14.苛立つ
「紗世、あんた連絡しても全然出ないんだもん。心配したじゃない!」
「うん。……ごめん」
母さんは父さんの言った通り、本当にハンドバッグ一つだけで日本に帰ってきたらしい。家までタクシーで乗りつけ、茶の間も私の部屋も電気が点いていないとすぐに気づいてタクシーを待たせつつ、私と父さんに鬼電――父さんから私の居場所を聞き出したらしい。
「びっくりしたわよ、辰くんとこにいるなんて」
うん、と素直に肯きながら、母さんと並んで歩く。なんで祐の家に居たのかとか、泊まったのかとか根掘り葉掘り聞かれそうだと思いながら。でもお互い無言で、何となく話題を探して黙っているような空気が漂っている。じゃりじゃりと鳴る足音が私達の代わりに会話してるみたいだ。
色々な気まずさはあっても、あのタイミングで迎えにきた母さんには感謝していた。あのままもう一泊するのは無理だった。私も、きっと祐も。
もし客間でひとりになっていたら、私はまだ泣いていたかもしれない。
——隣を歩く母さんの肩をそっと盗み見て、自分がこの三週間、祐とばかりいたことを自覚した。祐の背の高さも鮮明に。
玄関先で別れたときの何か言いたげな顔がよぎって私は首を振った。
ほどなくウチに着くと、母さんは「あー疲れたー」と茶の間に座りこんだ。
「やっぱり年だわぁー」
ストッキングで窮屈になったらしい足の指を動かしたり、ふくらはぎや足の裏を揉んで「イテテ」なんて言っている。
とりあえず手を洗って来ようと背を向けかけて、二度見した。今更気づいた。
母さん、スカート履いてる。
グレージュの膝丈フレアスカート。珍しさに、私は足を止めて振り返った。
母さんは立ったままでいる私を見上げ、視線に気づいたらしい。バツが悪そうに「どーれ、久しぶりに我が家のお風呂に入ろうっと」と、さりげなく裾を直した。
「先に着替えてくるわ」
あぁ、そっか。そうだったんだ。
「……いいよ、別に着替えなくて。お風呂も私が沸かすから」
「え? 紗世が?」
母さんがズボンばっかりだったのは。
「ごめん。……私のせいで」
「紗世?」
「お風呂掃除してくる」
さよ、ともう一度呼ばれたけど振り向かなかった。
数日の留守で浴室の床はすっかり乾いていた。
当分、自分ひとりがシャワーを浴びる場所ではなくなったからには、きれいにしないといけないと思った。掃除くらいはできる。
浴槽の縁に向かって洗剤をスプレーした。でもぎゅっと取っ手を握る内、だんだんと歯止めが効かなくなった。まき散らしてまき散らして、床も壁も全部泡だらけにしたくなった。濃い洗剤の匂いが鼻を刺す。ボトルは空になった。
どうして私、こんなに苛立ってるんだろう。
壁から垂れる泡の筋を待てずに裸足で入ると滑りかけて、濡れないようにとデニムの裾を捲った。ぴったりのスキニーはふくらはぎで限界。
なんて窮屈なんだろうと思った。どうして私はこんなきついズボンを履いてるんだろう。
目頭が痺れたようになって瞬きを繰り返した。とにかく床を、壁を擦らなきゃ。スポンジが手の中で勢いよく泡立っていく。
私、お風呂掃除くらいは手伝えたのに。
母さんの前では顔に出せなかった、モヤモヤとした苛立ちが少しずつ形になっていく気配——整理のついてないことが頭を巡ってくらくらし始める。
さっき見た母さんのフレアスカート、人間らしい脚のふくらみ。あの子の短いスカート、堂々と晒した脚。おばあちゃんの枯れ木のような腕、藍染めの浴衣の薄っぺらさ。皮膚の垂れる影。
私は目の前を懸命に擦る。
「簡、単に」
青白い膜のような目蓋、カサついた唇から漏れる呼吸音。
優しい口調で呼びかける声、答える呻き声。
「言わ、ないでよ」
支える日に焼けた腕、静かに布団をかけ直す背中。大きな、背中。
「忘れろって……何よ」
絡む長い指、プリン色のつむじ。
「祐が」
抱きあげられて触れた体温。伸ばしてくれなかった手。
「祐、の」
でたらめに力を入れすぎて足が滑った。じゅうとデニムの貼りついた脛に泡が染みこんだ。そうなったらもう全部面倒になって、私は洗剤だらけの風呂釜に座りこんだ。情けないかすかな音がひと粒、ふた粒泡に消えた。頭が燃えるように熱くて、気が狂いそうになる。
怒りだ。
家族さえ我慢させていたのを気づ気もしなかった、恐れを正当化して何もしようとしなかった、何もできないとうずくまって子どもみたいにだっこされてもなお歩み寄ることすらできなかった自分への。
