6.会いたい


 役場を過ぎて赤提灯が遠ざかっても、私たちは手を繋いでいた。やっぱり祐は少し前で私が斜め後ろ。

 喧騒の余韻で耳鳴りしそうに静かな帰り道。細いコンクリの国道には歩道もないから右側をぶらぶら。

 祐の自転車は、聞いたとおり乗り捨てられたようにして民家の塀に立てかけられていた。でも祐は素通りして「明日取りにくる」と言った。


 家に近づくにつれ街灯が減るにつれ、繋ぎっぱなしの手に「なんで」とか「どこまで」とか、そういう気持ちも減っていった。だってこれは祐なりの贖罪、仲良しの延長。嘘をつくと決めた私は何も言わずに受けいれればいいだけだから。

「なぁ」

「うん」引っ張られて前を見る必要がないから、空を見たまま返事をした。星がきれいだ。細かな白い粒がゆっくりずれていく。熱かった目蓋も冷えていく。

「ずっと気になってたんだけど」

「うん」

「……前に祭りで迷子になったとき、お前、どこにいたんだよ」

 やけにぶっきらぼうな声。

「俺ら、型抜き屋に行こうって歩いてただろ」

「うん。途中で金魚すくいがあったから」

 金魚? 祐が訝しげに呟いたのを聞いた。

 鮮明に覚えていた。

「お祭りの前にさ。池に、赤い魚がいるといいねって話したんだよ」

「……忘れた。池って俺んちの?」

「うん。祐がさ、寂しいって言ったんだよ。蛙しか棲んでないって、赤い魚がいるといいなって。それで思わず……ごめん」

 全然覚えてねぇ。がしがしと頭を掻いた祐の歩調が、少しだけ乱れた。

「あのとき祐、辰おじさんにたくさん怒られたでしょ。私が先に寄り道してはぐれたのに」

「かなり怒られた。お前ん家で頭下げてるときは、お前が勝手にいなくなったのになんで俺が謝ってるんだって思ってた。でもまぁその日の内に納得したし、今も別に何とも。……ただずっと、なんでいなくなったのか気になってた。お前、おじさんとおばさんにも口割らなかったって聞いたから」

