7.ここにいたい

 お盆まであと一週間の月曜。珍しく昼前に顔を出した祐は、「あー疲れた」と茶の間にドカリと座った。昨日は来なかったから今日は来そうだと思ってたけど。我が物顔ってこういうことかと苦笑する。

「今日は早いね」

「面倒なのが終わったからな。なぁ麦茶ねえ?」

「昨日の残りなら。冷蔵庫に入ってる」

 よっしゃと立ち上がった祐は「もらうぞ」と台所に入っていった。あーうまい、と漏れ聞こえる声。少しだけくすぐったくて茶の間に戻ろうとしたら呼びとめられた。

「紗世、昼飯食った?」

「まだ。課題やってた」

 コップ片手に祐がチルド室や野菜室をのぞく。

「お腹減ってるの?」

「んーさっき朝飯食ったからそうでもねぇ。でもお前が食うんなら作ろうかと思って。こういうとき袋麺とかあると楽なんだけどな」

 まるで母さんみたいな物言いが可笑しい。

「まだいいよ。祐が食べたいときで」

 そうか? パタン、と野菜室を閉じた祐がこっちを見た。目が合ったから逸らした。私は茶の間に戻って祐用の座布団を出してあげた。そして自分の席に座る。

 祐が麦茶をピッチャーごと持ってきて、テーブルに置いた。私のコップももってきてくれたようで、注いで差しだした。

「水分とれよ。家の中でも熱中症になるらしいぞ」

「うん」

 素直に受けとった。


 私はたぶん祐のことが好き。

 でもそれは中学のときの宙ぶらりんな気持ちを引きずってるだけかもしれない。手を繋いだことがあるのが祐だけだからかもしれない。祐が美味しいご飯を作ってくれて一緒に食べてるからかもしれない。

 分からない。だってマンガみたいに一緒にいると頬が赤くなるとかお花が舞うとかそういう感じじゃない。

 ただあのコロッケの日から、私はおかしい。

 祐としゃべるのが嬉しくて苦しい。祐のご飯はどんな高級料理より美味しいと思う、でもひどく申し訳ない。向かい合って食べるのは恥ずかしいし綺麗に食べなきゃと思うけど私以外と食べないでと思う。

 ウチに来ない時間は何をしてるんだろうと思う。誰といるんだろうと思う。

 影が脚にまとわりついて離れないように、私の心に泥々と汚い何かが棲みついていた。


「なぁ、今日の夜って天気どうなん?」

「えーと、晴れっぽい」

「気温見せて」

「うん。ハイ」

 あー暑いわ、と呟く祐の顔をちらりと見た。こうやって向かい合わせに座ってると、真正面から視線を合わせるのが気恥ずかしい。画面をのぞき込む祐の睫毛は意外に長くて、低学年のときは女の子みたいって言われてたなぁと思い出す。

「七時まで三十度だってよ」げんなりして私にスマホを返すと、テーブルにべったり突っ伏した。

 こういうとき、何て聞いていいか分からなくて、私は結局口をつぐんでしまう。

 たぶん祐はスマホを持っていない。ガラケーもタブレットも。

 使い方は知ってるみたいで、私のスマホで料理のレシピを確認したりはする。でもインスタもLINEも交換しようっては言わない、持ち歩いていない。

 それとも、私の前だけ?

