13.救いたい

 夕飯を食べ終わったら行く、と私は返事をした。

 祐はただ「分かった」と私の頭を撫でて、立ち上がった。



「やっぱ別嬪の顔みながらの酒はうめぇなぁ!」

「うるせぇ、それセクハラだかんな! 紗世、これもうまいぞ」

「あはは……ありがと」

「でぇ、さぁちゃんはいつ嫁に来るんだよ?」

 調子乗んな親父、と祐が騒ぐ。

「なんだよ二時間もあったってぇのに。祐おめぇ……据え膳食わねばってことわざ知らねぇのか?」

 もはや私は話半分で久しぶりのお刺身を堪能していた。お盆向けのオードブルも華やかで、テーブルが料理でいっぱいだ。

 テレビでバラエティを見るのも久しぶりで、父さんと母さんと一緒のときは同じ番組を観てたなぁなんて思いつつ芸能人がひな壇でおしゃべりしてるのを眺めていた。

 あれ、何か忘れてる気がする。なんだっけ。

「うっせぇ親父黙れ」

「なんだ父親に向かってその言い草はァ!」

 こんな風に賑やかにご飯を食べるのが懐かしくて嬉しくて、少しぼうっとしていたのかもしれない。


「さぁちゃんは高校出て、大学か?」

「あ、はい。その予定です」

「だよなぁ、ノン坊に似て賢いもんなぁ! イイナァ花の女子大生かぁ!」

「おじさん、まだ受かってませんて……」

 そうだったD判定だった、と慌てる。

 祐はおじさんに構うのに疲れたと言って、テレビに集中している。私ものらりくらりやっていたけど、進路の話は分が悪い。

「どこの大学行くんだ?」

「えっと一応、関東の女子大に……」

「女子大! かぁーっ! 合コン三昧じゃねぇか!」

 なんで合コンそっち、と思いつつ笑って合わせる。辰おじさんのビール缶はもう四本目。そろそろお開きにした方が、と祐に目線を送った。

「……親父、そろそろ片付けんぞ。明日、朝番だろ」

「あ? あと一本持ってこい! ハァーうめぇんだよ。さぁちゃんの顔見ながらだと朝まで飲める気がするぜぁ」

「私も、ご馳走さまでした!」

 倣って席を立ち、自分で使った小皿を重ねて祐が差しだしたお盆に乗せていく。乗せると祐が「ん、寄越せ」と言って持って行った。すぐに水音がし始めて、洗い物を始めたようだ。

 ご馳走だった食卓にはまだ大皿も小皿も残っていて、お盆が要ると私も台所へと足を向けた。

「……ウチの祐は結局中退だもんなぁ、さぁちゃんとは釣り合わせねぇか。……ま、俺も中退だったし仕方ねぇか」

「え? 祐が中退?」

 なんだぁあいつ、言ってねぇのかぁ?

