35.ケンカ

 ピンポーン。

 あれ、ウチのベルが鳴ってる。そっか私、祐の家じゃなくて……。

 そう思った瞬間、目が覚めた。ガバッと起き上がると、部屋が薄暗くなっていた。まずい、本当に心配かけてるかも。

 スマホに手を伸ばし着歴を確認する、電話は来てなかった。急に目覚めた不快感と冷や汗に頭を振る。二度目のベルに、ふらつきながら廊下に向かった。

「こんばんはーいるんでしょー」

 「はい」と言いかけて息を止めた。祐の声じゃない。半分廊下に出ていた体を引いて曇りガラスの奥をうかがった。どこか覚えのあるシルエット。

「野上さぁーん」

 あの人だ——!

 前に祐が追い払った新聞屋の。さらに血の気が引く——どうしよう鍵が開けっぱなしだ。

 だからお前は危機管理がと、祐の怒鳴り声が頭の中でぐわぐわんと反響した。音を立てないように茶の間に後ずさった。母さんが「もしまた来たら警察に連絡よ。今度こそ訴訟」と、八月は口を酸っぱくして言っていたのを思い出す。厳重注意するからと弱りきった新聞屋の社長に泣きつかれ、母さんが折れたと言っていた。地区の担当を外すと約束したって聞いたのに。

 セコム、ううん間に合わない。スマホの電話帳の履歴から『海藤』をタップした。コール、コール——。でも出ない、出ない。

 がぁん。がぁん。玄関扉が叩かれ、心臓が止まりそうになる。

 お願い、開けないで! そのまま帰って!

「……ここにチラシ置いてきますねぇーまた来ますんでぇー」

 私が中にいると分かってるような口ぶり。

 相手からは見えていないと分かっていても恐怖で動けなくなった。

 かすかに人が遠ざかっていく気配、車のドアが閉まる音エンジン音。私はまだ呼び出しを続けるスマホを耳に当てたまま、玄関をうかがった。いない。緊張が解けて力が抜けそうになったのを踏ん張り、ダッシュして錠を下ろした。


 どのくらい経ったか、スマホを握りしめたまま茶の間に座りこんでいた。唐突な着信音に驚いて背中を壁にぶつけてしまった。

「もしもし紗世。今どこだ」

「祐……」

 安堵が全身に染みた。

「待たせて悪かった、帰ってきたぞ。手紙見たか?」

 見てないと返すと、ため息をつかれる。どうやら合鍵の隠し場所——庭の鉢の中に帰りが遅くなるとメモを残していたらしい。

「ウチに寄ったら寝ちゃってそれで」

「じゃあ今から迎えいく」

 受話器が置かれた音で電話は切れた。待ったのは数分でも半日のような気分で待った。「おい入るぞ」と、玄関が開いたとき、私はようやくまともに息を吐き出すことができた。

「なんで真っ暗なんだ」

 玄関からは死角になる壁に身を寄せていた私を見つけると、「何してんだ。寝ぼけてんのか」と呆れたように頭を撫でた。正面に祐がしゃがむと、どうしても抱きしめてほしくなって両手で目の前のシャツを掴んだ。瞬く間にぐいっと背を引きつけられて、ぬくもりに包まれた。

 あぁやっと怖くなくなった。私は、少し湿っぽいシャツに構わず頬を擦りつけた。

「祐、私さっきね」

「今日、ばあちゃんが入る施設に行ってきた」

 祐の声は低くて重かった。私の声は聞こえなかったようだった。

「ああいう場所行くと緊張する。疲れた」

「……うん」

「ばあちゃんの買い物も時間かかった。家で使うのと訳違うし、イマイチ分かんねぇから」

「そっか。お疲れさま」

「おう……帰って飯食おうぜ」

 うん。返事をしても祐は離れない。よっぽど疲れたんだろうと思うと、話し出せなかった。私も穏やかなハグで少しずつ気持ちが楽になっていった。



「ってなことで、ばあの入所は土曜だ。悪いけどさぁちゃんは留守番しててくれ」

「土曜って、今週の? そんなに急に?」

「ベッドが空いたってよ」

 辰おじさんがビールをあおった。

 昨日連絡があって急遽、祐と手続きに行ってきたとおじさんは説明してくれた。三ヶ月は待つって言われてたんだが、と複雑そうな表情で。

「だけど決めたことだからな、善は急げって言うしなぁ」

「どこのホームなんですか?」

「隣のT市。こっからだと車で三十分くらいだな。おーい祐」

 呼ばれた祐が新しいビールを差し出して、おじさんは嬉しそうに受け取った。醤油皿を配りながら、祐も席についた。

「畑に囲まれた郊外だけど、最寄り駅からチャリで五分。歩きでも十五分くらいだった。お前も刺身食うか?」

「ううん」

 私は焼き直してもらったパンケーキ。おじさんと祐は、スーパーで買ってきたお弁当とお刺身。出来合いのおかずを食べる祐を初めて見たので、ふたりとも本当に疲れて帰ってきたんだろう。おじさんもビールを飲んでるのにあまり元気がない。