 そうなると、お前って頑固じゃん。

 祐の声は小さくて聞き取れなかった。それに、私の目蓋には玄関で涙をこらえて頭を下げさせられた小四の祐が浮かんでいた。辰おじさんも框に膝をついて、父さんに謝ってた。

「辰おじさんがすごく怒ってるのが分かったから……。母さんも、珍しく父さんも怖い顔してたから。余計なこと言うとますます祐が怒られるかなって」

 もう随分前のことなのに、と思ったけど、私もしっかり覚えてたからやっぱりおあいこだ。

 祐はそれに応えず、沈黙が続いた。



 首が痛くなってきた頃、私は不意にぐんっと手を引かれてつんのめった。ハクチョウ座を見つけて悦に入っていたのに。

「ちょ、危な」

「危ないのはお前だ」

 へ、と横を見ると目と鼻の先に電柱が立っている。

「……前見てなかった」

「にしても迂闊すぎる」

「だって手繋いでるから。大丈夫かなって」

 ハァと特大のため息が降ってきた。

「もうお前んちだぞ」

「ほ、ホントだ」

 ほんの数歩。さすがに恥ずかしくなって謝ろうとしたけど、言葉は「め」で途切れた。手をぎゅっとされた。

「明日から昼は来れない」

「え?」

 台詞も手も脈絡がなくて咄嗟に聞き返した。

「一週間くらい忙しいけど夜は問題ない。俺んちの番号、分かるよな?」

「た、たぶん」

「あ?」

 盛大なシワが祐の眉間に寄った。「えっと、四二の」と記憶を頼りに諳んじると、祐が鷹揚に肯いた。合ってた。

「なんで、番号?」

 手が離れた。

 不意に自由になった掌がしっとりと冷えていく。

「夜に何かあったらすぐ電話しろ。俺、茶の間で寝てるからすぐ気づける」

「何かって」

 私の手だったものが途切れたような感覚のせいで、ぼんやりしていた。まだ手の甲に、祐の指の感触だけが残っていた。

「変な物音とか、外に怪しい奴がいるとか」

「そんなの大丈夫だよ。これまでなかったし」

「先のことなんか分かんねぇだろ」

 祐は鼻に皺を寄せて私を玄関に押しこんだ。

 なんで怒ってるんだろ。不自然すぎると私は食い下がった。

 いくらなんでもそこまで迷惑はかけられない。

「でもウチ、セコムあるから」

「それ、俺が走って行くより早いのか?」

「え、」

 そりゃ祐の方が早いに決まってる。

「お前は……俺を用心棒だと思えばいい」

 用心棒? 頭に腰に刀を差した浪人の姿が浮かんだ。麻婆豆腐のときに見たテレビシリーズの。江戸を守る正義の。

 私は口ごもった。

 どうしてそこまでしてくれるんだろう。

 どれだけ祐の感じてきた罪悪感は深いんだろう。


 そのとき突然、私のスマホが鳴った。慌ててバッグから取りだす。

「あ、母さんから電話」

「出ろよ。んで、すぐ鍵閉めろ。セコムもしろ」

「うん」

 祐は玄関を閉めて帰った。曇り硝子越しの横顔はよく見なかった。

 母さんからの電話は大したことなかった。今日は急な会合があるとかで顔を見れないって内容。よくあることなので、特に感慨もなく話を終えた。

 ただ、『なんか紗世の声、いつもより明るい……っていうか元気な感じ。体調治ったみたいねよかった』と言われて、わざとトーンを落とした。

 祐とお祭りに行ったことは黙っておくことにした。



 ◇



 日曜、祐は結局来なかった。でも七時半頃、私のスマホに『悪い、行けねぇ』と電話してきた。あれ私、番号を教えたっけ? それに別に連絡もなしでいいのに、と思った。


 月曜は汗だくでウチに駆けこんできた。七時過ぎだった。制服姿で玄関先に座りこんで「あちぃ」と渡した冷えタオルに顔を突っこんでいた。

 祐が手早くサラダうどんを作って、昼に私が焼いた鮭の残りをおかずに食べた。

 それで帰るかと思いきや。食後、祐は得意げに「提案する」と宣言した。

「俺はセコムが来るまでの用心棒をやる。そんでお前んとこの食材を報酬にもらう」

 その話題続いてたんだ。

「ご飯の食材?」

「おう。電話が来たらすぐ駆けつける代わりにお前んとこで飯を作って食わせてもらう。光熱費は、まぁお前の分も一緒に作るから目をつぶってくれ」

 お金の代わりに食材を払う仕組み。

 なるほど、と感心した。

 警備会社は隣町にあって、非常ボタンを押してから早くても十五分はかかると聞いていた。祐は自転車を飛ばせば三分もかからない。

 実は私もあれから少し考えていた。漠然と感じていた安心が本当は心許ないものだと気づいてしまったから。

「いい、かも」

 例えその提案が祐の罪悪感からきてるものだとしても。外側は対等に見えた。どちらにも利があるように思えた。

 祐がくしゃっと顔を歪めた。

「……正直、俺も助かる。この暑さで肉とか卵とか買いに行ってもソッコーで悪くなるし、時間があるかも怪しい。毎日厄介にやるつもりはないからお前の分は充分間に合うはず。迷惑は絶対にかけねぇから」

 私は少し言葉に詰まって、ただ「分かった」と言った。

 うん、と祐は肯いてなぜかすぐ俯いた。


 

 火曜、祐が来たのは早かった。一度家に帰ったのかTシャツジャージ姿。髪が濡れてたからシャワーを浴びてきたのかもしれない。茶の間に入ると「あーマジ天国」とエアコンの前に立って少しの間涼んでいた。大義名分を得たせいか態度が大きいと思いつつ、私は麦茶を作った。

「明日来れないし、色々腐るからカレーにしようぜ」と勝手に決めて、八時には野菜たっぷりのカレーをタッパに詰めて帰って行った。


 そうして水曜の午前中。私はようやく野田クリーニングに制服を取りに行った。家から出たくなくてお盆を過ぎてからと思ってたけど、担任から「早めに顔出せ」と呼びだしがきてしまった。

 さすがに課題は出さないとだね。迫る現実に暗くなりながら、エコバックに入った制服を見下ろした。家に帰るバスは五十分後、学校最寄りのバスはあと五分。

 今、学校に行ってしまおうか。駅で着替えて荷物はロッカーに入れて。手ぶらで大丈夫だろうか、一週間分のプリントだの封筒を一気に渡されたら……。

 逡巡してやめた。スカートを履きたくなかった。

 せっかく私服で来たから商店街をぶらついてみようとバス停を離れた。知り合いに会わないようにいつも通りすぎていただけの街を。


 大きなアーケード看板をくぐるとすぐ、香ばしい油の匂いが角の肉屋から漂ってきた。つい目も鼻もつられた。

 揚げたて! ののぼりが私を誘う。

「コロッケかぁ」

 祐の顔が浮かんだ。

 バットに山盛りのコロッケは、まん丸で食べごたえがありそうだ。

 すごく喜びそうな気がする。今日食べられなくても温めれば明日まで持つよね。

 口元が緩んだ。麦茶係がコロッケを買ってきたらきっと驚く。

 メンチカツもいいかも。ショーケースを横目に楽しい気分で視線をあげたとき、私の足は止まった。

 向こうから来る男女に目が釘づけになった。

 M高の制服の女子が、親しげに同じ制服の男子に手を伸ばしていた。男子の方、祐は自ら頭を傾けて髪を触らせる。二人の体はぴったりくっつく。女子がいたずらして強く毛束を引っ張った、たぶん「痛い」と言ってふざけ合う、肩が触れ合ってぶつかって女子が祐に――――女子の膝上のスカートが揺れて、揺れて。


