39.区切りをつける
あぁウィンナーの匂い。
「あ、紗世おはよう。腹減ったから色々勝手にやっちゃったよ」
キッチンに立つ藍衣の髪はぼさぼさで、起きたままの私のTシャツとハーフパンツ姿で菜箸をこちらに向けている。
「食パン焼いていい?」
「うん」
スマホを見ると寝ている間に充電が切れたようだった。茶の間の時計は十時半。二時半までは、藍衣の寝息が夜の天井に吸いこまれるのをずっと聞いていたはずだけど、かなりぐっすり眠ったみたいだった。喉がカラカラだ。
藍衣はウィンナーとスクランブルエッグにトーストを作ってくれた。その間に私は冷蔵庫の古い麦茶を捨てて、新しいのを作った。
「紗世の麦茶ってなんか美味しいよね」
「そうかな」
「麦茶パックは一緒なんだけど、味が違う」
「うーん水かなぁ」
そんな会話をしながら遅い朝食を食べた。久しぶりに固形物を食べたので胃が痛くなって何度も手が止まった。藍衣は私の分のトーストも食べたから「もう苦しい」と、私が食器を洗う間ごろごろしていた。
「はぁ、紗世の家って静かで落ち着く。このまま住みたい」
「藍衣が住んだら母さんも喜びそう」
そこであと四時間で母さんたちが帰ってくることを思い出して、自分の洗濯だけでも済ませようと思い立つ。
「藍衣のシャツも洗っちゃう? きっと乾くよね」
今日はいい天気で、昼は陽差しで暑くなりそうな気配だ。「窓開けるね」と藍衣が茶の間のガラス戸を開けると、意外に強い風が部屋に吹いた。
「お、気持ちいいじゃん。秋っぽくなってきたね」
そのまま私たちは洗濯を干したりスマホを見せ合ったりして過ごした。布団を敷くために壁に寄せたテーブルは戻さず、ふたりで広いラグの上でごろごろしながら。
すごく穏やかで安らかな時間。
だけど私の中には錘みたいな決して着地しない塊が揺れ続けて、何をしていても、息をするたびに明るい感情はすぐに千切れてしまう。何度もため息を飲みこまないといけなかった。
——十二時を過ぎたと分かって、私は心を決めた。
「藍衣。私、おじさんに電話する」
「おじさんって、あいつの?」
うん、と返事をしたときには通話ボタンをタップしていた。コール、コール——。
『もしもし、さぁちゃんか?』
「はい。おはようございます」
『なんだ、体調悪いって聞いたぞ。飯も食えねぇって。大丈夫か』
体調? そっか祐がなにか言ったんだ。
「大丈夫……だけど、まだちょっと微妙で。だからごめんなさい、本当はおばあちゃんと一緒に行きたかったんですけど……」
『無理すんな。そんなの分かってらぁ』おじさんの音量は相変わらずで、側にいる藍衣にもしっかり聞こえたらしい。苦笑する横顔に勇気づけられる。
「あのおじさん。私、一緒には行けないけど、おばあちゃんに挨拶だけはしたいんです。ウチの前で、少しだけ車を停めてもらえませんか」
通話を終えると、藍衣が物言いたげにこちらを見ていた。
風でカーテンがはたはたと揺れて、緩やかに点滅するみたいに部屋を明るくした。
「まだね、祐とは話したくない」
話せない。まだ許せてない、きっと罵ってケンカになって終わり。
だから今日は目が合ったら逸らす。話しかけられても無視する。
「でも、もし会うなら……祐の前では平気な顔をしてたい」
「ぶふっ。ウケる、めっちゃ怒ってんじゃん」
そうかもと思ったら、本当にムカついてきた。
「祐、私のこと体調悪いとか、おじさんに言ったっぽい」
「それはファインプレー。いや罪の隠蔽かな」
罪と聞いてどきりとする。
おばあちゃんに浴びせられ、昨日ベッドで祐に浴びせた言葉が迫った。私と祐の間では決して言ってはいけなかったのに。だって夢中だった、祐を傷つけたくて仕方なかった。
じゃあもしかしたら——おばあちゃんも、あの瞬間、誰かを傷つけたくなったのかもしれない。そのとき矛先が私に向いただけで何かに深く傷ついて——?