 胸が雑巾みたいにしぼられた気分になってプリントの字に集中する振りをする。

 スマホを返した祐が「なぁ」と言う。何、と答える。俯いたまま。

「今日、出かける用事あるか?」

「ないよ。なんで?」

「俺、今日は一日空いてんだ。ここにいて……いいか?」

 なんでと言いかけた。でも祐の顔を見たら消えた。

「……いいよ。でもウチ、ゲームとか何にもないけど」 

「別にいい。勝手に寝たり、お前が課題やってんの見てる」

 なにそれ。

「見られるとやりづらい……。テレビ見たら?」

「だってテレビなんてつけたら『聖徳太子じゃあるまいし』集中できないだろ。……あ、わりぃ」

 祐が謝る前には思い出していた。おばあちゃんの口癖、『聖徳太子じゃあるまいし、人間はそんなに器用じゃない』。

 気まずそうに口を尖らせた祐はもう一度「ごめん」と言った。

「全然、いいよ。……あ、それなら上からPCとってくる。なんか動画でも観てなよ」

 返事を待たずに私は二階に向かった。


 祐はPCの操作がよく分からず、結局、私が無数に並ぶ映画やドラマのサムネをスクロールしたりクリックした。ありすぎて選べねぇ、と画面を凝視する祐がなんだかかわいい。

「お前は普段、何観てんの」

「私はライブとか。ゲームしないし、変なパフォーマンスも好きじゃないから」

「ふーん……あ、この曲知ってるかも。友だちので見せてもらったやつ」

 ドームツアーの先行配信。二週間前にアップされた動画だった。

「このバンド流行ってるよね。ライブ映像観る?」

「観る」

「こういうのはヘッドホンの方がいいよ」

「おう……わっ」

「あ、音量ここ」

 子どもみたいに画面にかじりつく祐をちょっと眺めてから、私はまた向かい側に腰を下ろした。

 どうして知らないんだろう。YouTubeもアマプラも、その辺の高校生なら簡単に使えるのに。スマホのことも頭をよぎる。

「なぁ紗世、このバンドのやつ他にもある? どこで見るといいんだ?」

「あっ、じゃあチャンネル登録……」

 でも純粋に嬉しくもあった。私にも祐にしてあげられることがあったことが。祐の側に素直に寄れることが。


 しばらく動画を観ていた祐は飽きたのか、「ねみぃ」と言って昼寝を始めてしまった。



 ◇



 ――うさぎ追いしかの山

 私、すごい。

 常温になった麦茶を一気に飲み干した。

 祐の寝息をBGMに進めた課題は普段の二倍も進んだ。得意な歴史と国語とはいえ、快挙だ。この分だとお盆前には終わるかも、と嬉しくなる。

「まだ寝てる」

 うつぶせ寝で顔は半分しか見えないけど、深く眠ってるようだった。祐を起こさないようそっと横をすり抜け、台所で麦茶に水を足して冷蔵庫に入れた。

 もう夕飯の時間。祐、なに作る気なんだろう。

 パブロフの犬化する胃が鳴った。そういえばお昼食べないままだった。

 そっと茶の間をうかがう、まだぐっすり寝てる。起こしたら可哀想だよね。

「……なにか作ってみようかな」

 だって祐が寝てるし、お昼食べてなくてお腹減ったし――。



 人生初めてのみじん切りに泣いているとき、インターホンが鳴った。

「えぇなんで今ぁ」

 手が玉ねぎだらけ。それどころか目の周りもぐちゃぐちゃ。出られる訳ない。

「こんばんはぁ。野上さん留守ですかぁ」機械を通した声と、玄関から届く声がズレて重なった。

 誰だろう。宅急便なら名乗るのに。

 いつも通り居留守を使おうとしてハッとした。茶の間のカーテンが開けっ放しになっている。もう六時は回ってるけど外は明るいから中に人がいるのは一目瞭然だ。

「メンドくさ」

 でもバレてるなら仕方ない。私は手についた玉ねぎの破片を水で流した。

 その間にも二度目のインターホン。「うぅ」祐がごろんと寝返りを打った。

 起こすのは可哀想だと急いで玄関に向かい、框の灯りを点けた。曇り硝子のシルエットは小脇に何か抱えている感じで回覧板かな、と扉を開けた。

「はい、どなたさまですか」

「どうも夜分にすみません」

 ニコニコと笑う男の人が立っていた。

「あー、大人の方は?」

「まだ、帰ってきてません」

「そうですか。お嬢さんこういう新聞に興味ないですか」

 げっ、と声が出そうになった。もう何度も新聞の広告がポストに入ってるのは分かっていた。ヤバい面倒なことしちゃったと思わず顔をしかめた。