「ばぁか」
そして、拗ねた小学生みたいな顔で『一生』と言い放った幼馴染への。
「ばか、ばぁぁか……!」
母さんが抱きしめても、私は泣きわめいていた。
かぶれちゃうでしょ、と泣き怒りする母さんにしがみついて好きなだけ大声で。
◇
朝、自分のベッドから起き上がると、頭の中はすっきりしていた。部屋のカーテンを開けると全身に光が注がれた。見上げると空が青くて、そんな当たり前のことがひどく久しぶりに感じて、私はしばらくぼんやりベッドに座っていた。
「おはよう。よく寝た?」
「うん、おはよう」
目蓋が腫れて重かったけど、テレビの点いた明るい茶の間の空気が優しく紛らわした。あったかいご飯の匂いがする。
「ご飯食べる?」母さんの声は聞き慣れた調子で、何も変わらない。それが今日はすごく安心できた。炊飯器からご飯をよそって、フライパンの中の野菜炒めとウィンナーを小皿に好きなだけ取る。お味噌汁は油揚げとわかめ。
もう食べ終わったと思った母さんもまだだったらしい、私のあとに続いて茶の間に腰を下ろした。私の向かい側、祐がいつも座っていた場所だ。
「あーやっぱり米よねぇ。今日だけ好きなだけ食べるわ」
私はお味噌汁をすすって美味しいな、と思った。母さんに気づかれないように小さく息を吐いた。
「やっぱり日本のミニマムさ、落ち着くわ。あっちってどこ行っても塊肉しか売ってないんだもの。過剰包装はとにかく衛生的だし」
「……あっちって、今って父さんどこの国だっけ」
ブツブツ言いながら食べてた母さんがハタッと私を見た。
「え、何言ってんの。ロスよ」
「あぁロサンゼルス」
ってことは時差が十五、六時間くらいか。だから通話がいつも微妙な時間だったんだなと納得する。
「ちょっと……あんた、分かってなかったの」
「うん」興味なかったから。知らなくても困らなかったし。
エェ嘘でしょ話したじゃない、と母さんが心底呆れた顔をする。私は何となく愉快で野菜炒めをもぐついた。玉ねぎが甘くてキャベツが甘くて美味しかった。
食後のお茶を飲んだあと、母さんが頬杖をついて言った。
「それで、何があったの」
私はスマホをスクロールしていた手を止めた。覚悟はしていたから驚きはしなかったし、反発も覚えなかった。でも何から伝えたらいいのか、いざとなると言葉に詰まる。
「じゃあ母さんの話していい?」
肯く。
「母さんね、実はスカート好きなのよ。年甲斐もなく膝ちょっと下くらいの」
「……いいんじゃない。似合ってた」
ぐ、と堪えるような表情で母さんは「ありがと」と笑った。
「ごめんね紗世。今までひとりにして」
「いいよ……何とも思ってないし」
「あんたがこの家を出るまで母さんずっと一緒にいるから」
視線を逸らしてしまったけど、素直に「うん」と言った。強がったのはバレたかもしれないけど、構わないと思えた。
「父さんには悪いけど……」
「何言ってんの。父さんは大人なんだから何とかするわよ。あれで金遣いが荒かったら心配だけどそうでもないし。それに、あんたは子どもなんだから親から面倒見てもらって当然よ」
「……当然?」
「あったりまえでしょ、まだ働いてもいないのに! 学業優先してる内はあんたは堂々と養われてなさい」
じゃあ祐は、と喉元まで出かかった。
「大学も行きたいところなら応援するし、ひとり暮らしでもここから通ってもいいんだから。あんたがアパート暮らしするってなっても、母さんすぐ父さんのところに行くつもりないから。それにね、大学って四年しかないけど最高に楽しいわよー。紗世にも就職する前に楽しんでほしいわぁ」
ね、と悪そうな笑みを浮かべる母さんに、私も笑い返そうとした。嬉しかった、そんな風に考えていてくれてたと知って。少し前までは漠然として不安だった未来が、母さんの言葉で明るく保証された気がして。でも、
「……どうしたの紗世」
笑顔はうまくいかなかったらしい。
私はきっと大学に行くんだろう。どこだか知らないけど、きっと。でも——祐はどうなるんだろう、高校をやめておばあちゃんの介護をしてご飯を作って、二時間おきに寝返りと水分補給をして、昼も夜も、ずっと寝ないで煙草を吸って苦しさを誤魔化して朝になって。祐はきっとおばあちゃんが死ぬまで……?
