34.花火

 少し風がある、月のない夜だ。

 祐が濡れ縁の軒下に懐中電灯をぶら下げて、ロウソクに火を点けた。大きな空き缶の中に橙色が揺れてすぐロウが溶けだした。

「ほら、やろうぜ」

 仕方なく細い持ち手の花火を火にかざした。なかなか火が点かないそれに祐の花火が向こうから触れる。シュッと火花が散った。火薬と煙の匂いが立ち昇って懐かしい気持ちになる。

 勢いよく薄赤色の火が滝のように落ちていく。

「きれい」

 不思議なことに、さっきまでのぐずついてた気持ちが火とともに夜に滑り出していく気がした。

「なんか、ホントに久しぶり」

「だろ? ……俺はお前として以来だから、六年ぶりだな」

 長い火花が土に落ちていく。視界にもうひとつ同じ光が差して、祐が隣に並んだ。

「きれいだな」

「うん」

 私も同じだよ六年ぶりだよ、というタイミングを逃した。赤、黄色、緑。白い煙を上げながら少しづつ勢いがなくなっていくのを、一緒に見守る。消えると妙に寂しくて、私はすぐバケツに投げ入れてはしゃがんでは新しいのを手に取った。

「待ってろ。クソ、なんでセロテープこんなについてんだよ」

「一気に三本やっちまうか」

「俺この、でっかい線香花火みたいなの好きだったわ」

「紗世、離れろ燃えるぞ」

 祐はまるで中学生に戻ったようによくしゃべった。私もけらけら笑った。一緒に笑う。肩が触れても気にしない、当たり前みたいに。

 そうだったこんな感じだった、私と祐は。

 祐がはしゃいで振り回す光の軌道に目を灼いては、私も真似してちょっと振り回してみたりする。火を切らしてはいけないと言い出して、花火の先を繋ぐ、騒ぎながら火花を合わせた。

 土だらけの庭は花火におあつらえ向きで、置き型の噴水花火も楽しめた。金色の噴水は思ったより明るくて、九十度の位置にいる祐の横顔をはっきりと照らした。陰影の濃い立ち姿は全然知らない男の人のようで、どきりとした。

 私の視線を感じたか、祐もこっちを見た。優しい目で微笑まれて照れる。でも体のどこかが確かに満たされる。

 どうして離れていられたんだろう。私が目を逸らしていた六年間、祐はどんな顔をしてたんだろう。祐のことを思い出すことも避けて逃げていた間は。


 やがて噴水が消えると辺りは真っ暗になってしまい、庭はしんと静まり返った。ただの筒になった花火をバケツに放ると、祐は側まできて「楽しいな」と言った。懐中電灯の逆光のせいもあって、どんな顔をしてるかはよく見えない。でも、ちょっと寂しそうな声だと思った。

