4.許されたい
問答無用ってこういうこと。
「食欲ねぇならお粥だな」
そう呟いた祐は食材の場所を確認すると、驚くほどの手際で米を研いで鶏肉とネギを包丁で切った。鶏肉は薄く。ネギは縦に細く切ってから横に、みじん切り。
私はそれを斜め後ろでただ見ていた。
「鍋、どこ?」
「……コンロの下」
「ここん家のシンク広くていいな。ウチの、洗い場は広いけど作業台は狭いんだよ」
片手鍋を取り出した祐は機嫌よく笑う。
でも私は祐を家に上げてしまった葛藤と後悔でその笑顔を受け流せなかった。祐は広いと言ったけど、普段独りの台所はすごく狭く感じられて、私の家なのに身の置き所がない。
祐が料理できるなんて。
「お前座ってろよ。具合悪いんだろ」
「でも」
「別に何も盗ったりしねぇよ」
そんなつもりで言ったんじゃない、と反論しかけたけど、相手から楽しげな鼻歌まで聞こえだして私は敗走した。
茶の間の定位置へ。帽子をかぶったままだったと気づき、脱ぐ。
台所と茶の間はガラス戸で繋がっていて、祐が立てる音がかすかに聞こえてくる。ガチャンと鍋を五徳に置く音。茶の間のエアコンは付けっぱなしだったけど、ガラス戸は閉めてたから火なんて使ったらますます暑いのに。
ちがう、そんなことどうでもよくて。なんで、なんで?
「……もういいや疲れた」
私が考えることを諦めて机に突っ伏すと、LINEの着信が鳴った。
『父さんと話し合って、やっぱりお盆のときに帰ることにした』
既読にだけして腕を枕に目をつぶった。
帽子に潰された髪が冷風に少しだけほぐれて、息を吐いた。
――あ。寝ちゃってた。
目がしょぼついたまま、ぼんやりと意識が浮上していく感覚を味わう。なんで寝ちゃったんだっけ。おかしいな茶の間のテレビがついてる、夕方の時代劇の音楽だ。それにいい匂いもする、しょっぱい美味しい匂い。
身じろぎすると体にタオルケットが掛けられてる感触があった。誰かが肩まで上げてくれた。あったかい、気持ちいい。揺蕩う眠気の中で思う。
そうか、母さんがご飯作ってるんだ。父さんがテレビ見てるんだ。帰ってきたんだ。
ゆっくり目を開けた。
畳に寝転がってたらしい。机の下、男の人のズボンの形が見えて私は「父さん?」と呼んだ。
「お、起きたか? もう水戸黄門やってんぞ」
でも父さんだと思ったズボンは見慣れないジャージで、二本の足が立ち上がって視界から消えた。と、思ったら私の傍まで来た。でも不思議と怖くはなくて、視界が翳ると自然と目が閉じた。
「まだ眠そうだな。今、お粥あっためんぞ。俺ももう帰るから」
帰る? どこに?
