36.話せない
昼休みのうちに学校を飛び出したまま、駅のいつものベンチでぼうっとしていた。
バスに乗って帰るのは嫌だった。ウチにいるとあの新聞屋が来るかもしれない。祐の家に帰って、祐とふたりにもなりたくない。
学校にだって戻れない、サボったからきっと怒られる。藍衣も、まだきっと怒ってる。それに私以外の全員が、私の知らない
この駅もベンチも、あと二時間もすれば高校生でいっぱいになる。断続的に鼻の奥がつんとして、ぐっとこらえる。
藍衣の正論が伝えていることは一つだけ、でもそれができない。スマホなんか握っていても何も解決しないのに、手元を動かし続けて考えること先延ばしにする。どうしようもないよ、だって誰も教えてくれないなら仕方ない。
インスタを好きなだけスクロールして画面を飛ばして、今度はLINEのフレンドを宛もなく。フレンドが少なすぎてすぐに底につく。藍衣に何か送ろうか、ううん私が謝るのは変だ勝手に怒ったのはあっちだ。苛立ちかやるせなさかが燻って画面の広告が煩わしい。
適当にタップすると、偶然母さんとのトーク画面が開いた。ロスに着いてすぐ送られてきた『なにかあったらすぐ連絡ね!』が目に刺さる。藁にも縋りたくなった。
「もしもーし! 紗世? どうしたのなにかあった⁉︎」
ぐっと息を止めて、吐いた。
「……ううん別に元気かなと思って」
「なによもう。びっくりした。というか、あんたの方が元気なさそうなんだけど」
「うん。さっき具合悪くて早退した。駅にいる」
「えぇ⁉︎」
「ちょっと疲れただけ。熱もないし」
「ダメよ今すぐ辰くんに電話して迎えに来てもらいなさい! バス酔いすると酷いんだから」
「そこまでじゃないから大丈夫。ってか私、母さんみたいにおじさんをパシれる訳ないじゃん。おじさん今日仕事だし」
これは嘘。おじさんは休みをとっておばあちゃんの入所の準備をしているはずだった。
「じゃあタクシー乗って!」
母さんがあれこれ心配するのがウザくて可笑しい。勝手に耳に流れこむマシンガントークのおかげで現実がぼやけた。
どうやら父さんは相変わらずみたいで、母さんは毎日ガミガミやってるようだった。ハウスキーパーはまだ見つからないらしい。
「それでね、もう埒が明かないから父さんも一緒に帰ることにしたのよ」「過労で長期休暇もぎ取らせたから」
父さんは仕事に未練がありまくるけど、とりあえずは帰国に納得したらしい。あっちの医者は悪くはないけど気が合わず、日本のドッグを受けて異動も検討するそうだ。
帰国を告げる声が嬉しそうで、私も素直に「よかったね」と返した。最後に見た父さんのやつれ方は本当に酷かった。
「えぇと、飛行機はそっちの土曜ね。何もなければ一時着よ」
その日は。
「……うん。気をつけて」
「紗世も! 父さん似なの自覚して絶対タクシーで帰って」
「分かったって」
「はぁい、また連絡するわねー」
「Good night」軽快なテンポで通話が切れた。黙ったスマホを下ろすと、体力がごっそりなくなったような疲れに支配されて、私は背もたれにだらしなく寄りかかった。
おばあちゃんの入所のこと、話せなかった。
不審者がまた来たことも。
打算が働いたからだ。
このまま祐と気まずいままだったら、母さんたちの帰国を理由にウチで留守番すればいい。辰おじさんならきっと分かってくれるし、むしろそうすべきと言うかもしれない。だけど不審者の話をしてしまえば、絶対に祐は離れようとしなくなる。私に話すべきことをうやむやにしたままでも、きっと。
——私って、最悪だな。
視界に入った紺のプリーツの真っ直ぐな線を目で裾までたどって、ローファーの爪先に反射する鈍い光へと視点を合わせた。
逃げてばっかり。
母さんと父さんの帰国より、おばあちゃんのことでおじさんに切った啖呵より。祐と向き合えないことを優先して逃げようとしてる。
指の腹でスカートの折り目をなぞる。どこまでも続いていて腕の長さが足りない、太腿に手を戻した。
お弁当を突きかえしたときの祐の顔が浮かぶ。きっと怒ってる、帰ったら無視されるかもしれない。だって私が先にそうしたから当然。
「……いいや、帰ろ」
ロータリーの奥にタクシーが二台停まっているのが見えた。ひとりになるにはバスよりいい、母さんがあぁ言ってるしカードを使ってもいい。そして具合が悪いと客間に引きこもろう。とにかく私は祐の家に帰るしかないし、あと二日はお世話になるしかない。
自動ドアが開いて風が前髪を乱した。涼しいのに陽が明るくて、一瞬くらりとした。さすがに何か食べないとな、と反省したとき、
「あっ」
目を疑った。祐がいた。
初めて見た柄の黒Tシャツだけど間違いなかった。小さな紙袋を抱えてベンチに腰掛けている。商店街行きのバス停に、他に並ぶ人はおらずひとりで。
私は一問目から難問を与えられたような心地に唾を飲んだ。
屋根付きのバス停では風が吹くらしく、少し伸びてきた真っ黒な髪先が揺れている。走れば数秒後にはスニーカーが地面を擦る音が聞こえる、今だって名前を叫べば聞こえる距離にいた。
同時に妙な高揚感が湧いていた。もし祐の視界に入ることができたら、家に着くまで嫌でもふたりきりだ。肝心なことは話せなくても——。