 赤い顔は緩んでいつもの強面じゃなくなっている。でも冗談を言ってるようには見えない。

「けっ。格好つけてぇんだな。さぁちゃん、聞かなかったことにしてくれよ」

 おじさんは私に顔を寄せて声をひそめ、「あぁ白けちまった」と煙草を探りだした。


 驚きでふらりと茶の間を出た。台所では水音とテレビの音でいっぱいで、さっきの話しは聞こえなかっただろうなと思った。

「紗世、残りも頼む」

 祐の表情は至って普通だったから私もいつも通りを装った。なんで、とか聞いても仕方ないことだろうと分かるから。

「どうした? もう緊張してんのか」

「……してないよ」

 口ごもる。

「洗い物終わってからでいいか?」

「うん」

「親父はほっとくとそこで寝ちまうから」


 辰おじさんは祐の言った通り、健康に悪そうな鼾をかいて寝ていた。

「で、だっこかおんぶか」

 カチリと台所の電気が消えた。すいとのぞき込まれて

「もし、歩けなくなったら……だっこで」

 よし、と祐が肯いた。

「じゃあ歩けなくなるまでは手ぇ繋ぐぞ」

「なんで? 別にいいよ」と主張したけど、その場で手繋ぎは完了してしまった。

 甘やかされている、と思うと、情緒がおかしくなりそうで考えないようにした。これは罪悪感からくる贖罪、これは大型犬の散歩、と自分に暗示をかける。


 すると祐が「いいか」と真面目な顔で私を見下ろした。

「ばあちゃんの部屋まで大体、俺の足で十五歩だ」

「うん」

「たぶんお前の歩幅だと二十歩はある。だから、数えながら行くぞ。部屋にいくんじゃねぇ、俺の背中見ながら二十数えるって考えろ」

 祐に引っ張られて廊下の真ん中まで出た。

「ほらイーチ」

 一歩進む。

「ニーイ」

 二歩。祐は一歩前に立って、私を引っ張る。

 右足を出して、左足を揃える。祐が遠のくのを私の足が追いかける。

 サン、シィと順調に進んで、昼にへたりこんだ場所を難なく越えていた。廊下の先は暗いけど昼よりは恐ろしいと感じない、だって祐の背中が大きくて怖いものが見えない。

 何度か太腿に触れたくなったけど、我慢できた。

「ほれ、ジューニ」「ジューサン」

 いつしか私も一緒に数えていた。懐かしい、子どもみたいな数え方。

「鬼になって数えてるみたいだな。俺、紗世みっけるの苦手だっけ」

 ふはは、と祐が笑った。

 ホントだ、まるで遊んでるみたいだと思った。手の繋ぎ方は全然違うけど、祐の家の周りや山を走り回った記憶がよみがえる。

 その間にも「じゅうよん」と私が数えて、「ジューゴ」と祐が続けた。

 肩越しに部屋の襖が見えた。ドキリとして少しだけ脚が少しもたつく。

「おっと」

 でも祐が私を引っ張る、絡めた指を強く握りこむ。

 こわいけど、こわくなかった。

 二十、と数え終わったときには、あと一歩でおばあちゃんの部屋だった。

「俺が開けるか?」

「……うん、お願い」

「おう」といつも通りの返事がして、当たり前みたいに祐は襖を開けた。

 ぐ、と尻込みしたのは一瞬で、突然視界が上がって揺れた。

「うえぇっ」

 ひと息の間に私は祐に抱えあげられていた。小さい子だったら縦抱き、でも今の私は米袋みたいに肩に乗せられている。腕とかお腹の置き所が分からなくて苦しい、ってか重力が辛い。待って脚に手が!

「お、下ろして祐」

「やだ。お前に任せてると明日になっちまうし。俺はだっこがよかった」

 エェこれだっこなの。反論の前に祐は襖をまたいで中に入ってしまった。

 自分の心臓の音を、新しい畳の匂いがかき混ぜた。思わず手に力が入った。

「どうする、ベッドまで行くか? あと四歩くらい」

「こ、ここでいい」

 そか。祐は少し屈んで私を下ろした。足がしっかり着いてホッと息を吐いた。

「もう九時か、ちょっと姿勢変えるわ」

 ゼロ距離だった祐が離れて、私が背を向けている方へといなくなった。

「ばあちゃん。紗世が来たぞ」

 私は立ち竦んだ。

 部屋に入って挨拶もしない。

 背中を向けたままでなんて失礼な態度か。

 なんで祐に抱えられて。

 ふしだらな。

 考えられ得る罵声が聞こえた気がして、立ったまま身を縮めた――でも何も聞こえてこない。

「さぁちゃんだぞ。ずっと待ってただろ?」

 脚が震えた。待ってた? どういうこと?

 恐る恐る、カタツムリの方が早いと思うくらいにゆっくり、私は振り向いた。


 祐が私に背を向けて、屈んで布団を片側に畳んでいた。片手にベッドのリモコンのような物を持って。

 そこには病院で見る白いパイプのベッド、古風な布が掛けられていて、少しずつリクライニングが上がって――――私は「あっ」と声を上げた。

 布だと思ったのは浴衣だ、白地に藍染めの。

 気づいてしまえばそこに人が寝ていると分かった。でもそのシルエットは、

「う、そ……」

 おばあちゃんじゃなかった。

「ほら、まず水飲ますぞー」

 私の知るおばあちゃんではなかった。ゾッと背筋が伸びた。鼓動のテンポが祐の呼びかける声と絶望的に合わなくて呼吸すら苦しい。


 骨と皮だ。

 皺はあっても働き者でいつも赤かった手が、青白く今にも折れそう。皺が斜めに走って細いのにだぶつく皮膚。首も据わってないみたいに、祐の腕にコトンと頭が乗っている。水冷ましの先がおばあちゃんの口の端から入った。息を止めてしまいそうになるくらい慎重に傾けられる。

 これは誰。

「よし、噎せねぇで飲めたな」

「あぁー、ぅあ……」

 知らない人だ。

「よし、ベッド下げるぞ」「今度はこっち向きな」

 呆然とする私を余所に、祐は呼びかけながらリクライニングを戻して姿勢を変え始める。はだけた浴衣から棒のような脚が見えて、知らず声が出た。人の脚を見たからではなかった、あまりに細くて棒のようで。