 他人の私でさえ、いよいよと聞くと不安がよぎるのだ。預けて大丈夫なのか、おばあちゃんは悲しまないだろうか。お世話の負担はなくなるとはいえ、ずっと一緒にいた家族が欠けるのは。

「あの、おじさん。入所の日、私も一緒に行ってもいいですか」

「あー? そりゃーなんでまた」

「私、ずっと考えてたんですけど……。本当はおばあちゃん、施設になんて行きたくないと思うんです」

 おいおいさぁちゃん、今さら何を。おじさんが遮ったのを、祐が「親父、いいから話聞けよ」と取りなす。

「もしかしたら、おばあちゃんは家から追い出されたって思うかもしれない。話はできないけど、分かってて……悲しんでるかもしれないって。私が母さんに話さなければ、母さんがおじさんを説得しなきゃおばあちゃんはずっとこの家にいられたはずだし」

「いや、まぁな。そりゃあんたらが勧めた話ではある。……だけど最後に決めたのは俺たち家族だ。ばあも観念するさ。さぁちゃんが気に病むことじゃねぇ」

 おじさんが身を乗り出した。

「誰のせい、なんてことはねぇんだ」

「おじさん。でも私……だから私、一緒に行きたいんです」

 昨日、祐が「もう十八」って言っていた。確かに私はもう小さな子どもじゃない。法律的にも成人なのかもしれない。でも実際は社会で生きてく知識もないし、生活するにも私は何の役にも立てない。土曜もきっと、金魚のフンみたいにみんなの後ろをついていくことしかできない。

 でも私には、おばあちゃんが新しいベッドで安心して休めることを見届ける責任がある。ううん、それしかできない。

「お願いします、おじさん」

 辰おじさんはマグロをビールを流しこんで、「分かった分かった」と手をひらひら振った。

 真面目に頼んでるのに、態度が軽い。顔にムッとしたのが出たらしく、おじさんが半目でニヤリと笑った。急におじさんは上機嫌になったようだ。

「やっぱり、さぁちゃんは清子さん似だな。責任感が強い女はいいよなぁ。こりゃノン坊みてぇに男を尻に敷いちまうぞ、なぁ祐」

「うるせぇ黙れ」

「アァ? お前親に向かってうるせぇだぁ?」

 祐の作ってくれたパンケーキは、卵白をしっかり泡立てたスフレケーキらしく、口溶けがすごくいい。言い合いを始めた親子を無視して、私はゆっくりとそれを平らげた。食べたらおばあちゃんに会いに行こうと思いながら。


 ——おばあちゃんの部屋で何冊か絵本をめくっていると、祐がオムツを替えると言ってお世話を始めた。清拭せいしきを直視はできず、私は隅で絵本を抱えたまま祐に話しかけた。

「ホーム、どんなところだった?」

「……思ったより明るくて、臭いとかもなかった。プライバシーあるからって部屋は空いてるとこしか見れなかったけどな」

 名前を聞いて、さっきスマホで検索していた。でもホームページに映ってるのは元気そうな、おばあちゃんみたいに寝たきりの人じゃなかったから、ピンと来なかったのだ。

「私って面会に行ってもいいのかな。家族じゃないのに」

「お前はもう家族みたいなもんだろ」

 ばあちゃん終わったぞ。なんだ、寝てんのか。あとで水飲ませに来るからな。

 お世話が終わった祐に促されて、私も部屋を出た。この前まで暑かった廊下は少し蒸す程度で、随分涼しくなったんだなと思う。

「お前、勉強しねぇのか」

「うん。今日……疲れたし。明日学校ですればいいから」

 じゃあテレビでも見るか。タオル片付けてくる。祐に茶の間で待つように言われ、私はテーブルに突っ伏して待った。

 今日あったことを整理しようしてもうまくいかなかった。不安とか恐怖を言葉にしたくても、言い始めたら感情的になってしまいそうで嫌だった。「紗世」と声がして、隣に祐が座ったらしい。顔を横に向けると、石鹸の匂いのする指が私の頬を撫でた。軽くつねられる。