「紗世?」
一晩中考えていたことを藍衣に話していいだろうか。話したあと、私はやり遂げられるだろうか。
「前に藍衣が言ったでしょ。私、ぐちゃぐちゃだって」
覚えてるよと、藍衣が肯く。
「たぶんずっとそのまま。なかったことにできないから」
「うん」
「だけど、ひとつくらい終わらせたい」
声に出したら、そうするしかないと思えた。脚が震えていた。これから起こることを知ってるから。
だって、とてつもなくこわい。
「藍衣、手伝ってくれる?」
◇
十三時、五分前。もうそろそろだ。
私は落ち着かない手を強く組んで膝の上に置いていた。玄関の框に座って、お出かけ用のスポーツサンダルを履いて。
「そういえば紗世と私服で出かけたことなかったね」
隣には藍衣が寝起きのTシャツのまま膝に頬杖をついて。昼過ぎの廊下は気温が上がって少し暑い。でも私の手足は冷え切って、今にもガタガタ震えそうになっていた。せっかくペディキュアも塗ってもらったのに直視できない。
「今度行こうか、映画とかモールとか。塾ばっかりだったね」
「うん」
「あと半年で卒業だし、近くに住んでるうちに遊んどこう」
「卒業したあとのことかぁ……まだ全然想像できないや」
何度考えても曖昧で霞んだままの未来を思う。なんとかして気を逸らしたかった。
「まぁね」藍衣がジャージのポケットからスマホを出して、私に画面を見せた。知らないバンドのライブ写真、赤い髪のボーカルがジャンプしてるスクショ。
「入学式とか終わったら、派手に髪染める。そんでバイトして車の免許取って、車買いたい」
好きなバンドがいるなんて知らなかった。
「そしたら紗世のところまで車で遊び行く」
ニンマリと笑った目に、曇りガラスの光が映っていた。
「本当? でも私、点数上がらなくてすごく遠い大学になるかも」
「どこだって行くよ、遠い方が楽しそうじゃん」
色は黒で助手席があればいい。生活費も稼がなきゃ行けないから何年かかるか分かんないけどね。ランドもシーも行ってみたい、安いホテルでいいから。海外も行ってみたい。
藍衣の願いはどこまでも広くてでも鮮やか。そこには気怠そうに教室の机に向かう彼女はどこにもいなくて、きっと新しい藍衣になるんだと思った。
「紗世は?」
私は、と言いかけたけど、返す言葉はひとつもなかった。五里霧中、そんな四字熟語がぴったり。ざわざわと脚の毛穴が開くような不安で膝を抱えた。
「私、今が一番楽しいな……藍衣と仲良くなれたし」
そのとき不意にパァッと外が明るくなった。雲が途切れたのか、日陰のはずの玄関が一瞬金色に染まった。サンダルの金具がちかりと光った。ハッとする、
あのときの花火の色、
『俺、ずっとお前と一緒にいたい。……今みたいに暮らせねぇかって思ってる』
祐の声が掠めた瞬間、外でクラクションが鳴った。
飛び上がるほど驚いているうちに、藍衣が素早く玄関を開けた。顔に涼しい風が強く吹きつけた。
「ほらサッと行って来なよ。ここで待ってる」
「あおい……」
「おばあちゃんどころか、あいつも一泡吹くよ」
玄関から道路まで、十五歩。石段は四つ。
藍衣に背中をそっと押された感触を頼りに、私は陽射しにふくらはぎを晒した。白い、そう思ったと同時、スカートの裾が膝を擦って慌てて手で押さえた。外の空気が入りこんで細かく震える太腿は、薄い水色のデニム生地できっと見えない、見えないけど。
「さぁちゃん!」
大きなワゴン車の窓が開いて、辰おじさんがこっちを見ていた。無理するなと、口を引き結んでる。
白いシフォンのシャツが、スカートから出て来るんじゃないかと思うくらいにたわんだ。でも藍衣が『最高似合ってる』と言ったデニムスカートは風が吹いたってびくともしない。
大丈夫。あと十四。
一つ先の段差を見つめて、もう一歩脚を前に出したとき、バタンと車のドアが鳴った。顔は上げなかった、足音で分かったから。
あぁなんて無様だろうと思った。姿勢は悪いし、歩幅が狭すぎる。悔しい。何が平気なフリだ。
じゃり、とスニーカーの先が目の端に突き出した。
「あと、何歩?」
せめて声は震えずに済んだ。
「……十歩。つかまれ」
差し出された手に、私は目まぐるしく葛藤した。
「要らない。……ひとりで行く」
お腹に力を入れて背を伸ばすと、黒っぽいシルエットが立っていた。
誰が手なんか借りるか、十歩って言うなら十歩で行ってやる。
そこはまるで真夏のような眩しさだった。石段から陽炎が立ち昇る、急に風も吹きやんだ蝉の声さえ聞こえる暑さが戻ってきたような。
踏み出した。心の中で数える、後ろ脚がついてきた。段差を下りて、もう一歩進んで追い越した。視界はワゴン車だけ、あと七つ、六つ。
とお、と数えたとき、まだ一段残っていた。
だけど私は知っていた、また「いち」と数え直せばいい。
両手が車に触れた。いつの間にかおじさんも近くにいて「こっちだ」と手招きした。
車でいうトランク部分のドアが重く大きく開いた。すぐに大きなベッドが固定されているのが見えた。リモコンか何かでゆっくりスロープができていく。
ぴたりとモーター音が止まった。おじさんの促す表情に、私は銀色のスロープを上った。
おばあちゃんは薄紫の真新しいシャツを着て、目を閉じていた。きれいに洗髪してきたんだろう髪がふわふわとして、顔は横を向いていた。
「おばあちゃん……紗世だよ」
頭がつっかえるので、膝をついた。掛け布団ごと固定されたおばあちゃんの手は見えなくて、私はどこに触れていいか悩みベッドの縁を掴んだ。
「今日ね、本当は一緒に行こうと思ってたんだけど、行けないごめんね」
ちらっと見ると、おじさんも祐も近くにいない。そっと声をひそめる。
「……祐とケンカしちゃった」
薄く、落ち窪んだ目が開いた。緑か白の絵の具を混ぜたような瞳が私に向いた。
「もうずっと仲直りできないかもしれない」
じいと見つめ合った。カサついた肌に化粧水をつけてあげたくなった。
裾を引っ張りながら立った。
「見て、スカート履いてきたんだ。スースーして変な気分だし、腕と脚の色が違いすぎてウケるよね」
今度こそ、肩に触れた。恐ろしいほど薄くて骨ばって、ほんの少し温かい。
「でも私、履けた」
唇が数秒もごもごとして、瞳が逸らされた。開けっぱなしのリアゲートの先、空を見ているようだったから、私は入り口まで下がって全身が見えるように立った。
「ね、似合うでしょ?」
なんとなく首が揺れて、おばあちゃんが肯いたように思えた。
「よかった、ありがとう。絶対、会いに行くから」
もう一度揺れた。
それで満足することにした。偶然でもなんでもいい。このまま返事を求め続けても、結局はひどく独りよがりな結末になることは分かっていたから。
「さぁちゃん」辰おじさんが目を赤くして車の影から出てきた。
「おじさん、ごめんなさい。時間ないのに」
私がスロープを降りると、代わりに祐が乗りこんだ。何も言わずスロープを閉じて、「親父、遅れる」と鋭く言った。
「うるせぇ待ってやがれ!」
おじさんは苛立ちまぎれにリアを閉めた。そしてぐっと頭を下げた。
「無理させただろ。ばあのために、すまねぇ。ありがとう」
そして私の返事を待たず「ばあを送ってくる」と目尻を下げ、運転席に乗りこんだ。
低いエンジン音につられたように突風が吹いた。下ろした髪が顔にかかった。
車椅子の青いマークのワゴン車が遠ざかる。クラクションが鳴った。
黒いスモークフィルムで中の様子はひとつも分からないけど、きっと私のことは見えてる。ざわざわと植物が揺れて、道路の砂が巻き上がった。
私は手を振った、見えなくなるまで。
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