15.頼る

 私から話を聞いたあとの母さんは早かった。

「もしもし辰くん? 久しぶり。先日はウチの紗世がお世話になったみたいで、ありがとう。うん、えぇ、そう。……それでね辰くんちょっと話があるから、今すぐウチに来な。ツラ貸せや」

 ブチッと音がしそうなくらい勢いよくスマホをタップして、母さんはにっこり笑った。初めて聞く強い口調に、私は少々呆気に取られる。

「紗世、あんたは部屋に行ってなさい。大丈夫、母さんがしっかりオトシマエつけとくから」

 バキ、と何か鳴ったのは気のせいだろうか。それにオトシマエってなんだろう。とにかく母さんはすごく怒っていて、辰おじさんとケンカになってしまいそうだ。

「ほら」と促す声に、私も同席したいと伝えたくなる。何にもできないとは思うけど。

「……母さん、私も一緒に話をしたい。だって私が頼んだことだから」

「紗世。そうね、分かるわその気持ち。……でも、やっぱり部屋で待っててちょうだい」

「でも」

 今度こそ、母さんの組んだ拳がバキバキと鳴った。

「大人のケンカって、令和の子には情操教育上よくないと思うのよ。大丈夫、シメ終わったらちゃんと呼ぶから」


 私がオトシマエを検索して二十分後、母さんから『もういいわよ』とLINEが来た。

「さぁちゃん、あんたにまで心配かけて、ほんっとおぉに申し訳なかった!」

「デカいのは声だけで心がこもってない、やり直し」

「さぁちゃん! このっ通りッ!」

 既視感のつむじに私が後ずさる。職場の作業着の襟はぐちゃぐちゃになっていて、髪もボサボサだ。

 母さんはなぜか立ったままで、おじさんをぎろりと睨んでいる。

「……おじさん顔を上げてください。別に私になんて謝らなくてもいいですから! ってか母さん、悪ノリしすぎじゃないの!」

 気まずさに私も声を張ると、母さんがツンと顔を背けた。

「そんなことないわよねぇ辰くん」「へ、へい、そんなことは」

 会話は息がぴったりに見えるけど、おじさんの顔は引き攣っている。

「ウチの紗世の一番可愛い可憐な時間を、あんたんとこのクソババアが台無しにしてくれたんだもんねぇ。賠償請求されなかっただけ幸せよねぇ、辰くん?」

「は、ハイ。仰る通り!」

「しかも祐くんまでテメェの甲斐性のなさで高校中退? 昔酔っ払って『自分が中退だったから祐は大学に入れてやる!』って大口叩いたのはどの口だっけ?」

「め、面目もねぇす」

「……母さん、もういいよ。やめたげてよ」

 おじさん涙目だよ。大人がここまで打ちひしがれているのを見るのは初めてで、すごく悪いことをしている気分だ。

「私、別におじさんを責めてほしい訳じゃないから……」

「さぁちゃん……!」

 ブワッと辰おじさんが男泣きを始めてしまい、ウチの茶の間は一層気まずい雰囲気になる。母さんは「まだ責め足りないけど、紗世がそういうなら」と不穏なことを言いつつ引いてくれた。ブツブツ言いながら台所に向かったところを見ると、きっとお茶でも出してくれるんだろう。