「今度はウチの夜飯作らねぇと」
「やだ」
私は頬を擦った。それで枕にしていたのは座布団だと分かった。
「……寝惚けてんのか」
「だめ」
嫌だった。
父さんの仕事が長期になって初めての留守は楽しかった。独りで全然平気だった。気ままに暮らして好きなことがし放題で。二人が帰ってきたときはホッとしたけど、もうちょっと長く帰らなくてもいいのにって思った。母さんが「何よ薄情ねぇ」って寂しそうに言ったのも冷めた目で見ていた。好きで父さんに着いていったくせにって。
でももう飽きた。独りでスマホ見て、独りで作ってご飯を食べて、おはようもおかえりもない家に帰ってくるのはもう嫌だった。「えー独り暮らしとか男泊め放題じゃん」なんて言う子もいるけどそういうのは求めてない。パパ活にも誘われてみたけど好きでもないおじさんに笑ってられなかったし、一緒に外泊したい友だちもいない。例え女子の前でも脚は出せない。周りも理解した振りして浅く付き合ってくれてる。
全部自分でしないと腐っていく生活。
静かすぎて息を殺したくなる夜、温かさのない朝。
青春が詰んでる。ううん、青春なんて誰かが何不自由ない生活を用意してくれるから起こるイベントなんだ。
二日置きのリモート通話を、親としゃべるのを心待ちにしてる高校生なんて不健全すぎる。どうかしてるって分かってる。
全然素直になれないのに、すぐイライラしちゃうのに。
「紗世」
「やだよ」
頭があったかくなった。いよいよ眠くなる。
悪ぃ、また来る。そう聞こえて、私は夢の中で泣いた。
◇
おう来たぞ。
玄関で汗を拭う祐に、私は絶句した。意味が分からなかった。
「今日は麻婆豆腐にすっぞ。挽肉、まだ使ってねぇだろ」
ネギ三本ひと束を片手に、祐は躊躇なくウチに上がる。
「ね、ねぇ。別に毎日来なくってもご飯くらい」
「あ? 毎日じゃねぇだろ。おとといは来てねぇし」
ずんずんと真っ直ぐ台所に進む祐を追う。昨日もこの調子で親子丼を作って帰って行った。美味しかった。けど、さすがにお節介がすぎる。
「いや、そうじゃなくって! ご飯くらい自分で」
「いや出来ねぇだろ」シンクにネギを置くと、祐は流れるように冷蔵庫を空け冷凍庫を開け、材料を揃え始める。
「なら今日はお前が作るか? 俺よりウマく出来るっつーなら熱中症で倒れたりしねぇと思うけど」
見下ろされて、ぐっと喉が鳴った。悔しい!
「私だって……麻婆豆腐くらい」
「なら、やってみ」
祐は余裕綽々の顔で後ろに下がった。どうぞ、と言う訳だ。
「ちなみに作ったことあるんだよな?」
「……ない、けどレシピとか見れば!」
「いいわ。やっぱ俺が作るわ」
しっし、と手をひらひらされて私は背中を向けた。完敗だ。料理が苦手な自分と、祐が作った麻婆豆腐のことを考えたらお腹が減ってきた自分にがっかりだった。大人しく茶の間の自分の席に座った。
三日前、昼寝から起きた私はお粥をあっためて、その美味しさにひと鍋一気に平らげた。薄く切った鶏肉は柔らかいし、お粥は何かのダシの味でほんのりしょっぱい。すごく美味しくて、なぜか涙が出た。
たっぷり二時間は昼寝したはずなのにベッドに入ったらまた朝までぐっすりだった。
祐が置いていったのはそれだけじゃなかった。その翌朝、私は炊きたてのご飯ときゅうりと長芋の浅漬けとだし巻き卵を食べた。浅漬けは少し塩気が強かったけど真っ白なご飯がなかったことにしてくれたし、レンジで温めただし巻き卵は大好きな甘い味。母さんの卵焼きとは違うけど食べた瞬間ひどく安心した。
おかげで、その日は一日満ち足りた気持ちで過ごした。相変わらず体は重かったけど、明日はクリーニングに制服を取りに行こう、そんな風に前向きになれた。
悲しくて寂しい夢みたいなひとりの暮らしを、祐のご飯は吹っ飛ばしてくれたみたいだった。私もちゃんとご飯作ろう。
だから次に会ったら、今度こそ素直にお礼を言おうと思っていたのに。
