41.夜が明ける

 濁点つきの短い呻き声が上がると、祐に足を取られたままの男は勢いよく床に倒れた。そしてみんなが息を止めたような静寂の中、そのまま動かなくなった。

「……それ、生きてる?」

 藍衣が誰にともなく言ったのを聞いて、私は手に持っていたフライパンを落とした。ぐわん。祐が這って男の顔をのぞきこんだ。

「生きて、る……うぅっ」

 あれだけ蹴られたのだ、痛くないはずがないとようやく気づいて、私は祐に駆け寄った。

「大丈夫?」

「お、う……ってかお前、危ねぇからそれ以上動くな」

 聞いたことのない弱々しい声に私はこわくなる。しゃがんで手を伸ばした。腹這いの祐の、肩にでも触れようとして、板目にぽたりと血が垂れたのを見た。

「ぁ、血が! 祐!」

「うるせぇな……。さっきちょっと切っただけだ」

「救急車……」

 狼狽える私に、藍衣がサンダルを持ってきてくれた。

「外にいるとき警察と一緒に呼んだから、すぐ来ると思う。紗世、怪我は?」

 首を振った。背中が痛いし、手首には赤く跡がついていたけど、祐ほどじゃない。

 サイレンが聞こえた。パトカーの方だ。

 「外に出てくる」「あ、ありがと」藍衣が私の近くにフライパンを寄せて出て行った。

 扉が閉じた途端、祐が言った。

「……俺のせいだ」

 うつ伏せたままだから、くぐもって聞こえた。

「俺のことも、殴れ」

「何、言ってんの」

「俺もと変わんねぇだろ」

 ぽた、と赤い雫が相づちを打つ。サイレンが前の通りを向かってくる。

「こいつが少し先だっただけだ。そうでなきゃ俺もこうなってた」

 私は祐に触れかけていた手を止めた。

「俺はバカになってんだ。お前をめちゃくちゃにしないと気が済まなくなってる。すげぇ大事にしたいと思ったあと、傷つけたくて仕方なくなる。お前がどんなに泣き叫んでも俺を嫌いだって暴れんのは当然だって頭では分かってる。俺がそうさせたんだから、でもお前が俺の前からいなくなるのだけは許せねぇ」

 嫌だ、無理だ。

 祐はまるで駄々っ子みたいに言った。

「なぁ、紗世……」

 私の胸はかなしみで熱くなった。藍衣の『話した方がいい』という助言も思い出した。

 祐は再会したときから——ううん、もうずっと前から変われないでいるのかもしれない。大事なものを手放したりわざと傷つけたりすることでしか自分を保っていられないのかもしれない。

「祐、あとでまた話そうよ。私、もう逃げないから」


 サイレンが止まった。車のドアが閉まる音。きっと、藍衣が事情を説明しているだろう。

「ほら祐、警察が」

「俺が女に金とかもらってたの聞いたんだろ」

 忘れてかけていたありとあらゆる負の感情が私をずぶ濡れにしたような気分になった。そしてさっきのかなしみの熱と混ざりあって、ゆらりと陽炎のように立ち昇った。

 祐はさっきまでの掠れ声が嘘のように雄弁。

「言えよ、警察に。女にくっつかれて金集めてるこいつに乱暴されたって。そうすりゃもうお前と」

「どうでもいいよ」

 一瞬、祐の肩が揺れた。

 私は立ち上がった。スカートを撫でて伸ばした。シャツも整える。

 気配がしたんだろう、祐が顔だけをこっちに向けた。血が一筋、こめかみから頬を伝った。

「そんな風に突き放すの、もうやめて。自分のこと私に判断させて、逃げないでよ!」

 玄関が開いた、ドヤドヤと数人の足音が響く。

 祐は力が抜けたように目をつむった。


 *


 何も知らずに家に到着した父さんと母さんは、私が救急車で運ばれたと聞いてセコムの人にケンカをふっかけたらしい。それはともかく、病院に着いた一時間後、警察の聞き取りも茶の間のガラス戸もそのままに病院に駆けつけてくれた。

