22.ひとり

 窓から差す光とは裏腹に月曜の教室のトーンは暗い。

 あまり仲の良くない人たちがこちらを見てすぐに視線を戻す。私は居心地の悪さと、無理に声を張らなくていい安堵を抱えて板張りの床を静かに進んだ。

 地学の小テスト、現文は課題提出、放課後に委員会——さざめく情報の隙間に私は着席して、バッグから週末課題と筆箱を出した。

「おはよ。今日はやくね? ってか顔色悪くない?」

 ちょうど教室に入ってきた藍衣がびっくりした顔で寄ってきた。

「うん……土曜からちょっと具合悪くて」

「休めばいいのに」と私の前の席に座った。頬杖をついて眉を寄せる。

「じゃあ今日はやめとく?」

「ううん、行くよ。母さんにも言ったし」

「そう? どうせほぼ毎日行くから、私はいつでもいいから」

 気を遣われてると感じて、「ありがとう」と答える。

「私も……そろそろ塾、考えなきゃって思ってたから」

「ならいいけど」

 話を止めたくて「課題出してくるね」と私は席を立った。他の女子と目が合って挨拶をしつつまたすぐ席に戻る。見れば藍衣はいなくなってて、トイレかどこかに行ったらしい。


 今朝も頭痛がして調子が悪かった。でも無理してバスに乗ったらひどく酔ってしまい、商店街の乗り換えのタイミングで母さんに迎えに来てもらう羽目になった。こんなに不調なのは久しぶり。

「変に早く起きたからじゃないの? 体調悪いなら休んでいいのに」

 心がぐらついたけど、やっぱり駅まで送ってもらった。そうして、いつものバスが駅に着く時間には正門をくぐっていた。

 祐には黙って早く来た。会わないように。

 帰りも藍衣の行ってる塾へ見学に行く。遅くなるつもりだった。


「で、どうだったの塾は」

「んー」

 慣れない場所で勉強したせいか、すごくお腹が減っていた。ご飯をおかわりすると母さんは少し嬉しそうに「珍しいじゃない」と出来立ての唐揚げをひとつ菜箸で運んできた。

「母さん塾って行ったことないから分かんないのよね」

「私も今日行ったばっかりだし……自習スペースは静かで結構集中できた」

「いいじゃない。授業も体験してみる? したいなら電話するけど」

 母さんはさっき渡したチラシを見て「あら無料だわ」とかぶつぶつ言ってる。

 そっか、お金のこともあるよね。

 パンフレットもちらりと見ただけで料金のことなんて考えてなかった。塾って高いんだろうな。


 正直塾は、祐と距離を取るためと父さんへの当てつけ。

 でも私の予想外に話はスムーズに進んでいて、少し戸惑ってもいた。明日も自習に行くことになった。もちろん今日の課題はいつもの半分の時間で終わったし、自習用のプリントをもらって得たものもあったから嫌々ではないけど。

 自習スペースにいたM高の制服を見たとき。先生が親切に解説してくれるとき。漏れ聞こえる授業の声を意識したとき。

 本当なら……祐こそ塾とかで教えてもらった方が——と、思わずにはいられなかった。

 私は咄嗟に首を振った。思考の流れで当たり前みたいに祐の顔が浮かんできたから。その拍子に舌を噛んだ。

「うぅ」と悶えた私は、熱心にパンフレットを見る母さんに気づかれないよう、そっと茶碗を持ち上げた。



 翌朝も、水曜も。私は早く登校して遅く帰った。祐に何も言えずに。

 祐からも、何もない。

 ほら、大丈夫。でも連絡した方がいいんじゃない?