そうだ。祐は私を無視なんてしない。
私がもっと勇気を出せばいい、祐が話したくなるまで待てばいい。
おかしなことに今すぐ手を繋ぎたかった。なんならハグされてもいい誰に見られたって構わないとまで思った。頬に祐の髪の感触がした気すらして、唇がにやけた。
さっきまでのごちゃごちゃしたものが一気に勝手に抑えこまれて、私は踏み出した。好きなんだ、悔しいけどすごく。
だけどあと五メートル——そこで私の脚は止まった。
祐にピントを合わせていた視界に、不意に彼女が入りこんだ。
短いスカートの、明るい髪。祐の頭に抱きついた彼女は躊躇なく隣に座り、あの夜のように腕を組んだ。祐の、なんでもないような横顔。
後ずさるしかなかった。
そうして私は臆病にも、バスの通り過ぎる音が耳に届くまで足元の自分の影を見つめていた。
今タクシーに乗って帰ろう。荷物をまとめてウチに帰ろう。祐には会えない、会わないように。
タクシー乗り場は反対方向。暑いのにがたがたと震えていた。バスはもういないと分かっていてもその場から動けないのだ。頭だけが忙しなく回っていた。びゅうとぬるい風が何度か吹いたと思った。そのとき、
「サヨ? だよね?」
肩が跳ねてしまった。
「海藤は帰ったよ。見てたでしょ」
あの子の声だった。
嫌だ絶対に振り返りたくない。話したくない目を合わせたくない。全部見なかったことにして帰りたい、今朝はごめんと謝って何も気にしない振りで過ごせばいい。抱きしめられればいい、キスを受ければ——。
「話したいんだけど。海藤のこと」
けれど私は振り返った。髪と同じ、薄い色の瞳が真っ直ぐに私を映していた。
*
M高の夏服は女子がシャツに首元リボン、スカートはグレーのチェック。プリーツが跳ねると少し焼けたきれいな太腿が見えてしまうほど短い。
「私、レイ」
駅前のコーヒーショップの二人掛けで私たちは向かい合って座っていた。
彼女が動くと、茶髪が肩でたわんで滑る。小動物っぽい目元が伏せると、きれいにコームを当てたまつ毛がくるりとカールしていた。
彼女はコーヒーを、私はカフェラテを頼んだ。冷たいカフェラテは一口含んで飲み下した瞬間に胃を痛めつけて、ただグラスに汗をかかせたままになっている。
「ここ、いつも海藤と来るんだ」
へぇと返した。二人でいたのを見かけたことがなかったら、もっと取り乱したかもしれない。ううん知らない方が他人事みたいに思えただろうか。
店は昼時だからかそれなりに混んでいる。平気な顔をしていないと、冷静に『話』とやらをしないと。
「それで話したいことって、何ですか」
強いエアコンで汗は消えたけど、リップの剥げかけた唇がひりついた。
「んー。もっと早くしゃべってみたかったんだけどタイミングなかったじゃん。ユルく仲良くできたらなーと思ってたんだ」
耳を疑った。まるでずっと同じクラスだった友だちに話すようなトーンに戸惑いが深まる。マイペースな話は続く。
「海藤はさ、なんだかんだヤサシーじゃん。面倒くさいとか言いながらさ、頼むと構ってくれるでしょ。それ分かってない子がウザくてさ。でもサヨなら頭良さそうだし、さっきもワキマえてくれてたからさー」
レイの口調はおっとりしていてケンカを売るような雰囲気はない。
わざとなんだろうか、分かるようで分からないことばかり言うのは。弁えるって何を? 話の中身も意図も見えないもどかしさに、無理にカフェラテをすすった。冷たい塊が食道を不快に冷やした。
「そういえばさー、海藤の髪黒くしたのって、サヨなんでしょ? 茶髪の方がよくない? 次は金髪にしよっかって言ってたのに。あれ、私の知り合いに頼んでやってもらったんだよ」
違和感の辻褄が合った。美容室で染めるのは高いし、祐がひとりで美容室に行く想像がつかないと思っていた。
やっと話せる内容だと、努めて落ち着いて答えた。
「……学校に行くからって。祐から黒に染めてって頼まれたから」
たすく、ねぇ。レイは急に口に合わないガムを噛んだような渋顔になった。
「あいつ学校やめるのに意味なくない?」
「やめない……と思うけど」
だっておばあちゃんが入所したら時間ができる。来週からはちゃんと。そしたら学校に行くはずだ。
「あれ、知らなかった?」
レイは明るく「ちょい待って」と、スマホをいじり始めた。そしてほとんど間を置かず私にそれを向けた。
レイが『海藤って退学じゃなかったっけ?』と、グループ内で呼びかけたらしい。
『今月で強制だべ』
『ってか来てないし確定』
『あいつはしゃーないw』
あっという間に吹き出しが増えていく、それがM高では周知のことだと分からせられる。
「単位がアレだから今月で補講受けなかったら退学だって聞いてたし。さっき本人もそれらしいこと言ってたよ、昼にできるバイト探してるって」
『がんばったの一瞬じゃね』
『ってか中退カワイソ』
続く軽薄な文字群を、レイは暗転させた。
私は、足元から世界が崩れていくような気がして、膝の上で拳を握った。
「サヨにはまだ言ってなかったんだね。ごめん先に教えちゃった」
レイは困ったように笑った。ストローをからりと回してコーヒーを飲んだ。
数えきれない疑問と感情が胃液と共にせりあがりかけた。
この子は、祐のなんなんだろう。違う——私は?
