38.断言
「紗世が聞きたいなら、全部話すよ」
夜の八時、藍衣と私は茶の間に布団を並べて敷いた。
すでにポツポツと大まかな話を終えていて、レイと話したことや祐に別れると言ったこと、それから不審な新聞屋の人のことも、明日父さんと母さんが帰ってくることも簡単に説明していた。
「元々、泊まる気で来たから。清子さんが帰ってくるまで一緒にいる」と、コンビニで買ってきた下着の替えを見せてくれた彼女には、一生分の感謝でも足りないと思う。
「もう隠したりしない」
私と藍衣は百二十度の角度で見つめ合った。気まずさから少し目を落とすと、半乾きの藍衣の毛先が、濃い黒に塗りつぶされたように見えた。
「……知ってたの? 祐のこと」
藍衣は持っていたスマホをシーツの上に伏した。
「『M高のカイトー』は知ってた。インスタでタグ付きでよく回ってきてたの見たことあったし、去年とかクラスの女子が騒いでた時期あったから」
その瞬間まで、私は頭のどこかで祐のことを信じていたらしい。
「有名、だったと思う。特に遊んでる感じの子の間では。便乗してM高の別の男子が似たようなこと始めたとか、女子の間でマウントし合って面倒なことになってるとか聞いた」
藍衣の言葉で、レイの言葉が現実になっていく。
「なんで分かってたなら……」
教えてくれなかったの。
非難じみた声の途切れた疑問を、藍衣は分かってくれたらしい。「それね」とほんの一瞬苦笑した。
「初めてあいつの家で海藤と会ったとき、あいつが噂のカイトーだっては気づかなかった。表札で苗字は確認したのに」
「別人だと思ったってこと?」
「うん」
藍衣は「そりゃあね」と目を伏せた。
「何度か、あれこいつ誰だっけって思うことはあった。顔に見覚えはあったけど思い出せなくてモヤモヤしたりして。完全に繋がったのはあの子……レイが駅で紗世に絡んでるのを見たとき。あの子は派手にやらかしてるっぽいから覚えてた」
そこまで言うと、藍衣は重く黙った。
藍衣は誰に対しても公平だ。痛烈に批判することはあっても、めったに人を感情的に否定しない。他所は他所、ウチはウチ。そんな態度を貫く彼女はいつも正しくて眩しい。
だから、「あの女子」と言ったときの厳しいニュアンスは伝わった。きっと軽蔑だ。その軽蔑の先には祐もいるんだろうか。
「そっか」
今なら藍衣が私のためを思って黙ってくれていたと思えた。そうだよね、私でもきっとそうする。
「……やっぱり祐は私を騙してたんだよね」
「それは違うよ」
急な強い否定に驚いた。はたと目が合った藍衣は「あいつは」と、一度口ごもった。
「たぶん、紗世に言えなかっただけだと思う。それを騙してたって思うかどうかは……紗世次第だけど」
「私は」
言いかけたけど、具体的な言葉が続かない。だって頭の中は「嫌だ嫌いだもう会いたくないひどいなんで」の繰り返しでずっと考えがまとまらなくなっていた。それなのに時折、無理なキスをされたときの熱さや出て行ったあとの静けさや、花火のときの横顔がちらつく————ダメだ分かんないよ!
「もうやだ……考えたくないのに、頭いっぱいでやだ……」
私は膝を抱えて顔を埋めた。体の内側がじくじく痛んで、目眩すらする。
衣擦れがして藍衣の声が近づいた。
「ごめん紗世、本当は何度か言いかけた。知らないふりしてレイのストーリー見せようとしたり、海藤の前で軽く暴露しようとしたこともある。結局やめたけど」
「うん」
「他の女の持ち物みたいに投稿されてた男と付き合うの、正直見てらんなかった」
持ち物?