 その二つの間を揺れながら、私は結局逃げた。授業について行くのに必死だったのもある。毎日の小テストは私が休んだことなんて関係ないし、二学期に休んだ分は二学期の定期考査の範囲になる。

 母さんが時々もの言いたげに私を見るのに知らぬふりを貫いて木曜を終え、金曜の夜、私は藍衣と同じ塾に入ることにした。

 とにかく十一月までにB判定まで上げる。次の模試の結果次第で他の志望大も検討する。週に二回、PCで予備校の授業を視聴しにいく。その他の日はできるだけ自習に行くと決まった。

 ホッとした。

 これで祐に「塾に行くから帰りは別」と話せる。それなら朝は一緒に行ってもいいかもしれない。週末だけなら一緒に勉強してもいい。

 でも申込書を書く母さんの肩越しに、私が今から受ける授業料が電卓に映ったのを見た。その額の大きさに驚いて、これから自分がその金額分を消化すること志望大に受かることを宣言したのと同じなのだと、今更ながら突きつけられる。

 先生の話も母さんの声も、全部自分のための話なのにどこか遠くて聞こえづらかっった。私は懸命に肯いた。そうしないといけなかった。

「帰ったらすぐ寝なきゃね。明日早いでしょ?」

 次の模試は明日。

 夜の山道に帯のように並ぶガードレールの白を目で追う。途切れて続いて、途切れて。カーブを曲って、また続く。でも長いそのリズムは登坂が終わった途端、消えた。窓はただの黒に塗り潰された。


 ――模試一日目、私は打ちのめされた。

 問題用紙は無秩序に汚れて行くのに解答用紙はいつまで経ってもきれいなまま、気づけば制限時間になる。その繰り返しだった。

「あーあ! 数Ⅱ、終わったわ」

 藍衣の声は台詞とは裏腹に明るい。

「私も……微積、全然できなかった」

「化学はまぁ、前回よりは基礎だったからいいけど」

 そうなんだ。

「明日の英語、取れる気がしない」

 私も英語は全然勉強してない。絶対書けない。

 重い気持ちのまま聞いた。

「ねぇ藍衣。英語って何の勉強すればいいの?」

「んー、ミタちゃんの受け売りだけど、英語は積み重ねだから私はいつもの単語帳と参考書の続きをやるかなぁ。国語と一緒でどんな文章出るか分かんないしね」

「そっか」

 ミタちゃんは藍衣の担当の塾講師。

「あ、でも、ヤマは張るよ。今回はたぶんねー……」

 藍衣と話せば話すほど、自分が何の勉強もしていなかったと感じる。


 これまではどうして平気で受けていたんだろう。何も疑問に思わず、分からないことすら受け流せていたんだろう。

 苦しくて、でも藍衣の前では笑って、私はひとりバスに乗った。

 初めて、隣に祐がいればよかったのにと思った。



 ◇



 一週間の早起きの成果で、バスの時間には余裕がある。

 バッグから単語帳を出してめくっていく。昨日の英語は予想通り最悪で、かえって笑えるほど。今日から真面目に単語帳をやり直すことにした。

 古びたベンチは静かで、道路に直線的な影を作っている。まだギリギリ八月、今日も暑くなりそうだった。

 誰かの足音が聞こえてきたけど、私は単語帳に集中するフリをした。聞き慣れたリズムだと思っても、自分から声をかけるのは気まずかった。

 五歩手前で音が止んで、辺りは静まり返った。耐えきれずに私はそろりと顔を上げた。

「……どうしたの」

 祐の顔はむくれた子どもみたいだった。唇を尖げて曲げて、眉間に皺を寄せて。私を見ていた。

「お前」

 掠れた声に低いエンジン音が重なった。祐の背後から角を曲がったバスが姿を現していた。

 顔を見るまで祐は怒ってると思っていた。私をなじって、でも当たり前みたいにまた手首を強く掴むんだろうと思ってた。また元通りになると思っていた。

 ちがった。ごめん祐。

 私は単語帳をバッグにしまって、祐に向き直った。

「バス来たよ」

「……」

 バスが重たげに停まっても祐は突っ立ったまま。

「行こうよ」

 私は祐の手首を取った。私がいつもされるのと同じ、ぎゅうと掴んで引っ張ろうとした。でもやってみると手首は太くて私の指はまるでクレーンゲームのアームみたいに引っかかっただけ。

 でも祐は大人しく引っ張られて、いつもの席に大人しく座った。


 長い手足を投げ出すようにしてうつむいて、右手だけは私の膝の上で釣られたようになって、祐はしばらく黙っていた。私も手を離すタイミングを逸して、誰か乗ってくるまではとそのままでいた。