 

 藍衣は奇跡的に切り傷のひとつもなかった。

「タイミングは見計らったつもりだけど、なんか、新しい扉開いたわ」「紗世って元テニス部? ちょ、思い出して笑えてきた。ナイススマッシュすぎた」

 病院で合流した藍衣がそう和ませてくれなかったら、私はみんなに「ごめん」と言い続けるロボットのまま生きていくことが確定したかもしれない。

 あのとき、やはりトイレにいた藍衣は、はじめ祐と揉めてるのかと様子をうかがっていたらしい。だけどそうじゃないと分かって、助けを呼ぶためにトイレの窓から外に出た。

 そして祐と合流。茶の間のガラス戸が開いてるのは分かっていたから、そこからタイミングを見計らって事を起こした。

「怒り狂った海藤を静かに説得するのに比べたら、ガラス割るくらいどうってことなかった。ノリが喜びそうな話のネタができたわ」

 兄弟揃ってミステリードラマ好きだそうだ。

 一緒に病院にきてくれた藍衣のお母さんは線の細い美人で、ひどく恐縮していた。お互いにぺこぺこし合った結果、私と母さんで近々お詫びに伺うことになった。


 辰おじさんが到着したのはそのころ。

 おじさんは、おばあちゃんの入所は無事に済んでホッとしたのもつかの間、私のウチの前の大騒ぎに仰天。私も祐も無事で病院にいると分かると、真っ先に建具屋に連絡をとってくれたそうだ。今、茶の間は青いビニールシートで隠されているらしい。

 そうして駆けつけた辰おじさんが極めつけで、私たちは看護師さんにこっぴどく叱られ、一時解散を余儀なくされた。といっても、私は祐の付き添い、大人は外で相談。藍衣はお母さんと帰っていった。



 救急車の中で気を失った祐は、ガラスで切った頭を三針、左腕を七針縫った。肋骨も一本ひびが入っているらしく、三週間は安静。

 入院の手続きのとき、父さんが「個室で」と譲らず、すごく高そうな部屋に通された。宿泊も自由にできるらしい。

 全身麻酔も何もせずとも祐は眠り続け、詳しい検査も明日の予定。さっきまでしばらく様子を見ていた辰おじさんは、

「好きなだけ寝ろよ。今夜からゆっくり寝れるんだから」

 と、十も老けこんだみたいに祐の前髪を撫でていった。


 夜の八時を過ぎていた。

 就寝には早いけど、祐がゆっくり眠れるようにと照明はドア側の常夜灯だけ。ブラインドは私が面倒で開けたまま。

 住宅灯の見える窓、点滴のパック、祐。ベッドの右側でその三つを交互に見てはぼんやりしていた。眠気もあった。背中の打撲もそれなりに痛い、祐の手前、泣き言なんて言えないから黙っていた。