「私、祐と花火するの楽しみだったって思い出した。今さらだけど」

「……俺も。結構楽しみにしてた」

 私がもっと早く自分に向き合えてたなら、もっと早く仲良くなれたのかな。悔しさに俯くと、頭を撫でられた。

「お前としたかったこと、これで大体できたな」

「したかったことって?」

 祐は返事をせずに、私を抱き寄せた。背伸びして肩口から顔を出すと、懐中電灯に虫が集まって舞っていた。私も祐の背中に手を伸ばした、優しいハグだった。

「こっ恥ずかしいから言わねぇ」

「それ逆に気になる」

「うるせぇ忘れろ」

 祐が体を離した。そして、おでこを結構な強さでごつんとして「再開すっぞ」とさっさとしゃがみこんだ。

「もう! 痛かったじゃん」

 見れば、手元に残るのは線香花火。玄関先の段差に腰を下ろして、祐と並んで火をつけた。

「これやるときって、終わりって感じするよな」

「そうだね」

 三本ずつな、と渡された花火はあっという間になくなっていく。火がひとひら散るにつれ、祐も私も自然と無口になっていった。


 呆気なくぽとりと二本目の火が落ちた。

 なんとなく静まり返った庭に風が吹いた。祐が消えたロウソクに火をつけ直した。

「なぁ。……勝負しようぜ」

「勝負って?」

「最後の花火、どっちが長くもつか。負けたら相手の言うこと一つだけ聞くやつ」

「……」

 私たちは、肩がくっついたまま少し膨らんだ赤紫色を同時に火に差しだした。ほとんど同時に火が燃え移ったとき、祐がふと言った。

「俺、ずっとお前と一緒にいたい」

 え! 思わず祐を見た。当の本人は下を向いたままでこっちを見ない。

「急に……なに? ずっとって……」

「ずっとだ。今みたいに暮らせねぇかって思ってる」

 それって、つまりその。

「気が、早くない?」

 こっちを見られていないときでよかった。よく分からない脳内物質がドバドバ出て汗が噴き出した。だんだん横顔を見ていられないくらい恥ずかしくなって、私も花火に目を落とした。

「俺らもう十八だろ」

 はらり、皮切りに一片散った。

 かすかに音を立てて大きな花が咲く。祐が足でロウソクの入った空き缶を器用にずらすと周囲が暗くなって、中央の芯がふくふくと生きてるみたいに紅く燃えているのがよく見えた。

「俺ん家でも、どこでもいい。部屋とか借りれるんならそれでも」

 本気で言ってるんだろうか。

「だって……私大学行くし、祐もまだ高校あるでしょ。暮らすったってお金も要るよね」

 金色が目を灼く。

「俺が働く」

「……ダメだよ、高校は行った方がいいよ」

 会話は途切れた。祐が黙った。

 火花がチカチカと四方に広がった。まるで逆さの彼岸花みたいに。私は変に緊張したまま、手元を見つめ続けた。指にその繊細な火花が触れはしないか、穂先が静かに垂れ下がって消える枝の先を、真ん中の火の息遣いを。

 だんだん、ちりりと金属を溶かしたような中心が揺れる、大きくなっていく。

 ぽつ。

「あ、」

 じゅ、と土が音を立てた気がした。

「……お前の勝ち」

 見れば祐の手は空。とっくに勝負は決まっていたらしい。


 あーあ負けたかー。

 私が顔を見る前に、祐はぐいと背伸びをして言った。大きな背中を見上げる。

「お前に毎日風呂掃除させようと思ってたのになー」

「そ、そんなの言ってくれれば勝たなくてもするよ」

 さっきの話は終わったらしい。立って並ぶと空にさっきの火花の残像が散った。

「そっか。じゃあ……何すっかな」

 そこから祐はまた無口になった。私から火の消えた花火を取り上げ、ロウソクを吹き消し、懐中電灯も消した。真っ暗な中でも迷いなく動く手際に追いつけず、私はただ突っ立っていた。だから反芻してしまうのは、さっきの会話。もしかして理詰めで返しちゃダメなやつだったかも。

 だって、祐とふたりで暮らす——想像できるようでできない。そもそも大学生になることもイマイチ想像できていないのに。

 祐、さっきのホントに本気だったのかな。

 かぁっと頬が熱くなってきて、手で顔をあおいだ。

「おい、入るぞ」

 片付けの終わった祐が、玄関の前にガチャンとバケツを置いた。戸を開けて家の中へ入っていく。私は慌てて追いかけ、後ろ手に戸を閉めた。外の方が涼しいくらいと知る。

「……明日の朝飯、お前の好きなやつにするか」

 祐が私に向き直った。玄関はふたりで立つと少し狭い。

「さっきの勝負の?」

「びっくりさせてやる」

 ハハ。祐は浅く笑って黙って、私に覆いかぶさった。

「たす……んっ!」

「さよ」

 噛みつくような激しいキスに私はふらついて、靴箱に押しつけられた。数秒だったのか数分だったのか私の脚から力が抜けるころ、それはまた唐突に終わった。口の端が濡れて垂れて、仰向けた視界で祐がそこを袖口で強く擦った。