 男の人は肩にかけた鞄から「サンプルあげるよ」と新聞を差しだした。

「あの、要らないです。親も新聞はとらないって言ってるので」

「そう? じゃあほら、今日の日刊だけでも見てよ。一面は大屋選手、知ってる? 大屋、イケメンでしょ」

 いやあの、と後退った。でも男の人もどんどん中に入ってきて、これ以上下がったら框に座りこんでしまいそうだと思った。

「帰ってください、とりませんから」

「あ、あとね、お嬢ちゃんにはちょっと刺激が強いかもしれないけど……」

 にじり寄る男の人が何枚かめくって私に記事を見せようとした。白い女性の――。

「おいっ。要らねえって言ってんだろ!!」

 ひっと驚いたのは私だった。祐が茶の間から大声を上げたらしい。

「……なんだ男がいるのか。あーハイハイ帰りますよ」

 人好きしそうな顔だったのが突然別人になる。ニヤついて下卑た目で私を見た。

「残念だなぁ。あ、これあげる見てね」

「さっさと帰れッ」

 遂に祐が茶の間から出てきたらしい、私は体が動かなくて音だけ聞いていた。怒りの滲んだ足音、ダンッとどこかを叩く音。

 男の人は「ハイハイ」と動じる様子もなく背を向けた。でもすぐクルリと振り返ると、私に目を細めた。低く囁いて、

「……じゃあ、お嬢さん」

 新聞を框に放った。

 足音が遠ざかる。

 また来るって……? 

 遅れて背筋が凍った。扉の隙間から夕闇が入りこんでいて、またあの人が顔を出したらと脚が震えだした。怖かった。

「おい早く閉めろ!」

 強い舌打ちが私を追い越した。祐は開きっぱなしの扉を乱暴に閉め、鍵をかけた。

「おい紗世! なんで扉開けたんだ。フツー開けないで用聞くだろ!」

「だっ、て」

「だってじゃねぇ。俺がいたからいいものの、お前マジでもうちょっと危機感」

 うん、と応えた。何度も。うん、うん。祐の言う通り自業自得だと思った、軽率に家に入れた私が悪いと思った。鍵を開けたのは私。

 今にもへたりこみそうになる。脚を見られた訳じゃないのに、スカートじゃないのに太腿が気になって何度も撫でた。撫でる、大丈夫ちゃんと履いてる。平気、へいき。

「ごめん、祐。ごめん」

ちげえよ。お前が悪いんじゃなくてあいつが……!」

 ああクソッ。祐の拳がぎゅうっと硬くなった。俯いた私にはそれしか見えなかった。それもどんどんぼやけていく。苦しみもぼやけて、薄く全身に広がっていく。

「うん……うぅ」

「紗世、ちがうごめん。怒鳴って悪かった。……俺が起きてれば」

 ごめん、と祐は私の頭を抱えた。目が肩あたりに押しつけられて、それで自分が泣いてるってことを知った。

「お前は何にも悪くない」

 悪くない、ごめん。

 何度も謝る祐に、私は首を振るしかできなかった。

 ちがうよ祐、私が全部悪いんだよ。

「ごめんね、ごめん」

 何でお前が謝るんだよ――ぎゅうっと強く押しつけられたから、私の情けない声は祐の肩に吸いこまれた。



 泣きやんだ私の手を、祐はそっと持ち上げた。

「ホントに悪かった、紗世。嫌な思いしたのはお前なのに」

 引っ張られ、ゆっくり茶の間に連れていかれた。

 気づいたら部屋は暗くて、時計は七時半を指していた。祐は私を座らせると、カーテンを閉めて電気を点けた。

 泣いた気まずさと、まだ脚がざわつく感覚に膝を抱える。

「なぁ、まず飯食おう。すぐ作るから。食うよな?」

「うん……」

 玉ねぎを切っていた、と伝える元気も出ない。

「おし、じゃあすぐ作る」

 そうして祐は本当にすぐ、作ってくれた。半熟卵がきらきら光るオムライス。

 私と祐の真ん中にケチャップがドンと置かれたと思ったら、「好きなだけかけろ」と言われた。

「麦茶持ってくるから、食べてろ」

 と、台所に取ってかえした祐を見送り、卵にスプーンを入れた。ふわ、と炒めたケチャップのあったかい湯気が上がって、目が熱くなった。

 私の下手なみじん切りは艶々のチキンライスに変わっていた。

 戻ってきた祐が「ほれ、かけてやる」と言って、『さよ』と書いた。自分のには大きく『た』。

 すごく美味しかった。

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