 バスは揺れて山道を下る。

「バチが当たったと思った」

 祐が呟いたのは、次のバス停で三四人乗ってくる直前だった。

「ホントはお前と一緒じゃないと学校なんて行きたくなかった。家にも帰りたくねえ。世話焼くフリして頼ってたのは俺だ。お前が何も言わねぇのに胡座かいてた」

「祐、」

「塾行くんだろ。受験だもんな」

 がんばれよ。祐はこっちを見ない。

「でも、たまにでいい……月イチでも、ばあちゃんに会いに来てやってくれ」

 嘘をついてる。

 だって祐はおばあちゃんに会いに来いなんて言う訳ない。まだ部屋に入るのがやっとな私に、そんなことを言うはずない。

 バスが停まって人が乗ってきた。祐は倒していた体を伸ばして、私から手首を取り返した。

「今日だけ駅まで送る」

「祐、あの」

「いい。しゃべんな」

 ピシャリと水をかぶせられたような心地で見上げた。さっき見たむくれ顔はもうどこにもなくて、機嫌が悪くて頑固で自分勝手な祐の顔になっていた。

 だから私は黙った。

 しゃべんなと言われたからじゃない、今はしゃべりたくないと思ったから。

 バスを乗り換えても、祐は言った通り私から離れなかった。甲斐甲斐しく私を優先して自分だけつり革に摑まった。でも一度も目を合わせはしなかった。


「じゃあ気をつけろよ」

 同じ制服の人波を堰き止めるようにして祐は出口で立ち止まった。私はただ「うん」と言って背を向けた。

 言いたいことはバスに乗っていた時間分、胸に溜まっていた。何度も、人がいようといまいと、口から出そうになるほどに。

 でも我慢した。

 だって私が悪い。先に逃げたのは私。

 祐はその結果、距離を取ることにしただけ。だから私は「朝は一緒でもいい」なんて言えない。上から目線すぎた、声に出そうとしてた昨日の自分を殴ってやりたい。『贖罪? それとも同情?』父さんは鋭い。そうだその通りだ、私は祐を可哀想だと思ってるし、脚のことで罪悪感も持ち続けてる。親に頼んで他人の家を何とかしたいなんて、普通は大それたことだって口を挟んじゃいけないことだって分かってる。でも祐は——!

 だから私は——!

 怒りかなにかで脚がもつれた。スカートのひだが膝を強く擦って私は立ち止まった。体感よりも全然学校に近づいていない。地団駄さえ踏みそうになって、私は振り向いた。真っ直ぐ歩いてなんていられなかった、そうしなければ叫び出したいくらいだった。

 ――祐はまだ同じ場所にいた。

 目が合って少し見開いたそれに、私は確かに映りこんでいると知る。

 私の脚は勝手に波に逆らった。

 スマホを見ながら歩く男子にぶつかりそうになっても、女子グループから意味ありげな視線を投げられても。

 変に真っ黒な髪の真っ黒な制服の、まるで置物みたいに立ったままの祐に向かって。

「こっち」

 引っ張った手首は体ごと従順についてきた。おい、と弱々しい声を上げながら。

 だけど、私は——。



 いつも藍衣とおしゃべりする駅ビルの隅のベンチには誰もいなかった。みんな学校や仕事に向かうのに忙しくて私たちに気づく人はいなそうだった。それにガラスを隔ててみると、別世界の出来事のように感じられた。