「悪ぃ。もう寝ろよ」

 今閉じた玄関戸を乱暴に開け、祐は外に出ていった。


 私は支えを失って框にへなへなと腰を下ろした。力が入らなくてしばらくそのままでいた。半分だけ開きっぱなしの戸の陰から外の風が吹きこんで、汗ばんでいた襟足が冷えた。キスで滲んだ汗が乾くまでそこにいた。


 *


「これって……!」

 私が茶の間で声を上げると、今日も学校に行く気がなさそうな私服の祐が自信ありげに肯いた。

「『ふわふわのパンケーキ』に決まってんだろ」

「わ、わあぁぁー! すごい、本物みたい! 写真撮っていい? インスタにあげていい⁉︎」

 「好きなようにしろ」と、やけにクールな態度で祐は台所に引っこんだ。絶対照れてると分かったけど、この場ではカメラワークが先。だって絵本と同じふっくらと焼き上げられたパンケーキには、角がとれてまぁるく溶けたバターが乗っていて、今にも滑り落ちそうなタイミング。しかもケーキの脇にはミントを飾ったホイップまで添えられている。おばあちゃんのところに言って絵本を取ってきて一緒に撮ったら最高かも、いやでもおばあちゃん寝てるかな。

「私の好きなやつって……へへ」

 パンケーキもそうだけど、祐が元に戻って良かった。

 キスのあと、祐は私が電気を消して布団に入るころ戻ってきたのは知っていた。当たり前だけど客間を素通りして行ったし、どうして出て言ったのかは分からない。でもこの祐の態度から、なかったことにしてほしいってことだと察した。

「なんだぁ? さぁちゃん今朝はやけに元気だな」

 仕事着でない、よそ行きの服を着た辰おじさんが「祐、飯!」と言って胡座をかいた。

「おじさん、おはようございます! 見て、祐がすごいの作ってくれて!」

「おー、こりゃ朝から気合い入ってんな。けど俺ぁしょっぺぇ飯の方がいいや。さぁちゃんが好きなだけ食いねぇ」

「えっこれひとりで⁉︎」

 結局バス時間に間に合う訳もなく、ゆっくり堪能できたのはほんの四分の一。「帰ってから食べる!」と宣言して玄関を飛び出した。またしても重たいお弁当を持たされて、このままじゃ確実に太ると思いつつバス停まで一気に走った。


「あいつ……実はスパダリなん?」

「すごいよねホントにふわふわで美味しかった! あっ、作り方教えてもらうつもりだから今度は藍衣も一緒に食べようよ」

「やめて巻きこまないで」

 朝のHRの直前、廊下で藍衣にパンケーキの写真を見せてインスタにアップした。つい夢中になって立ち話していて、もうすぐ本鈴ってことも忘れていた。

「野上」

 藍衣が「そろそろ爆ぜるから」教室に戻ろうと言ったときだ。

 呼び止められて驚いた。カラオケでLINEを交換した男子だった。

「ちょっと、いい?」

 思わず藍衣の顔を見たけど肩をすくめられた、用事があるのは私で間違いないらしい。でも学校で話しかけられるのは初めてのことで、私は分かりやすく戸惑った。

 「西谷にしやどしたん? 珍しいね」と藍衣が口を挟んでくれ、私も肯いた。彼は逡巡する様子で私をじっと見下ろした。

「急にこんなこと聞くの、アレなんだけど……」

 アレってなんだろ。私が首を傾げると、彼は困ったような怒ってるような顔になった。

「なんか、野上がM高のやつに騙されてるって噂、聞いたんだけど」

「え?」

 騙されてる?

「M高のカイトーってやつ」

 祐のことだ。どうして西谷くんが祐のことを?