「二人は良くても、いい噂にならないのは想像できたから」
違和感は一瞬で、私は何度目か言葉に打ちのめされた。
祐がそういうことをしていたと理解させられる度に床に這いずりたくなる、頭が重くて仕方なくなる。
少しの沈黙のあと、「あのさ」と藍衣が呟いた。
「ウチってさ、母子家庭じゃん。父親って暴力振るうタイプだったんだよね。だから私、男は基本警戒したくなるんだけど……」
「暴力って」ドラマや動画でしか知らない話が友人の口から出て、声が詰まった。
「うーん、いつもどこかにアザがある感じ。私は兄貴に比べれば全然平気な部類だった。あ、でも一緒に住んでたのはノリが赤ん坊のときまでだから、あの子はセーフ。その代わり能天気で甘ったれに育ったわ」
想像もしてなかった。
ほらここ、ちょっと傷残ってる。彼女がまくった上腕には薄らと斜めの傷痕があった。
「覚えてないんだけど、吹っ飛ばされて切ったらしいんだ。……兄貴は未だにメンタルやられててさ、元々高卒なのにね。私も囚われてるって言ったら、まぁそう」
だからさ。藍衣が口元を歪めた。
「私もパ活しようか、本気で考えたときある」
自分の目は丸くなったと思う。
同時に真っ直ぐな視線が貫いて、私は不器用に唾を飲んだ。
「私、パ活してる子たちを否定する気はないよ好きにすればいいと思う。どうせ私も大学入ったらガールズバーとかでバイトする気もするし。あれって根本は変わらないよね。お小遣い足りないし、あと父親への復讐で知らないおじさんを弄んでやろうかとか、ね」
「……」
「でもやめた。私はなんていうか、手放せなかった」
「手放す?」
藍衣は祈るように胸の前で両手を握った。
「難しいんだけど、心とか理性の中にある誰にも見せたくないとこってない? 晒したくないし、知らない奴に踏みこまれたくない。自分の中のきれいなとこ。……そのうちどうでもよくなるのかもしれないけど」
「誰にも……」
私が反芻する前に、「あー我ながらキモいこと言ったわ」と藍衣は顔を顰めた。
「海藤をかばうつもりはないけど、あいつもなんかメンタル的に限界だったのかもって、今は思う」
少し前の、細かな記憶がよみがえった、もう何度も思い出してる息遣いさえ鮮明な。
初めて手を握った夜に強く抱きつかれたこと、タバコを吸う遠い視線。夏なのに何度も、『お前、あったかい』と体を寄せてくる清潔な匂い。未来が変わるのが『こわい』と震えた背中。
経済的にも精神的にも追い詰められて、おばあちゃんの介護に疲れて、自分のことは後回しで。
「祐は……」
知っている、祐が心の底から助けを求めていたのは。誰でもいいから助けてほしかっらことくらい。だから私はそれに応えたかった、ずっと応えていくつもりだった。
でも、だけど。だって————!
どうしてもそこで私の心は行き止まる。越えられない壁があって、それ以上進めない。
「あおい、私、だめ、いやだ」
だって祐は私をハグした腕を、唇を、他の人にも明け渡してた。
「私、」
内臓から燃えてしまいそうだった。ぐっと息を止めてこらえる、でも同時に、この醜い感情を手放さなきゃいけないなら永遠に息を止めたっていいとさえ思う。
だって祐を許してしまったら、私は?
「もう顔も、見たくない」
嘘をつくなと全身がぎりぎりと痛んだ。嘘じゃない、憎いどうしようもなく。大嫌いだ祐が、でも私は、祐が——。
「……紗世」藍衣の柔らかい手がそっと背中に触れた。「あのさ紗世」それはちょうど心臓の裏側で、手の形にじわりと熱が移った。
「私、紗世とは別の大学になると思う。でも、ずっと友だちでいたい」
ぽつ、と落ちた声に私はかすかに揺れた。
「だからさ、余計なこと言って紗世に嫌われたくなかった。あんたと友だちでいられるなら、海藤とか正直どうでもよかった。でも……ごめん、こんなに傷つけるなら早くバラせばよかった」
「あおい……?」
「癪だけど、あいつも同じだったと思う」
同じ?
私は顔を上げ、彼女の左目と右目の間で視線を揺らした。
「もちろん、あいつのしてたことは最悪最低。許さなくていい。でも、ちゃんと海藤と話した方がいいと思う」
でないときっと後悔する。ぎゅっと藍衣の眉根が寄った。
「でも……私、もう、祐とは」
「紗世、目ぇ逸らすな」
二の腕が温かく包まれた。
「あんたたち、まだ両想いだよ」
断言するから。
怒ったような微笑みを向けられて、私の目からは音もなく涙が出た。
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