 初め、ただの布の塊にみえたのは仕方ないと思えた。だってそれほどに薄く、萎んで見えた。

「ほら、紗世だ。見えっか?」

 祐の背中は、白混じりの灰色の小さな頭を軽々と持ち上げてその下に枕を挟んだ。胸の間と脚の間にもクッションを入れる。そうして夏なのに、肩までしっかり布団をかけた。

 瞳は恍惚として何も映してない。もちろん私のことなんて見えていないようだ。

「なぁばあちゃん。良かったな、来てもらって」

 スゥとかすかな寝息が届いた。落ち窪んだ目蓋はすでに薄く閉じていた。

 しばらく、私も祐も動かなかった。

「な、大丈夫だっただろ」小さく祐が言うまで、私はおばあちゃんの変わり果てた寝顔から目が離せなかった。



「ほら、もう行くぞ」

 手首を取られても私はまだぼんやりしたままだった。茶の間に入ると辰おじさんはもういなかった。

 座るよう促されて私は素直に従った。祐は台所で水音をさせてから、いつもの席なのだろう向かい側に座った。

「どうだった?」

 どうって?

 私の目が訝しげに揺れたからか、祐は言葉を継いだ。

「ばあちゃん。全然違っただろ?……俺は逆に昔のばあちゃん思い出せねぇけど」

 なんとか肯いた。

「今年の、三月くらいまではしゃべれたんだけどな。まぁ妄想ヤバくて半日も正気じゃなかったけどな。なんかしゃべんなくなったなって思ったら……さ」

 時々目は合うんだぜ。

 テレビの消えた茶の間はすごく静かだった。

「お前、頑張ったな」

 呟きはため息混じりで届いた。

「見て……分かっただろ、あん時のばあちゃんはもういねぇって。だからもう大丈夫だ」

 分かった。まだ胸が苦しいくらいだ。でも大丈夫って何。

「ばあちゃんのことは忘れろよ。ここにも来んな。おばさんが帰ってきたら俺もお前ん家に行くことないし」

 祐の手は私の方に伸びて――何か思い出したように引っこんだ。

「もう無理すんなよ」

「なに、それ」

 まだ整理しきれない心奥を苛立ちが掠めた。それは優しい言葉のはずなのに。

「……頭のボケ始めたババアから言われたことなんか、忘れちまえって言ってんだよ」

「そんな、言い方」

「事実だろ」

 吐き捨てられる。

 重苦しい沈黙が場を支配して私の喉を塞ごうとしていた。ただ、何かがおかしい変だと祐の伏せた目を見つめながら声を震わせた。

「どうしたの……それに忘れろって」

「どっかの大学、行くんだろ」

 何の話か分からず、言い淀む。

「今は無理でも……簡単に帰って来れないところに行けよ。そんでウチのばあちゃんのことも苦しんだことも忘れろ」

 突き放された、と分かった。

「お前、自分で区切りつけに来れたんだ。俺も……もうちょっとで高校やめる予定だから外で会うこともないし。そうすりゃお前が辛いこと思い出すことも減るだろ」

「たすく」

「ほら話は終わりだからもう寝ろ。俺は、明日の飯の準備すっから」

 祐は素早く席を立った。

「祐、」

「……」

「祐!」

「いいからもう寝ろ!」

 ひくっと喉が鳴った。

「そんで明日帰って、もう一生来んな」

 全身から温かい血が一斉に引く音がした。指先まで冷えてわなわな震える。

 私の中に湧きあがりかけていた反論するための言葉もなにもかも、胸に潜んでいた硬い礫が全部壊して散り散りにした。


 せめてもと流れ出した涙が顎から落ちるのと同時、唐突にインターホンが鳴り響いた。二度、そして焦るように四度。

「誰だ」

 と苛立ちを隠さない祐の顔が顰めて、私はあぁと声を出した。

「紗世ぁー! いるんでしょー!」

「は? もしかしておばさん? なんで明日じゃ……」

 振り向いた祐を見て、少し溜飲が下がる。そしてさっきの祐は私と一度も目を合わせなかったんだなと思った。

「……じゃあ、私帰る」

「さよ」

「お世話になりました」

 頭を下げた。慇懃無礼ってこういうことだ、と冗談みたいな台詞が浮かぶ。だって「一生」って言ったのはそっちだ。


 祐の手が私を掴もうとして力なく視界から消えた。あとはずっと無言で、母さんと家に帰った。

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