 私は少しホッとして、「おじさん」と声をかけた。

「ごめんなさい、勝手に家のことを母さんに話して」

 おじさんはお酒を飲んだときみたいに真っ赤で、おいおい泣きながらも私の話に肯いた。

「でも私……祐が苦しんでること、なんとかしてあげたくて」

 うんうんと肯くおじさんは「すまねぇすまねぇ」と繰り返していて、あまり話が聞こえてなさそうだ。

「辰、いつまで泣いてんの。さっさと泣き止みな! 肝心な話ができないでしょ」

 ダァンと客用の湯呑みがテーブルに叩きつけられて、乱暴に緑茶が注がれた。おじさんの姿勢は勢いよく伸びて、かくりと頭だけ下がる。

「ほら紗世、あんたのも」

「う、うん。……母さんって、辰おじさんとどういう」

 五年ぶりだからなのか、それとも私の知らない関係性があったのか。こんなに激しい母さんの態度は初めてで、戸惑いしかない。父さんは知ってるのかな。

「昔のダチよ」

「え、そうなの?」

「母さん、ちょっと荒れてたって言ったじゃない。十代の頃つるんでた仲間の一人よ。なんの腐れ縁か、ここに家建てたら裏に住んでるんだもの」

 そうだったんだ、と納得した。辰おじさんは元ヤンキー、つまり。

「ってか、そんなことはどうでもいいわ」

 母さんはテーブル越しに辰おじさんを睨めつけた。おじさんは観念したように腕で顔をごしごし擦った。

「ほら、さっさと話すんだよ」

「わ、分かったよ清子さん」

 おじさんはおずおずと語り出した。説明は下手だから最初から全部話す、と言って。



 今まで知らなかったけど、辰おじさんとおばあちゃんに血の繋がりはないらしい。おばさんの実家が今の祐の家で、おじさんは婿に入ったのだそうだ。元々、母娘の関係は悪くて、辰おじさんが仲裁に入ってはなんとか暮らしていたと言う。

 でも辰おじさんが仕事で不在のとき、おばあちゃんとの大ゲンカの末におばさんは出ていった。祐も学校に行っていたからよく分かっておらず、週末になってようやく失踪したと分かったらしい。

「ばあは相当頑固で、アイツもそうだった。よくも悪くも似たもの同士でよ。……そっからしばらくは清子さんとノン坊にも世話になりながら、なんとか暮らしてたんだが」

 おじさんは私の方をちらっと見て、ひどく申し訳なさそうに頭を下げた。

「さぁちゃんは若いときのアイツに似てたんだ。だからばあは、あんたに辛く当たっちまったのかもしれねぇ。ボケちまって、自分の娘に見えたのかもしれねぇ」

 え、と母さんの顔を見た。初耳だった。

「そうね、確かにちょっと似てたわね。髪型かしらね、小さいときなんて間違われたりしてさ」

 母さんの子なのに正直面白くなかったんだけど。行儀悪く頬杖をつく母さんの尖った唇を見て、そうだったのかと思う。


 そうしてあの日以降、おばあちゃんは家の中で孤立したそうだ。祐は目に見えて反抗するようになって、おじさんも昼夜のない仕事が続いて、家の中は再びギスギスし始めた。

 ボケるのは当たり前だったかもしれねぇ、とおじさんは呟いた。

「茄子をよ、買いこんでたんだ。そこらじゅうに隠してよ……それで俺もやっと分かったんだ、ばあがずっと寂しかったってことが。茄子はアイツの好物だった」

「そう」と母さんが素っ気なく言って、沈黙が降りた。私はただ話を聞いているだけなのに喉が渇いて、音を立てないようにお茶をすすった。

「……それで、なんで祐くんが介護やってんのよ」

 母さんの不機嫌そうな声におじさんは眉を下げ、また話し出す。


 おばあちゃんは自分が認知症だと、随分あとまで認めなかったそうだ。だから福祉サービスも、銀行での手続きも徒労に終わる。人前ではしっかりしているくせに、家に帰ると弄便で家中を汚す。祐をおじさんを口汚く罵る。

 人の母親だからと手加減していた辰おじさんも、堪忍袋の緒が切れた。

「手ぇ上げちまって……」

 そこからは辰おじさんを見るとパニックを起こすようになった。虐待していると疑われるんじゃないかと、ヘルパーも頼みづらくなる。実際、生活も苦しくなっていた。サービスはお金が戻ってくるとはいえ、一度は支払いの義務がある。そのお金がない。祐の高校進学とも重なって、借金する余裕はなかったと言う。