恐ろしいイメージが迫って、ぎゅっと目を閉じた。
「紗世、大丈夫? 体調悪いの?」
「ううん、違うよ……違うけど」
「話してよ、紗世」
母さんは立ち上がって隣に来た。
「昨日ね大泣きしてたのを見てさ……また母さんがいない間にあんた、大きくなったんだなって思った。ねぇ気づいてないでしょ。あんたって、あの日から一回も母さんたちの前で泣かなくなったの」
「ぇ?」
「内弁慶で外では優等生、家では結構泣き虫だったのに。……頑固なとこもあったから無理してそうなのかなって思ってたけど。父さんとは、本当に悲しいこととか辛いことって過ぎ去るまで涙が出ないものかもねって心配してたのよ。渦の中にいるときは自分を守ることで精一杯だから」
だから紗世が泣いてて母さんホッとした。たくさん泣いちゃってよ、と肩を優しく撫でられて、私は辛うじて「うん」と返した。もう半分泣いていたから。
「私、また……泣き虫に、もどっ、ちゃったかも」
「いいのよ泣いたって。……父さんもすごく泣き虫だったんだから」
秘密ね、と微笑んだ気配に、私の目蓋はますます震える。
確かに私は祐と再会してからもう何度泣いたか分からないし、それが成長なのかも分からない。
でも、今出てくる涙は自分の不甲斐なさを嘆く涙じゃない気がする。卑屈で無力な私を悲しんで、世界中と距離をとろうとしていた気持ちとは違っていた。
私はとにかく恵まれてて幸せで、祐は今そうじゃない。自分のための時間も泣くことを許してくれる大人も、祐にはいない。この先、学校に通う権利もスマホも持てないまま家の中にいるしかない。
たった十分しか離れていない私たちがどうしてそこまで違うのか、あの日のあとも変わらない関係のままだったら違ったんだろうか。私がそうさせてしまったんだろうか。
母さんが私の肩を撫でる。
「紗世、ごめんね。辛かったんだね」
「ちが……母さ、違う」
辛いのは私じゃない、祐なんだよ。
「もし辰くんのところでまた嫌なことでもあったなら、母さん今度こそ」
「ちがう、そうじゃなくて」
私、どうしたらいいんだろう。何もできないのは分かってる、でも。
「……もし、母さんが……友だちからすごく真剣に『頼む』って言われたら、どうする?」
「『頼む』ねぇ。それ、お金絡んでる?」
母さんが急に目をぎらつかせて聞き返した。
「お金の貸し借りとかじゃないよ。……でも、ちょっとは関係ある、かも……」
言ってから、祐の家はお金がないって言ってた、と思い出す。ヘルパーさんは来ていても、おばあちゃんを誰かに頼むことができなくているのかもしれない。だとすれば、ますます私にはどうしようもできないことだ。
やるせない気持ちが込みあげて、知らず顔が俯いた。
ふぅん、と腕組みをして思案する格好の母さんから強い視線を感じる。厄介なことに巻きこまれてると思われたかもしれない、ちゃんと話した方がいいだろうか。
「紗世ごめん。お金、なんて意地悪いこと聞いちゃった。そうねぇ母さんの若い頃は、ダチの頼みはとりあえず全部聞いたかなー」
「ダチ?」
「うん、母さんも結構荒れてたからねー」
「荒れてた……母さんが? 頼まれて、全部助けてあげられたの?」
母さんはキョトンとして、何言ってんのと笑った。
「さすがの清子ちゃんも全部は無理だったわよー! まぁ、でも健闘したわよって自画自賛しとくわ」
「そっか」
もしかして紗世、と母さんが私の肩を抱いた。
「何がなんでも絶対助けなきゃ、って思ってる? 」
「ぇ、だって」
「ってことは、助けられないんなら手ぇ出しちゃだめ、とか思ってる?」
あーやっぱり真面目ねぇ紗世は。母さんが可笑しげに揺れる、私も一緒に揺れる。
「いいのよ、何にもできなくったって。ダチが助けてって言ったから……助けたいから助けようとする、それだけでしょ」
そうなの、と問うた私の声は掠れた。
それなら私は、あの夜の祐だけでも——ううん、祐に自由になってほしい。
祐が高校をやめなくて済んで、祐も辰おじさんも、おばあちゃんも……みんな困らないように。
「母さん。私、助けたい」
手を祈るようにして組んだ。何度も繋いだから分かる、祐の手の大きさ私の手の小ささ。ぎゅっと力を込めた。
「祐を、助けたいの」
もう涙は止まっていた。
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