「手、繋いで駅にいたって聞いたけど。……それってかね」

「西谷」

 藍衣が強く遮った。西谷くんはハッとして口を噤んだ。私は混乱してなんて言っていいか分からず、「えぇと」と言ったきり声が出ない。気まずい沈黙。

「紗世が手繋いで歩いてたのは、ホントの彼氏だからだよ」

「まじ?」

 西谷くんが勢いよく私の方を向いたので、咄嗟に肯いた。

「えと……本当、だよ」

「もう毎日惚気がウザくてさ。あんたも聞かされたいなら歓迎するけど」

 まじか。西谷くんが小さく言う。藍衣の声はやけに大きくて、少し刺々しい。

 私の話なのに状況が掴めずに、私の顔はふたりの間を往復するだけだ。

「ってことで心配しなさんな」

 ポンと藍衣が西谷くんの肩を叩いた。

 そこで本鈴が鳴って、多田が「おーい教室入れー」と視界の端で私たちを呼んだ。「じゃあ」と声をかけ合ってそれぞれ席に戻った。

 すぐに西谷くんから「変なこと聞いて悪かった」とLINEがきて、私は少し悩んで「大丈夫」のスタンプを返した。


「ねぇ紗世ー。M高のカイトーと付き合ってんだって?」

「う、うん」

「あ、今度また髪染めてよー。ついでにどうやってオトしたか詳しく聞かせてぇ」

「それあたしも聞きたいんだけどー」

 西谷くんを皮切りに、教室でもトイレでも祐の話。藍衣が少しでも離れると女子がそれとなく近づいてくるし視線が絡む気配がする。

『もう帰りたい』

『みんな気になってるんでしょ』

『なんで』

『この時期に彼氏作って駅で手繋いでた強者つわものだし』

 授業中もLINEしてしまうくらいにはメンタルが弱っていた。祐と付き合ってることは別に秘密にしている訳じゃないし、単純な祝福ならこそばゆいけど嬉しかったはず。

 でも、なんていうかみんなの興味は私が彼氏を作ったというよりは、私が『カイトー』と付き合ってることにありそうな感じがあった。なんでみんな祐のこと知ってるんだろう、興味があるんだろう。

『そのうちみんな飽きるからテキトーにしなよ』

 三校時の半ば、私はスマホを机の中に押しこんでため息を吐いた。祐と話して安心したかった。「なんだそれ」「気にすんな」祐がそう言ってくれれば、他の人がどう絡んできたって跳ね除けられる気がする。

 だからどうしても我慢できなくて、一度だけ家に電話した。でも留守で、辰おじさんも出ない。そして間が悪く、藍衣と話せると思っていた昼休みは文化祭の露店の打ち合わせで呼び出された。放課後も、「ごめん。今日、五時から塾だった」と言って、学校は一緒に出たものの碌に話せないまま、駅で別れた。


 バスから降りると脚が重くなって、ウチに寄ることにした。誰もいない家はたった数日で埃っぽくて換気してまわる。藍衣に話を聞いてもらいたかった。気持ちが消化できていない、祐の家に帰る気になれななかった。モヤついた空気に冷たい風が混ざるのを感じながら、茶の間に寝転がる。スマホで時間を確認すると、帰宅予定より十五分ほど経っていた。

 祐、心配するかな。

 ちょっとは焦ればいい。拗ねた気持ちがすぐに答えて、私は惰性でインスタを開いた。今朝の、自分の浮かれた投稿に気が滅入った。

「あー……」

 パンケーキ、嬉しかったのになぁ。

 なぜか今は顔を見たくない。

「……勉強もしなきゃいけないのに」

 お風呂場の頑固なカビみたいに、成績や受験のことはずっと頭の片隅にある。来月の模試も迫ってきている。脚のこともおばあちゃんのことも、今は同じ。こびりついた不安は不安のまま。

 そこに、湯気が立つように祐とのことで頭がいっぱいになってる。むわむわと視界が悪くて、他のことは霞んで見えづらい。

「ねむ……」

 やっぱり自分の家は心が落ち着くようだった。一応、祐に電話入れなきゃ。そうは思っても、気が進まないまま寝返りを打った。

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