「祐が、自分から『ばあちゃんの世話する』って」

「ばかねぇ」

 母さんのため息が響いた。

「どうして頼らなかったのよ」

 情けねぇ、と呻き声が漏れた。

「清子さんとノン坊の大事なさぁちゃんまで傷つけて、どの面下げてあんたらに頼れるんだよぉ」

「……ばかねぇ、ホント」

 ハァァァ。母さんの二度目のため息が遠く聞こえた。

「俺も、祐には苦労かけてるって分かってる。でもどうしようもねぇ」


 話の筋は理解できてもまるでドラマの話のようで、私にとっては現実感がなかった。あのおばあちゃんが、寝たきりにまるまでの空白を想像できない。それに分からないことだらけで、ポケットのスマホで全部検索したかった。

「大体話が分かったわ。辰くん、明日一緒に役場に行くわよ」

「清子さん、役場ってぇのは」

「あたしが当分無職でよかったわね。こうなったら宮子さんの受け入れ先が決まるところまで付き合ってあげる」

 母さん? 取り残された私は、立ち上がった母さんを呆然と見た。

「あとは祐くんの中退問題ね。ほら、さっさと行くわよ」

 どこに、と私とおじさんは思わず顔を見合わせた。

「辰くん家に決まってるでしょ……あ、その前にお墓参り行かないとだったわ。じゃあ夜行くから、そのツラきれいに洗って待ってなさいよ」


 *


 母さんてすごいヤンキーだったのかな、と思っていたらお墓参りは終わった。お墓の前で手を合わせると、お盆というより夏休みも佳境の実感が湧く。

「ごめんねぇ、掃除もテキトーで」母さんはそう悪びれなくおじいちゃんたちに線香を上げた。

 ウチのお墓に入ってるのは父さんの両親で、私は会ったことがない。母さんの方の実家は東北で、おじいちゃんたちは叔父さんたちと暮らしているからやっぱりあまり会ったことがない。

 だから私は『おばあちゃん』というと、祐のおばあちゃんを真っ先に思い浮かべてしまう。ふとそこまで考えて、おばあちゃんのことを考えてもあまり怖くないことに気づく。

「……母さんって、すごいね」

「何それ」

「いや、なんか。そう思った」

 帰りの車で思わず言った。どんなに語彙を探しても、結局口から出たのはそのままで気恥ずかしい。じわじわと、さっき聞いた話がお腹の中に落ち着いてくるごとに、思いつくのは「すごい」だ。母さんのしようとしていることはまだよく分かってないけど、その行動力だけは分かるから。

「どお? 母さんもたまにはやるでしょ。ま、相手が辰くんだしね。あーやっと分かったか、母の偉大さが」

「母というより、元ヤンの……?」

「は? しばくわよ」

 お墓参りのあと、私たちはスーパーで大きなお寿司のパックやお肉のお惣菜、お酒とジュース、お菓子を大量に買った。こんなに買ってどうするの、と聞いたら、辰くん家でみんなで食べるに決まってるでしょと呆れられた。男子高校生ってどれくらい食べるのかしら、と口笛まで吹いている。

 ケンカか真面目な話をしに行くつもりだと思ってたから、拍子抜けして口が開きっぱなしになった。

「だって今日はお盆でしょ。どうせ他人の家に行くなら一緒にご馳走食べたほうがいいじゃない」

「そっか」

 心底よかった、と思った。


 車の窓から外を見ると、少し先に祐と歩いた畦道が見えた。田んぼはぴんと青くて、湯気が立つような暑さ。二人で歩いたのがすごく前のことのように感じて、見えなくなるまで細くて白い道を見つめた。

 今から祐の家に行く。「一生来んな」と言われたのは昨日で、まだ耳に声が残っている。拗ねたような顔も。

 だからもし、もう一度「来るな」って言われたら行かないことにしよう。

 そしたら母さんに任せて、私は——。

 私、は?

