23.反省する

 ぺちん。

 反省してる。言いづらくても伝えればこじれたりしなかった。おばあちゃんのことで学んだはずだった。

 ぺちん。

 いくら頭に血が上ったって、駅の、なにも公共の場所で話すことなかった。公共の場だよ、家じゃないんだよ。

「紗世、だいじょぶ?」

「今は、自分を……痛めつけたい気分」

「いやもう叩いてるじゃん。おでこ、赤くなってるよやめなよ」

 藍衣が私の方に手を伸ばした瞬間、あのときの映像がよみがえった。ぺちん! 

 とにかくすごく反省している。


 塾の自習ブースはとにかく静か。ほぼ紙の擦れる音やシャーペンが滑る音だけ。いつもはすごく集中できるのに今日は全然ダメだ。

「藍衣、私今日は帰るね」

 ファーストキスを不本意な形で奪われて、いつも通り勉強できる人なんてきっといない。今日は諦めよう。

「……じゃあ私も。今日ミタちゃんいないし授業ないし」

 私たちは連れ立って駅まで歩き、自然といつもの場所に落ち着いた。いや落ち着かない、だって今朝ここで祐に……。

「それで紗世は、あいつと何があったの」

 私はバッグを取り落とした。

「ないよなにも!」

「嘘」

 ふーん、と藍衣は長く鼻から声を抜いて「分かったやっと進展したんだ」と長いまつ毛を瞬かせた。

「まぁ受験に差し障りのないように付き合いなよ」

「付き合うなんてない!」

「……は?」

「あ、あれは大型犬がちょっとじゃれたくらいのスキンシップだから付き合うとかじゃないよ! 夏が終わったらもう一緒に登校とかもしないし!」

 そうだ、犬が飼い主を好きでちょっと口を舐めちゃったくらいの行動。他に事情を知る人がいないから私にくっついてるだけで、私たちは恋愛関係なんかじゃない。夏が終わるまでの――。

 すうと興奮が冷めた。

「紗世?」

「ちがうよ。祐は、私に変にこだわってるだけ、だから」

 ふうん。藍衣は制服のポケットからスマホを出した。

「まぁ仲が悪いよりはいいんじゃない」

 こだわってる、ねぇ。画面をスクロールしてる。

「なんでもいいけどムリヤリなら殴りなよ。嫌だと思ったらすぐ」

「うん……分かった」

 思ったより強い口調で藍衣が言うから神妙になる。

 「あ、ほらバス来たんじゃない?」


 バスに祐はいなかった。商店街からのバスにも。

 もし会ったらと思う度、あの瞬間が再生されて持久走のあとみたいに胸がドクドク鳴った。

 私は祐の顔が近づいてくるのには、なんの危機感もなかった。むしろあぁ良かった祐が笑ってる、なんて思ってた。頬を抓っていた手が緩んでシャンプーの匂いが届いた。笑ったままの唇がくっついて瞳も合わさるんじゃないかと思うくらい、私たちは近かった。

 唇が……と脳が理解したときには、私と祐はもうどこもくっついてなかった。真っ赤な顔をした祐が後退りして何か言って解散。

 どうやって学校に行ったかは覚えていない。そのあとの授業も散々。

「かわいいとか」

 頬が自然と火照る。

 バカじゃないの。

 キスする前の笑った顔がまた過ぎる。

 どうしよう。

 祐と私は絶対そういうのじゃ、ない。

 でもどうしよう。嫌じゃなかったんだよ、藍衣。



 「ただいま」と框を上がると、母さんは忙しなく電話で話をしていた。

「うんだからまずはケアマネが家族と話したいって。あたしも同席するつもりだけど……何言ってんの辰くんがいないと話になんないでしょ」「次の休みは……うん、うん」

 おばあちゃんのことだろう。真っ直ぐ部屋で着替えることにする。戻ると母さんが、

「紗世、おばあちゃんの受け入れ先、決まりそうよ」

 疲れ六割嬉しさ四割くらいの表情でサムズアップした。

「そっか」

「辰くん今日夜勤だから、明日のお昼は辰くんの家で一緒に食べることになったから。一時半だって、紗世も行くでしょ?」

「え、いや私は」

「また模試とかあるんだっけ?」

「ないけど……でも」

 はっきりしない私に母さんは「ハァ」とわざとらしいため息を吐いた。

「あのね大人の事情で悪いんだけど、明日は紗世に同席してほしいのよ」

「なんで?」

「うーん辰くんがさぁ、怖気づいてるっていうか……やっぱりこのまま家で面倒見るって言い出したのよ。お金のことは何となく分かったからヘルパーさん雇えば祐くんも楽になるから施設なんて入れなくていいって。実際、今は学校行けてるしね」

 私は眉を顰めた。

「なーんか知り合いからこの辺の施設の悪い評判聞いたらしいのよね。施設の人から暴言吐かれたとか。そんな場所に宮子さんを置けないって最近はその一点張りなのよ」

 暴言? 介護施設って、そんなことあるの?