「なんだよ、お前学校だろ。間に合わねぇぞ」

 口調の割に弱々しい声。

「それは祐もでしょ」

「俺とお前じゃちが」

 違わないよ。

 遮ると、祐の目は見る見るつり上がった。

「うるせぇ、さっさと行けよ。マジで遅れんぞ」

「……分かった」

 私はスマホを取り出して、素速く藍衣に文字を送った。

「はい、これで大丈夫。祐も電話するなら貸すけど」

「あ? お前ふざけん」

「ふざけてるのは祐だよ! 勝手に解釈して突き放さないで」

「それはお前が朝も帰りも急に」

「そうだよ、だってフツー付き合ってもないのに毎日一緒にいるのは変でしょ! 家の周りならいいけど、駅とかでみんなに誤解されるのは嫌だよ」

 私と祐はほとんど睨み合った。

「そうかよ」

「それに私、判定ヤバいの。合格ラインなんて遠すぎてどうにもなんない。昨日の模試も自己採点低すぎて落ちこんでる」

「……紗世」

「母さんに祐の家のことお願いした手前、私だって何かしなきゃって思って草取りもしたし、祐の課題も手伝いたいと思った。でもずっとは無理だよ、だって私、そんなに器用じゃない。祐に教えながら受験勉強なんて無理なのに、祐に教えてって言われたら断れるわけないじゃん。朝も帰りも別に嫌じゃないけど、一緒にいたら私」

 紗世。視界が祐でいっぱいになった。

 顔も体も熱いのに、ますます暑くなる。でも私の言葉は止まらない。くぐもって、祐の制服に吸いこまれていく。

「祐のことばっかりになっちゃうから時間ずらしたのに。昨日はひとりで帰るのが、辛くて」

「うん、俺も」

「朝だけなら一緒でもいいかなって思ったのに」

「じゃあ朝だけでいい」

「でもやっぱり変だよ距離感おかしいもん……それに祐の勉強が単位は」

「そんなんいい。どうせ俺は」

「ダメだよぉ!」

 怒りはいつの間にか泣き言になっていた。

「なぁ紗世」

「祐だってホントなら一緒に卒業して……や、やっぱり私」

 なぁ聞けって。

 祐の手があんまり優しく頭を撫でるから、私は口を噤んだ。実際、何を言いたかったのか分からなくなっていた。もっと冷静に話すつもりだったのにと、温もった金ボタンから頬を離した。

「悪かった。俺はお前がイヤって言わないのを知ってた。お前お人好しだから、俺に優しくしなきゃって思ってただろ。一回決めると頑固だし」

 大きな手が宥めるみたいに肩をさする。もう片方が頬を。熱い。

「だから先週……清子さんから『先に行った』って聞いて帰りも全然来なくて、お前に嫌われたって思って」

 私は違うと言おうとした。でも祐の手が突然私の口を覆って「んんー」しか言えない。

「……ホッとした。お前が俺を嫌いになってお前が一緒にいたくないなら、俺は一生我慢できる。無理にお前の帰りを待ち伏せれなくなる……ハハ、俺だって不審者になりたくねぇし」

 お前を苦しませたくねぇし。

 微妙に逸れていた視線が私に降る。

 なぁ紗世、と呼ばれて私は肯いた。祐の目は溶けそうに赤かったから。

「今日お前がバス停にいて、夢かと思った」

 私が祐の手の下で名前を呼ぶと、祐はくすぐったそうに目を細めた。手がしっとりと離れて、すぐ髪を梳いた。

「距離感バグってんのも、お前が気にすんのも分かる。だから……でもお前がいいなら、夏が終わるまで」

 私は子どもみたいに「夏?」とおうむ返した。

「うん。夏が終わるまでは俺に優しくしてくれよ。朝だけ一緒にバスに乗って、週一くらいで勉強教えてくれ。お前の暇なときでいいから飯とか食いに来いよ」

「なんで夏まで、なの」

「だって花火する約束だろ。でもお互い勉強もしねぇとダメだし。嫌か?」

 嫌じゃない。でもなんかそれ。

 言葉にならない何かが伝わったのか、祐は口の端を上げた。ちっとも楽しくなさそうに。

「それとお前、嫌だと思ったら主張しろよ。なんでもかんでも許すな」

 両手で頬を引っ張られた。

そりぇはたふくがほうやっへそれはたすくがこうやって

「あ? ほら嫌って言ってみろ」

やめてほひいけほ、いひゃやないやめてほしいけど、イヤじゃない

 そのときの私はきっと、ひどい顔だったと思う。汗で日焼け止めが浮いて頬を引っ張られて、目を赤くして上目で睨んで——でも祐はその日初めて笑った。

「お前かわいい」

 嫌と言えなかった。言う前に、祐は私にキスした。

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