「さよ、ここどこだ」

 やけにしっかりした声が私を呼んだ。

「ぁ……病院だよ。大丈夫? あっ動かないで、縫ったんだよ」

 言っても聞くような祐じゃない。案の定痛がって大人しくなったのを見て、「ほら」と笑ってしまった。祐はふくれたようになって「クソいてぇ」と言った。

 私は笑いを収め、立ち上がった。もう眠気は去っていた。

「祐、助けてくれてありがとう。怪我させて、ごめんなさい」

「……おう。もういいから、座れよ」

 下げていた頭を戻すと、祐は口をひん曲げてこっちを見ていた。そして、

「まだその格好してんのか」

 と、顔を逸らした。

 着替える暇なんてなかったし、状況からして、それこそどうでもいいことだった。また後日履けるかは別として。

 うん、と返事をして椅子に座った。すると裾が少しだけずり上がって、急に恥ずかしくなる。

 沈黙。

 本当は話したいことがたくさんあるのに。いや違う、たくさんありすぎて選べない、どれが今に相応しい話か言葉か。

「ね、どうして戻ってきたの」

 ようやく出たのはいつ聞いてもいいような話題。情けないと思いつつ、答えを待った。おばあちゃんについて行ったはずの祐が助けにきたのは不思議ではあった。


 祐は記憶を辿るよう目を細めてから「お前が降りたあと」と、話し出した。

「バス停を過ぎたあたりで、ばあちゃんが急に目を覚ましたんだ。『辰さん、車を止めなさい』って、はっきり言った」

 それで祐はおじさんに声をかけ、車は一時停止。

 何寝ぼけてんだと疑うおじさんと祐が口論になりかけると、おばあちゃんはまたはっきり「聖徳太子でもあるまいに」と苦言を呈した。驚きすぎたおじさんが腰を抜かすと、おばあちゃんは愉快そうに笑ったそうだ。そして、

「俺に『さぁちゃんにポッキー持っていきな。棚に入ってるだろ?』って言ったんだ。『今すぐだよ、走って行きな』って」

「おばあちゃんが……? なんでいきなり」

「分かんねぇ。たまにあるんだ、最近は全然だったけど。……だけど俺、すぐ行かねぇって言った。そんときはまだお前にどんな顔すればいいか分かんなかったし親父にばあちゃん任せるのもこわかった。パニックになったらって」

 そうだった。おじさんは、おばあちゃんと二人にならないように気をつけてた。

「そしたらばあちゃん、」

 祐は涙をこらえていた。こらえきれずに両目から川のように筋ができた。

「笑ったんだよ」

 私と祐は手を繋いだ。私の手が伸びたとき、絆創膏でいっぱいの腕が動いて、ぎゅうぎゅうとお互いで握りあった。

「それで俺、走って……」

 祐は嬉しかったんだろう。

 でも同じくらいこわくなったんだ。

 祐の手は何度も繋ぎなおされた。何度も。何度も、何かに縋らないとたまらないのだと教えていた。

 きっと、祐はおばあちゃんがに戻る前に車を出たんだろう。

「さよ、さよぉ」

 子どもみたいに泣く祐が切なくて私も取り乱してしまいそうで、手を繋いだまま、祐の肩に頭を乗せた。すぐに祐の顎がつむじを擦って、腕が私を絡め抱いた。ベッドに半分乗り上げる姿勢に背中が痛んだ。

 あんなに嫌いだと許さないと思っていたのに。祐の体温は一緒に溶け合ってしまいそうなほどしっくりきて、もう離れたくないと思った。


 ――微睡んで、話して。また微睡んで、一緒に夜明けを見た。

 真っ暗だった東側の窓に、まるで火が立つように白が差すのを。やがて白い火は炎のように広がって、空が群青へ紫へ、そして透明な藍になるまで。



 翌日、私たちは叩き起こされた。「あんたら、病院でいい度胸ね」と見たことのない形相の母さんに、祐の腕はひゅんと離れた。

 看護師さんや父さんに見つからなかっただけまだよかったと思いたいけど、死ぬほど恥ずかしのには変わりない。

「じゃ、じゃあね」

「おう」

 もはや呆れて生温かい目の母さんが廊下に出たところで、私は小さく祐に手を振った。開け放たれたドアからは病院内の静かな騒がしさが入りこんで、私を現実に引き戻した。

 踏み出すと、祐が「なぁ」と呼んだ。

「うん?」

「ちゃんと食えよ」

「え?」

「あと寝ろ」

 何だろうと思ったけど、肯いておいた。

 私たちはまだ肝心なことは何も話してないけど、きっと話し合える。祐が退院したら、私から会いに行こう。じっと見つめてくる視線に、そんなことを考えながら。

「あとは、勉強しろ」

「それは祐に言われたくない」

 羞恥でおかしくなってるのは自分だけじゃないらしい。いつもの調子に戻ったようで安心して、もう一度、

「じゃあね」

 と言った。たぶん素直に微笑んで。

 後悔は、苛立つ母さんの声で祐の顔をロクに見なかったこと。


 その日のうちに祐は退院した。

 そしてその翌日、祐はいなくなった。誰にも行き先を告げずに、どこかへ行ってしまった。

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