする目の裏から気を逸らすと、浮かぶのは昨日の父さんの顔と『D』の字。祐のつむじと、草取りをしたときの藍衣の背中。模試の日程表、教室、廊下あぁ見ないふりをしてたけど、夏休み前と空気が違ってたのに。調子に乗りがちな男子も、授業中に隠れてスマホばっかりしてた女子たちも……。


 目をつむっているのに眩しくてぐらぐらするような心地で、私は一日中部屋から出なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る