「なぁ。パンケーキ、うまかったか?」

「うん。……すごく美味しかったよ。ありがとう」

 祐から料理の感想を求められるのは珍しかった。朝も美味しいと何度も言ったはずだけど伝わってなかったのかな。

「本当にふわふわだった。今度教えて」

「おう」

 頭を撫で始めた大きな手に構わず私は目を閉じた。なんだ眠いのかと優しい声がして、勇気をひり出した。

「ねぇ祐。今日ね、学校で祐のこと聞かれたんだ」

「あ? なんだそれ」

 手が離れた。私は目を開けないまま。かえって心臓の音が反響して緊張しながら。

「私がM高のカイトーと付き合ってるって、噂になってるみたい」

「……ほっとけよ」

「うんでも、なぜかみんな祐のこと知ってるみたいで」

「いいからほっとけ」

 ドンと足が畳を打つ音がして、私はハッと目を開けた。祐は立ち上がっていた。

「もう寝ろ、眠いんだろ」

「待ってよ、聞いて」

「ばあちゃんに水飲ませてくる」

 踏み出した足が迷うように一度止まって、出ていった。


 *


 私って、結構ひどいことできるんだな。

 乗ったばかりのバスはいつもと変わらずがらんとしていて、吊り革だけがぶらぶら揺れている。

 今朝は、朝ごはんもお弁当も断った。くだらない反抗の仕方だと思っても、そうでもしないと気持ちが収まらなかった。おじさんの前で暴れるよりはよかったはず。

 「ダメだ持ってけ」突き出したお弁当包みを、無視して祐の家を出てきた。不思議なほど、なんの罪悪感もない。

 すごく涼しい朝で、半袖で肌寒いと感じるくらい風が冷たかった。流れていく山の風景も緑が褪せて見える。夏が終わるんだと、窓に映るセーラー服の白を見つめ返した。


 だけど知らぬ噂は追いかけてきた。

「紗世聞いたよーM高の男子だってー?」

 さして仲良くないクラスの女子からトイレで話しかけられたときは、体調は最悪だった。紅茶パックを飲んだきり、お腹も減ってるし寝不足で頭痛が始まっていた。

 理科室脇のトイレは蛍光灯が薄暗くて、女子たちは鏡に近づいて眉毛やアイメイクを直している。

「しかもあのカイトーなんでしょ?」「やるじゃん紗世」

 鏡越しに視線が集中して私は無理に笑った。洗った手をハンカチで拭って、「じゃあね」と立ち去ろうとした。でも、

「ってか、ホントに彼氏?」「カモられてたりして」

「なんの、こと?」

 ドアノブに手をかけたまま、私は振り返った。ふたりとも視線が合わない、でも私のことを傷つけたい雰囲気が歪んだ口元から放たれている。

「言い方ひど」「えーだってぇ」

 パチン、と誰かのコンパクトが閉じるのと同時、他の女子がトイレに入ってきた。勢いよくぶつかってしまい謝り合っているうちに、さっきのふたりは素知らぬ顔で出ていった。



 お昼を持ってきてないと言うと、藍衣がおにぎりをひとつ分けてくれた。帰りに何か奢る約束をして、ありがたくいただく。小ぶりの丸おにぎりは、塩が効いてて美味しかった。

 今日の藍衣は朝から口数が少ない。一緒にはいるけど、ずっとスマホをいじっているか机の縞模様に目を落としているかで、明らかに元気がなかった。私も似たようなもので、肝心なこともそうでないことも話づらい空気。

「……藍衣、聞きたいんだけど」

「うん、何?」

「さっきね、トイレで『カモられてる』って言われた」

 はぁ? 藍衣は不快そうに眉を寄せた。

「ウッザ。人のことなんてほっとけばいいのに」

 『ほっとけ』に胸がムカついた。

「西谷くんも言ってたじゃん。『騙されてる』って。それってどういうこと?」

 藍衣の形のいい口元が曲がった。そしてゆっくり脚を組んで、おにぎりを一口頬張った。私は待った。

「……海藤に聞きなよ。私が教えることじゃないと思う」

 彼女の『海藤』が、みんなと違う聞き慣れた発音だったことに、目が熱くなった。今日二パック目の紅茶を飲んで、心を落ち着かせる。

「祐は教えてくれなかった。誤魔化されて」

「じゃあ私は言えない」

「藍衣、お願い……」

 背を丸めて頭を下げた。もう藍衣しか頼れない。

「あのさぁ。何度か言ったよね、聞かないのって」

 強い口調に持っていたおにぎりに力が入った。

「はっきり言うけど。今まで不安に思うことがあっても、あいつに伝えなかったのが悪かったんでしょ。勝手に拗れてんだから自己責任じゃん。なんで私があんたたちのフォローしなきゃいけないの」

 藍衣が椅子を鳴らして立った。

「そんなに気になるなら今すぐ帰って聞けば? 突っ返された弁当見て、あいつも反省してるんじゃない知らんけど」

「あおい……」

「早退しなよ。多田には言っとくから」


 藍衣は教材室を出ていった。

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