 母さんが心を読んだみたいに「あるらしいのよ。ニュースの影響もあるかも」と眉間を揉んだ。

「だからね、その辺もケアマネに相談してからだと思うんだけど、『施設には入れねぇから会う必要ねぇ』なんて言って……。母さんとしては、せめて会うくらいはしてほしいの」

「うん、分かるよ。でもそれで、なんで私?」

「さぁちゃんのお願いならワンチャン聞くかもしれない」

 そんなことあるか。


 私は結局、祐の家に行くことにした。

 月曜の朝、二人きりで会うことの方が気まずい気がしたからだった。それに施設の件を祐がどう考えてるのか、もし聞けたら聞きたいと思った。だって家の中で介護するのはきっと祐で、学校にだって支障が出てくるかもしれない。

『こわい』と私に縋りついた祐の真っ黒な髪を思い出して胸が苦しい。


「お邪魔しまーす」と母さんが声を上げると、祐が出迎えて「っス」と頭を下げた。

「すいません、親父まだ寝てて」

「いいのよ。あらいい匂い、手伝うわよ」

 茶の間に入ると、テーブルに所狭しと煮物や焼き物、おひたしが並んでいて、台所からは油の跳ねる音がしていた。

「今すぐにでもお婿に行けるわね」と母さんが呟く。祐はなぜか拗ねた顔で、

「座っててください、あと唐揚げだけなんで」

 と台所に消えた。母さんは手にした紙袋を鳴らしながらそれを追う。漬物を持ってきたから切るんだろう。

 一切目が合わなかった。でも祐が大人の前では塩対応なのは分かってるし、今はちょうどいい。

「すごいなぁ」

 それより感心しかない。祐の作ったおかずは全部きらきら輝いて見えた。ほうれん草のおひたしには鰹節がかかってるし焼き魚には皮目に切れ目が入ってて、まるで雑誌に載ってる料理みたいに整っていた。

 なんとなく座って待つのは嫌で、私はそっと茶の間から出た。心の中で数えながらゆっくり歩く。自分なりのリハビリのつもりで。部屋には入らないと決めてしまえば、意外にすんなり辿り着けた。

 残暑と呼ぶには暑すぎる今日の気温で、閉めきった奥間つづきの廊下は立っているだけで汗が噴きだす。

「誰だぁ?……なんださぁちゃんか、おはようさん」

「あ、おはようございます。す、すみません!」

 咎める声色に慌てて振り向いた。

「なんも謝るこたぁねぇだろ。なんだ、ばあに会ってくか?」

「え、えと……」

 ドスドスと近づいてきたおじさんは事もなげに部屋の戸を開け、「顔洗ってくらぁ」といなくなった。

 おばあちゃんの部屋の匂いを感じながら、私はしばらく突っ立っていた。



「おばあちゃん……失礼します……」

 にじり寄り入った。おばあちゃんは体を横向きにして背を向けて寝ていたので、少し緊張が解ける。震えはほとんどない、ただドキドキするだけだ。それでもひとりでベッドの側に近寄る勇気はなく、壁づたいにまるでヤモリみたいにして動いた。入り口から鏡台、桐箪笥、背の低い本棚——。ふくらはぎに本の角が当たった。

「いったぁ……あ、これ」

 知ってる絵本だった。出っぱった表紙を見ただけで懐かしい気持ちになった。よく見れば本棚の一番下には絵本がたくさん入っていて、その一つ一つには図書館の本みたいに丁寧にカバーがかけられている。

 私は恐る恐る振り向いた。『お願いごとははっきり』と痩せた背中から声がするような気がした。

「おばあちゃん……ちょっとだけ、見せてください」

 細い背表紙だけでも見覚えのある一冊。あったかい色でホットケーキの絵が大きく描かれている。外側はきれいなのに、中のページはそれなりにくたびれていた。手を滑らせるだけで自然に捲れるくらいに。

 素朴な動物たちが女の子をなぐさめようとしてホットケーキを作る。材料を持ち寄って、台所を生地だらけにしながら。

「『ふわふわ ほっとけーきの できあがり』」

 そうしてみんなで食べる。女の子はケーキを見ただけで元気になって大きな口でケーキを頬張る。このページが大好きだった、いつもこれが食べたいとせがんで……。

 何度か作って食べた、本当に生地だらけになった思い出。

 ぼんやりしたまま最後のページを捲った。

『さぁちゃんのお気に入り』

 硬い裏表紙にそう書いてあった。



「だぁかぁらぁ、まずは話聞いてからでも遅くないって言ってんでしょお!」

「俺ぁ信用ならねぇ奴と会う気はねえ!」

 せっかく美味しいご飯を食べたのにケンカが始まってしまった。

 祐のお煮しめは鶏肉が柔らかくて里芋もすごく味が染みていた。唐揚げも揚げたてで、母さんのよりニンニクが効いててご飯がすっかりなくなった。空っぽのお茶碗は勝手に持っていかれてまた山盛りになって戻ってきた。「こんなに食べれないよ」