予想外にぐいぐい来られると、人って引くんだなと思う。
「なんで、来るんだろ」
午後三時。手持ち無沙汰にテレビをつけ何もしてなくて消して、スマホをいじる。インスタは欠席が気まずいからネットニュースを見る。
じゅぅぅっとフライパンが香ばしい音を立て始めた。台所が気になってしょうがない。
「ってかこの時間、学校だよね」
人のことは言えないけど、と面白くもない記事をスクロールする。その内いい匂いが漂ってくる。パブロフの犬みたいに空腹を感じるのと同時、悔しみが湧いてきてどうしていいか分からない。
「おーい」
ハッと体を起こした。慌ててガラス戸の桟をまたぐ。
「お前辛いの好き?」
「え、あ……結構、好き」
「ふーん。じゃあ豆板醤多めに入れてみるか」
祐は家から持ってきたらしい真っ赤な調味料を睨む。興味本位で近づくと、ニンニクと生姜の香りが顔を包んだ。祐はそこに豆板醤をスプーンですくって足し入れた、油の撥ねる音が強くなる。
「うわ、入れすぎたかも」
熱々の旨辛味を想像したら、飲み物も必要だと思った。そうだよお茶くらい出さなきゃ。
「ねぇ祐、麦茶飲む?」
「あ?」
パック挽肉を入れた瞬間では聞こえなかったみたいだった。
「麦茶! 飲む?」
むぎちゃ、と唇が動いてすぐ、「いいな!」と笑んだ。
「おれめっちゃ飲むわ。1Lくらい頼む」
「わ、分かってるよ!」
急いで食器棚の下から麦茶用のピッチャーを出した。変に頬が熱い。片手鍋にお湯を沸かそうと水を入れると、祐が「寄越せ」とそれを受け取った。
「こっちの油飛びそうだな」
「大丈夫、お腹に入ったら同じだよ」
「ハハハ。……お前、変わってねぇな。ウケる」
なにそれ! 私はムッとして隣の祐を見上げた。でも祐の顔が全然「ウケて」なんかいなくて、軽口は喉で止まった。
麻婆豆腐は思ってたよりずっと辛くて、私も祐もヒーヒー言いながら食べた。ダメだ生卵もらう! って祐が白ご飯を卵かけご飯にして食べ始めた。ズルい私も、と思ったけど辛いのが好きって言った手前、退くに退けなくて頑張った。唇が真っ赤に腫れてる気がして何度も麦茶を飲んだ。
食べ終わっても「くっそ、まだ辛ぇ」って祐が汗だらけになってるのが可笑しくて笑えた。
水戸黄門が終わる頃には、麻婆豆腐も麦茶もみんなきれいになくなった。
「お、これ行かねぇ?」
今日は時間ある、と言って食器洗いまでやってくれた祐の帰り際。さすがにそこまでさせておいて見送らないのは人道に反する気がして、祐がスニーカーを履くのを大人しく待っていたときだった。
祐が玄関に置きっぱなしの町報チラシを一枚持ち上げ、私にぴらりと見せた。
「お祭り?」
今週の土曜、明後日。
「行かねぇなら屋台飯、買ってきてやるけど」
偉そうな口元がニヤリとして、私は反射的にムッとした。
「べ、別に買ってこなくていいよ。お祭りとか、そんなに興味ないし」
「お前、チョコバナナ好きだったじゃん。いつだっけか三本も食って腹壊」
「うっ、うるさいよ!」
「ははっ怒んなよ。分かったって。焼きそばとお好み焼きどっち好きだっけ? まぁいいか、どっちも買ってくるわ」
じゃあと祐が玄関扉に手をかけた。ひらり、チラシが足元を掠めて落ちた。
「ま、待って」
気づけば一歩踏み出していた。驚くほど弱々しい声が自分まで届いた。
「あ?」
振り向かないままの背中が私に聞いた。
私は、まだかすかに痺れてる唇をそっと噛んだ。開く。
「お祭り、行く」
「……マジ?」
祐がゆっくり振り向いた。
「焼きそば。私、おごるから」
その瞬間、私よりも十センチ以上大きくて茶髪で陽キャっぽいジャージ姿の祐がまるで小学生に戻ったみたいに見えた。困ったような顔でくしゃっと笑って「ん」と肯いた。
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