 「ねぇそういえば、紗世の進路の話もしなきゃだったわね」

 今まさに考えていたことを指摘されて心臓も肩も強張った。ぎこちなく返事をする。

「で、どこ大にするの?」

「……」

「え、何? もしかして成績ヤバいの?」

「ちょっと、まだ考え中。よく分かんなくなってきた、から」

 ふぅん、と気のなさそうな返しに、少しだけ肩の力が抜けた。

「九月に面談するって言ってたから、夏休み中には教えてね。母さんもあんまり詳しくないから、相談は早めに」

 分かったと肯いてから、記述模試をサボったことを思い出した。担任の多田の顔がぼんやり浮かんで久しぶりに苦い気持ちになったのを、スマホを見下ろしてなかったことにした。


 そのあと母さんは祐の家に車で乗りつけて、勢いのまま上がりこみ洗面所で勝手に手を洗うと、真っ先におばあちゃんの部屋に向かった。二回のインターホンで顔を出した祐は、母さんの「あ、荷物は台所に運んでくれる?」の強気ムーブに声もなかった。

 私も母さんを追いかけて、とは言えゆっくりだけどおばあちゃんの部屋まで自分の脚でたどり着いた。でも中には入らなかった。

 母さんがおばあちゃんの手をとって泣いていた。辰おじさんもその横で俯いていたから。



「あら祐くん、思った以上にいい手捌き」

「……っす」

「ほら、心得のない人たちはテーブル片付けて! 料理広げてゴミこっち」

 ふぁい! といいお返事になったのは私と辰おじさんで、ビニールをがさつかせながら買ってきたご馳走を一緒に並べ始める。

「清子さん、こんなに贅沢な飯……」

「大丈夫、辰くんが死ぬまでに払ってもらうから」

「へぃ」

「母さん……」

「冗談よ」

 冗談に聞こえないと思ったのは、私だけじゃないはず。そう思い、パックの蓋を開けながらおじさんをうかがうと、意外にも嬉しそうな顔をしていた。どうやら本当に冗談だったらしい。二人が友だちだったってことが、やっとストンと納得できた。


 酒が入っちゃった辰おじさんはご機嫌で、「清子さん」と連呼しまくったあと潰れてしまった。

「弱いのは変わらないのねぇ」

 母さんはザルなので顔も変わっていない。私がおじさんに深く同情していると、祐が無言でテーブルを片付け始めた。

「祐くん、そんなのいいから少し話そうじゃないの。邪魔者も寝たし」

「いや……俺はいいっす。片付けもあるんで」

「何? あたしの話が聞けないっての?」

 母さん、それはウザ絡み! 

 祐の家に来てもう数時間は経っていたけど私と祐は、いや祐はほとんど声を発してなかった。主に母さんと辰おじさんがしゃべって、私は一生懸命食べているフリ。

 やっぱり、私は来ない方がよかったんだろうか。

 ちら、と母さんが私に視線を投げた。「来るな」って言われたことは話してないけど、きっと何か察したんだろうと思った。

 祐はいつもよりものろのろと小皿を重ねている。

「……じゃあ私が片付ける」

「あら、頼んでいーい?」

「うん」

 祐が私を睨んだ。睨まれたの初めてだな、と頭の隅で思ったけど全然平気だった。さっさと台所からお盆を持ってきて、小皿を乗せる。昨日、同じことをしたばかりだから手際よくできた。

「おい紗世」

 祐が台所に追いかけてきて、残りの小皿を持ってきた。

「なんでおばさんが」

「……祐と話すためでしょ」

「は?」

 いいから話してきてよ、とスポンジを取って洗剤を振った。

「ごめんね、今日だけだから」

「あ?」

「私はもう来ないから」

 胸が押されたように痛んだから、皿を強く擦った。次の皿を手にしたとき、祐がふいと離れた気配がした。

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