「いいから食え」と、ついでに唐揚げも小皿に着地してしまって、母さんとおじさんが言い合いをしてる間も胃に血を送るのに忙しかった。つまりお腹いっぱいで口を挟む気も起きない状態。

「こんの頑固者!」

「なんとでも言えやい!」

 ハァ! と勢いのある息を吐いた母さんは祐のいれた緑茶をがぶ飲みした。辰おじさんもライターを出してカチカチし始める。

 でもお茶も煙草も簡単に苛立ちを消すものじゃなかった。母さんは前髪を乱暴にかきあげると立ち上がった。

「あーもう! こうなったらヤケよ! 祐くん、辰くんのシフト持ってきて!」

「お、おい何を」

「無理やり捩じこむに決まってんでしょお! 祐、早く!」

 視線を揺らした祐は、けれどおじさんの静止を待たず電話台の引き出しから紙を取り出した。残念なことに上座にいるおじさんからは遠い場所にしまってあった。

「あっおい!」

「あんたは黙ってな!」

 カシャ、とスマホのカメラ音が響いて勝敗は決まった。

 まるで黒子みたいに祐が紙をまた同じ場所に戻した。居心地の悪い静寂、おじさんの煙だけが宙に漂った。

「あのね辰くん。あたしはなにも宮子さんを施設に送りこみたいわけじゃないのよ。みんなにとって一番いい暮らし方を一緒に考えようって言ってるんじゃない」

「……分かってらぁ」

 辰おじさんは苦そうな顔で煙草を噛んだ。

「でもダメだ」

 母さんがまたため息を吐いた。

「……あの、おじさん」

 みんなが私を見た。

「おじさんは、おばあちゃんが辛い目に遭うのが嫌なんだよね? だから施設は心配なんでしょ?」

「うん……まぁそうだ」

「それなら、おばあちゃんをしっかり面倒見てくれる優しそうな人がたくさんいる施設ならいいの?」

「それは」と言葉を濁したおじさんは灰皿が見当たらずキョロキョロした。祐が何も言わず出してきて、ギュッと煙は消えた。

「じゃあ見るだけ見たらいいと思う」

「でもなぁ、さぁちゃん。そんな簡単なことじゃ」

 そうだよきっと簡単じゃない、とかぶせた。おじさんは驚いたように目を瞠っている。

「だからすぐ決めなくてもいいんじゃない? でも施設にやっと空きが……出そうなんだよね?」

 母さんを見る。どこもかしこも空いてないのよと、夕食で愚痴っていたのは最近のことだ。

「そうよ、チャンスなの。今検討しないと次に空くのは三年後かもしれないわよ!」

 それはちょっと話を盛りすぎだと思ったけど黙っていた。おじさんには効果があったらしい。考えこむ表情、あとひと押しかもしれない。

「ね、おじさん。母さんは買い物に行くとすごく長いでしょ?」

 怪訝そうな太い眉が私に向いた。

「母さんはね、シャツが欲しいと思ったら全部の店を回るの。で、ついでに他の服とかバッグとかを見ちゃうし、何度も同じ店に戻っちゃうから長いんだけど……」

「あぁうん」

 この前モールに行ったときのことを思い出したらしく、一瞬、遠い目になった。でもそれがなんだってんだ。口元がひん曲がってきて、ちょっと可笑しい。

「でもね、買い物を終えるときには、全身コーデができてるんだよ」

 全身コーデ? どういうことだ?

「そう、シャツだけじゃなくてそれに合うニットとかボトムとか。上手だよ、選ぶの」

「さぁちゃん」

「それに急がないよ。一日かかっても一番似合ってお買い得なコーデを選ぶから。納得するまで帰らないし。だからおじさん、きっと母さんはおばあちゃんに合わないと思ったら、選ばないと思う」



 ちょっと紗世、お手柄ー!

 帰り道の母さんは上機嫌で私の肩を何度も叩いた。ちょっとウザい。

 サンダルでスキップしそうな母さんの一歩後ろを歩く。お腹はまだくちいし、陽差しは強い。

 眩しくて顔を下げたら影が伸びてゆらめいていた。石砂利を這うように私の前に墨を撒くように。

 私は振り返った。山に寄り添うように建つ、木造の家があった。

 夏休み前に歩いたとき、あたりはむせ返るくらいの緑だった。今もそう、道脇の雑草は伸び放題だ。でも確かに細いススキが顔を出している。山が褪せて見える。

「暑いは暑いけど、今日はまだ涼しい方ねぇ」

 調子のいい声が鼓膜に届いた。

 あぁ秋になるんだ。

 祐はさっき、一言もしゃべらなかった。にこりとも。


 帰ったら祐から家に電話が来た。

 夜、一緒に勉強することになった。私は「いいよ」と言った。

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