「レイ、さん」
「ウケる。呼び捨てでいいよー」
ほとんど祈りながら言った。
「……レイは、祐と付き合ってるの?」
するとレイが突然、のけ反って「アハハハハ」と笑った。やっぱなー知らなかったかぁ、そっかー。瞬間、彼女の目つきががらりと変わった。
「話していいの? マジメなサヨは海藤のこと嫌いになるかもよ?」
声すら別人。あぁ、これは——。
「私、海藤とはずっと同クラだったからさー」「大事な大事な『サヨ』の話も聞いてるし、ふたりがケンカするのは嫌っていうかー」「あいつも結構苦労人じゃん?」
——悪意だ。
さっきまでの物言いはネコかぶりだったらしいと、腑に落ちた。
ふふふ。レイは満足げに微笑むと、グラスの底に溜まった残りを吸い上げた。
「あいつウリしててさ、多いときは五人くらい掛けもってたんだよ」
ごにん。それが人数のことだと理解する前にレイは言葉を継いだ。
まぁウリっていってもパ活的な? あ、本番なしね。ストローを振り上げて言う。
「海藤はさ、辛い現実に向き合いきれなかったんだと思うなー。女子も可哀想で金払いよかったみたいだし? でもさホントにダメな奴だよね。ガワがそこそこだから許しちゃうんだけどねー。あ、ごめんごめん。今の人数は詳しくは知らないよ。かなり減っただろうけど。もちろんサヨが本命なのは間違いないと思うし、さすがにスマホ持ってない奴とは約束できないもんね。私もさっき久々に会ったくらいだしさー」
レイはテーブルに肘をついて私に微笑む。
「でもやーっとスマホ買ったでしょ? これからは忙しくなりそうだねー。海藤って無愛想だけど余計なこと言わないからリピートも多かったみたいだし」
駅で見た小さな紙袋は、と思い当たった。
「私も結構貢いだんだよー。だから学校やめてもたまに貸して欲しいー。もったいないじゃん、せっかく金かけたし。海藤的にも私に恩? 感じてるっぽいから。さっきも見たでしょ、金出さなくてもハグとか許してくれんだよね」
目眩。ただの返事もできない。
そっちの学校でもパ活とかフツーでしょ。海藤はスマホないから『#好きピ』とかってインスタにあげられまくって有名になっちゃってさー。ほら私のストーリー、匂わせだけど知ってる人なら即バレだよね。あ、もちろんこれからはサヨには遠慮する。だって海藤って独占欲強くない? 二年のときは暴力で荒れてたじゃん、殴られたくないし? 私だってそれなりに海藤のこと好きだからうまく続けたいんだ」
レイが身を乗り出して内緒話みたいに声をひそめる。
周りから見たら、仲良くおしゃべりしてるように見えるんだろうか。
「ねぇ、なんか言いなよ」心底可笑しそうな彼女。
なんかって、なんだろ。あぁ否定しろってこと?
「祐は、そんな、こと」
上滑りした言葉は、
「えーまだ信用する? あいつ、うまくやってるねー。本人に聞いてみなよ。あ、でもサヨには誤魔化すかもね。そういうの下手クソ過ぎてすぐ分かるけど」
簡単に打ち消された。
レイがストローを咥えて噛んだ。噛まれて咀嚼されて、小さな砂粒になってこの場から消え去る妄想が目の奥で渦巻く。悪夢から抜け出す方法を知らず、私はしばらくぼんやりしていたのかもしれない。
「あっ、私約束あるんだった。ここ奢るから、色々バラしたのは黙ってよ」
ハッとした。
「ダメ、私が」
この子に奢ってもらうなんて絶対に嫌! 咄嗟に手を伸ばしたけど、すんでのところで伝票を取られた。
「ふふ。顔色悪いよ、なんか食べて帰ったら?」
空振りのまま見上げると、頬に彼女の髪先が触れた。テーブルに手をついて、レイは私の耳に唇を寄せた。
「あとでインスタフォローしとくね」
じゃあね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます