40.わかる

 家に戻ると、玄関に藍衣はいなかった。

 そういえば麦茶飲みすぎたって言ってた、トイレかな。

 なんとかやりきった。そんな気怠さに支配されていて、今すぐどうでもいい情報を目で追いたくなった。でもスマホは……あぁ部屋に置きっぱなしにしてる。

 框にドカッと腰かけ、脚を伸ばした。

 開けっ放しの玄関から砂埃の匂いがした。これから雨が降るのかもしれない。

 穏やかな波のような心許なさが寄せて、膝から下を撫でた。

 正面に切替えのあるデニムスカートは、去年こっそり買ったものだった。

 まるで子どもみたいに藍衣に着せてもらったことを思うと、当分、自分では履ける気がしなかった。

 水色の四角形から伸びた脚はやっぱり変に白い。それに急に太陽を浴びたせいか少し肌が張っている。

 黒のスキニーが恋しかった。

「……そっか、私」

 深い群青色に染まった爪先に触れ、サンダルを脱いだ。着替えてしまおうと。


 すると、誰かが玄関先を上がってくる音がした。

「藍衣?」

 外にいたのかと納得した。やけに家の中が静かだったから。私は今しがた脱いだサンダルをつっかけた。そして扉から顔を出し、後悔した。

「ヤァどうも」

 「あっ」と声を出すうちに逃げ遅れた。

「野上さん、チラシ見てもらえました?」

 男に扉の引き手を掴まれて、体を差しこまれた。無遠慮な足がずいと外との境を侵した。後ずさるしかない私は履きかけのサンダルでバランスを崩し、三和土たたきに尻もちをついた。

「ハハ慌てすぎ」

「か、帰ってください……新聞はとりません!」

 背中に框の角をぶつけた。痛みが走ったけど、精一杯声を張り上げた。睨み上げると相手は嘲りを浮かべていた。

「ボクは別に新聞売りに来たわけじゃないで、そら、お邪魔しますよ……。へぇ、外から見るよりいい家だねぇ」

 強引に入られ、私は框に腰を乗り上げて下がるしかない。ガチャンと鍵をかけられた。

 この人、なんで……!

 見れば確かに仕事中の服装ではなかった。まだ暑いのに白い肌着に長袖のネルシャツを羽織って、下は引きずるようなデニム。しかも動くたびにえた臭いがして、私は腕で鼻を覆った。


「どれ、上がらせてもらいますよ。ついでに通帳とか金目の物も見つけたいなぁ」

「な……」

「大人がいないのは分かってんだ。もう一週間だろ? ダメな親だよなぁ、こんな弱そうな女の子を置いて出かけるなんてなぁ」

 引っ張り立たせるために腕が掴まれ、私は痛みに呻いた。臭いに吐き気が込み上げる。「いや!」と抵抗しても、手はますます捻り上げてきて土足で踏み入った男に廊下を引きずられた。

「やだ……! やめて!」

 晒したふくらはぎが廊下の板に引き攣れる。茶の間に片足を踏みこんだ男は「もう一人はいないのか」と、奥の方を気にしている。

「さっきの車に乗ったのかな」

 この人、藍衣がいると分かっているんだ。

「なんで、知って……」

「そりゃあ知ってるよ、サヨチャン」

 はぁはぁと汗を滴らせた男が私を真上から見下ろした。

「この辺りは十年近くボクの担当だったのに、急に辞めさせられちゃってさぁ。ひどいクレーマーもいたもんだよね」

 ニタニタとした口調はベタついて不快。目の奥は穴が空いてるだけのように濁っていた。

「サヨチャンのことはずっと可哀想だなぁと思ってたんだよ」

 「ずっと見てたよ」涎が糸を引いた。

 私は怖気で震えた。同時に今にも吐きそうになって必死に喉を閉じた。

 藍衣は……どこかで見てる?

 まだ何かブツブツと言い続けるのを無視して、体勢を起こそうともがく。

「暴れんじゃねぇ」

 背中をしたたかに蹴られた。浮かしかけていた腰を床に強く打ち、吊られたままの腕が捻れてあぁと無理な仰向けになる。

 忌々しい分厚い手は手首に食いこんで決して離れない。

「あーあ、下着見えちゃうよサヨチャン」

 必死に薄目を開けるとスカートが摩擦でずり上がっていた、太腿の半ばまで。

 ヒィッと息を吸いこみ噎せてしまう。

「アハハ恥ずかしいよねぇ」

「ああぁぁ……! 離してぇ!」

 非現実的な暴力で混乱してフィルターがかっていた世界が、この瞬間色をつけた。

 私は叫んだ。抵抗しようと手を振り回そうとした。咳が出て唾を撒き散らした。

 だけど私が上げた声も力もささやかで、男の高笑いにかき消されてしまう。男の手が脚に伸びる。

 いやだ、こんな人に……! たすく!

 ————ッ!

 不意に大きな音がした。外だろうか。

 私がハッとするより早く男が反応した。

「な、なんだ……だれ、誰かいるのか。おい、答えろ!」

 もう片方の手首も掴まれ、私は勢いよく床にひっくり返った。まだ呼吸の整わない私はひゅうひゅうする喉で「いない」と言った。


 しばらく周囲をキョロキョロしながら悪態をついていた男は、何も起こらないことに安心したらしい。ぴたりと大人しくなった。

「ほら立ってサヨチャン」

 猫撫で声の粘つきに背筋を冷やす。手首の拘束が少しだけ緩んで、両膝に頼って立ち上がった。視界に、スカートにインしていたシャツの乱雑な裾とスカートについた斜めの皺が映った。

 後頭部に息がかかる。

「そんな短いスカートより、いつもの清楚なやつがいいよ。あとで着替えてね。やっぱり男なんか連れこんだせいかなぁ。ショックだよなぁ、あんな色気づいた脳みそも空っぽそうな不良と関わっちゃいけないよ。サヨチャンは大人しくて伏し目がちで清楚なのがいいのに」

「……は……?」

 顔を上げた。ごく近くに男の顔があった。

「あいつって学校にも行かないでふらふらしてるよね。ロクな奴じゃないからやめなよ。お先が知れちゃうよ、ねぇ?」

 聞き終えるや否や、私は男を突き飛ばした。

 予想してなかったのか相手は盛大にひっくり返った。どこか打ったらしい、板目の上で泳ぐ。

 私は茶の間に駆けこんだ。心臓がバカみたいに鳴って急かす。手のひらでセコムの緊急要請ボタンを押した、数秒――早く、早く! と待つと、「セコムです」とスピーカー越しに声がした。

 だけど助けてと応じる前に、男が這って入りこんだ。

「来ないで! 不法侵入です!」

 逃げ場もなく、私は奥のキッチンへと追い詰められる。セコムの端末から断続的に何か聞こえてくるけど返事はできない。

「ふざけんなよぉぉぉ痛い目見せてやるぅ」

 ひとつ近づくごとに立ち上がる男に再び恐怖が湧いて、私は洗い桶に干してあったフライパンを掴んだ。前に向けて構える。

 ——絶対に許さない。

 黒い円の縁越しに男が怯んだように見えた。土足の靴が母さんのお気に入りのラグを何度も踏む。さっき藍衣とくつろいだ場所を、地団駄みたいに。ぐしゃあと顔が歪んで、またあの声で言う。

「サヨチャン、落ち着いてね。ボク別になにもしてないでしょ」

 どの口が! 逆上しそうになったとき、男の後ろで大きくカーテンがぶわりと膨らんだのを見た。いつもならテーブルが置いてあるそこは、今は何もないので外にいる人の影をはっきり落とす。

 外の景色が露わになって、咄嗟、私は男に視線を戻した。驚きで声を上げなかった自分を褒めた。じりじりと距離を詰めてくる男は、私の動揺に気づかなかったようだ。

「ほら、なにもしないからそれ、こっちによこして。サヨチャンはそんなことしないよね」

「ウザい」

 「へ?」急に男が動きを止めた。鳩が豆鉄砲を喰らったような。

 対する私は、怒りと高揚でフライパンを構えた。

「ウザいって言ってんの! 私のことよく知りもしないくせに、勝手に価値観押しつけないで。私は……私の好きにスカートでもなんでも履くし、他人にどう思われたって関係ない!」

 その刹那、

 ガァン——ゴォンガン、ゴッ、ガァシャァァン———!

 ガラス戸が割れた。藍衣が金属バットで叩き割ったのだ。ラグの上にガラスが飛び散った。一枚割ってももう一枚、藍衣がさらにバットを振りかぶる。

 同時、玄関の方で鍵が開いた音がした。

「わ、わあぁぁぁ——!」

 男は恐慌して悲鳴を上げた。玄関の方へ逃げようとしたとき、祐が茶の間に飛びこんできた。男をひとつ突き飛ばし、後ろに回って羽交いじめにした。

 「こんのクソ野郎! 大人しくしろ!」「離せ、離せぇ」祐とめちゃくちゃに暴れる男の背はほとんど同じで、何度も祐はよろけた。

「紗世、今のうちに」

 祐が悲鳴のような声で言って我に返った。藍衣がまた残ったガラスを割った。

 逃げようと駆け出した。だけど廊下に出る直前、「うぅああ!」と揉み合う二人が大きな音を立てて床に転がった。

 下敷きになった祐の低い呻き声に私の足は止まった。

 驚くほど素早く起き上がった男が祐を蹴りつけた。興奮してか出鱈目で、見えているのに見えていないように何度もふらつきながら蹴る。それでも脇腹に食いこむ靴の先は硬く、みるみるうちに祐の顔色は悪くなっていく。

「や、やめて!」

 私は男の腕に取り縋った。「うるせぇ!」簡単に払われ、私は何度目か背中を打つ。ぐわんぐわんと取りおとしたフライパンが音を立てた。

「このガキ! なんで、ボクが、クソッ、クソ!」

 倒れて祐と視線が同じになった。目が合った。

「逃げろ」

 唇がそう動いた。そして唸りを上げて、祐は猛然と男の片足に取りついた。

「お前の、お前のせいダ、ア゛ッ!」

 騒ぐ男は、たたらを踏みながらバランスを崩した。

 ダメそっちは!

 ガラスの擦れる音がやけに涼しい音を立てた。

 細かなガラスの上で、祐は必死に男の脚を押さえつける、ズボンを引っ張った。「さよ、にげろ」食いしばった声がなおも小さく届いて私は踏み出した。脚が、体が、声が震えていた。理由はわからない。でも、

「……嫌だ」

 今だけは。

 背中が攣ったように痛かった。だけど膝にぐっと力を入れて立った。側にひっくり返ったフライパンを拾った。

「逃げない」

 こんな、自分を手放した大人から、傷つけられてたまるか――!

 両手でグリップを握り直した。まくれたスカート裾が太腿に当たるのを感じていた。

「離せ、ボクはあぁ」

 うるさい! 私が叫ぶと、男はひくっと黙った。

「誰もせいでもないんだよ。全部、ぜんぶ……」

 深く息を吸った。

「自分のせいに、」

 そして腰をひねって振りかぶって——「紗世、やっちまえ!」藍衣の声——ステップを踏み、

「決まってんだろ!」

 思いっきりフライパンを叩きつけた。

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