 気づいたら、私は駅行きのバスに乗っていた。


 *


「野上。来たか」

 職員室に入ると、担任の多田が手をこまねいた。

「どうだ体調は。救急車に乗ったんじゃ大変だっただろ」

「まぁ、少しは」

 多田は余計なことを言わないタイプで人気があった。でもここが職員室だからか、普段より先生らしく見える。私は自然と身構えた。

 少しそれが顔に出たのかもしれない。多田はふいっと顔を背けて話をやめた。代わりに分厚い封筒を私に手渡した。

「それ、机の中のやつな」

「重……」

「一週間分と夏課題だ、少ない方だろ。野上は……あー来週の模試は受けた方がいいな」

 頬杖をついた多田が私を見上げた。

「親御さんは盆には帰ってくるのか」

「……母は来るとか言ってたけど。はっきりは」

 居心地が悪かった。ただサボってたのがバレてるのか何か試されてるのか。

「そうか。なら九月に三者面談あるって、オレから親に連絡するからな」

 穏やかに微笑んでるのに、有無を言わさぬ台詞。私はすぐ観念して「分かりました」と言った。

 それで話は終わりかと思ったけど、多田がなかなか二の次を告げない。

 もう帰っていいかな。

 職員室はテレビがついていて、年配の先生たちはこぞって甲子園を見ていた。誰かが打ったのかエラーしたのか、低いどよめきが起きた。解説の声が高い。多田は野球に興味がないのかそっちをちらりと見ただけで、また私をじっと見た。

「野上、模試は休んだっていいぞ」

 え? 耳を疑った。先生がそんなこと言っていいの?

「え、でも私、S大志望だから……次って記述だし。受けないと」

「まぁさっきも受けた方がいいとは言った。でも体調悪いなら家にいろ。体調いいなら親のところに行ってきてもいいんじゃないか」

 なにそれ。

「ちゃんと受けるよ」

「……野上お前、欠食児童みたいな顔してんの分かってるか? 人も動物も環境に合わせた衣食住が必要なんだ」

 何の説教だろう。ケッショクジドウって何。

「いのちだいじに暮らせ。でないとまた倒れる」


 中継がまた盛り上がってたから、失礼しましたも言わないで戸を閉めた。

 冷房のない廊下はほとんど外気で、抱えた封筒がますます重く感じる。校舎には一二年だけでなくちらほら三年もいた。ひとり糊の効いた制服は浮いている気がして、できるだけ人に会わないように昇降口を出た。

 裾がやけに膝下を擦る。スカートのひだが尖っていて、ひどく長く見えた。ひどく、厚ぼったくて醜く。

 駅のトイレで元の服に着替えた。ケッショクジドウをバスの中で調べたら少し酔った。



 今日だけは来ないでほしいと願ったのに、祐は七時すぎにウチに来た。

「パン粉だけ持ってきた」と、目に見えて機嫌よくウチの台所に立った。

 私はご飯すら炊いてなかった。昨日は用意しておけた麦茶もなにも。でも祐は「米炊くぞー」「麦茶作っていいか」と手際よくこなす。私は隣に並べなくて、茶の間で課題に集中する振りをしていた。

 祐が作ったのはコロッケだった。

「今日、肉屋のがウマそうでさ」

「うん」

「そういや揚げ物やってなかったなと思って」

 残酷だと思った。

 食べたくないと箸を投げたかった、私も買ってこようと思ってたと泣き叫びたかった。あの子は誰、と喚き散らしたかった。

 でも私は「美味しいね」と言って、飲みこんだ。


 

『ちょっと、紗世。聞いてるの』

「何?」

 もう、と母さんが画面の奥で眉を寄せた。

『この前は元気そうだったのに。……だから来週、私だけそっち帰るから。お盆だし進路の話もしないとって』

「そんなの別にしなくていい」

『そういう訳にいかないの』

「進路は自分で決めてるし、お盆だって私に会わなくても事足りるでしょ」

『だからそういう訳にはいかないでしょ! 自分の家に帰るのになんで反対されなきゃいけないのよ。志望先決めてるのはいいけど、どこ受けたいのかとか親なんだから聞いておきたいの。先生から電話がきて困っちゃったじゃない』

「聞かれないのにわざわざ言わない」

 どうしたの紗世、と母さんが声を高くした。

『変よ、何かあったの』

「ないよ。ないから、もう切るね。おやすみ」

 退室。すぐベッドに転がった。


 我ながら惨めな反抗。

 苛立ちが収らなくて首を巡らすと、ハンガーに掛けたセーラー服がこっちを向いていた。白地が病的に光を反射している。折目正しいプリーツが私を責める。

 唯一好きだった夏服。

「きらい」

 枕に顔を押しつける。

 あの子長くて綺麗な脚してた。

「やだ」

 スカートなんてこの世からなくなれ。要らない消えてよ。

 頬がくっつきそうな距離感。

 脚さえ隠れていれば、普通にできるのに。みんなと何も変わらないのに。

 祐とだって心の底から仲直りできるのに。

「やだよ」

 こめかみがじわりと濡れた。

 ねぇ、なんで私と手繋いだの。どうして優しいの。

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