3.踏み出す
『ちょっと紗世、あんた大丈夫なの!? あーもう! 今日こそチケット無理やり取ってやる!』
「え……もう大丈夫だから帰ってこなくていいよ」
大音量の『はぁ?』が部屋に響いた。父さんと母さんが海外と日本を行き来し始めてから半年。最近は「あ」の発音が限りなく「A」に聞こえて違和感。
『パパ! 何とか言ってよ』
父さんが画面に入って来た。助かった。
『紗世、母さんも父さんもすごく心配してる』
「うん」
『すぐ帰れなくてごめん』
「いいってば。医者のくれた薬飲んだら、体調いいし」
父さんの穏やかな物言いに私はひらひらと手を振った。
『薬!? やっぱりだめよ。あたしだけでも帰る』
『うん、母さんが先に帰って、父さんも再来週には帰る』
いいって言ってるのに。
「……来週から夏休みだし、家にいれば涼しいし。気をつけて水分とるよ。ってか、母さんいないと父さん無理なんでしょ」
『ぐ……大丈夫よ、父さんは大人だし』
詳しく知らないけど、父さんは結構大きな仕事をしてるらしい。でも部屋が全く片付けられないし、まともな料理も作れないタイプ。一度ゴミ部屋化したアパートで小火を出して以来、時々母さんが父さんに会いに行くようになった。私が高校二年になってからは長期で。
「でもさ、ホテルならともかく借家にゴキブリわくんじゃないの。そっち多いって言ってたじゃん」
『まぁ、ね』
母さんの顔が不安に曇った。俯く、あぁ悩んでる。父さんはすでに画面からは消えてる。
「もう期末テストも終わったから具合悪くなったら学校休めばいいし、病院の支払いもカードでやってきたし」
うーん、と碌に話が聞こえてない返し。イライラしてくる。
『そうそう、祐くんには世話になったからそっち帰ったら挨拶に行かないとなぁ』
呑気な父さんの声。
『……あっ父さん、もう出る時間じゃない! さっきネクタイしてって言ったのに!』
『そうだっけ』
『ごめん紗世。出かけるから一旦切るね。そっちは朝よね、夜はちゃんとセコムしてよ! じゃあね』
退室の効果音が鳴ると部屋は途端に静まりかえった。
視線の逸れた、ぼやける私がPCに映っていた。
疲れた。親としゃべるだけなのに。
ぼんやり天井を見た。目眩の予兆のような、心地の悪さが額を撫でる。私は前髪を擦ってそれを誤魔化し、のそのそベッドに寝転んだ。まだ朝の六時。
外で車の停車した音、カーテンが朝陽に透けて柔らかい青を放つ――ただエアコンだけが動いている。
母さんと父さんの騒がしさが遠のくと別の波が寄せた。昨日の夜からずっと、私はその波に攫われたまま。
「怒ってた」
私を睨む顔。
「やっぱり最初からタクシーにしておけばよかった」
知らない低い、笑い声。
漕いでやると言った、背中。
着替えて来ると言ったら、ゆっくりでいいと寄った眉。やっぱり見慣れない茶髪。
「きっともう、会わないから」
今まで会わないでこれたんだから。また元に戻るだけ。
「忘れればいい」
通知が鳴ってスマホを見た。誰かからまたチャットが来てたけど、目をつぶって見ない振りをした。
二度寝から起きると十時過ぎていた。
学校に連絡すると、担任の多田から「大丈夫か野上」「今は家か?」と言われた。母さんから事の顛末は伝わっていたから、「まだ調子悪い」と言えば話は早かった。
グループチャットにも一応報告だけした。『救急車乗っちゃったw』『でも記憶ないw』『まだ微妙だから休むー』あとは適当なスタンプを送信。たぶんこれで何とかなる。すぐグループの何人か既読になったからスマホは放りだした。中にはすごく心配してくれてる子もいたけど、応える気にならなくて通知も切った。
また、昨日の夜の波が寄せてきそうになる。
「起きなきゃな……シャワーも浴びなきゃ」
実際、かなり汗臭かった。
外でバイクの音がした。郵便屋だ。考えてみれば丸三日、ポストを見ていない。それに洗濯機もいっぱいになってるはず。
濡れたタオルの生乾きの匂いを想像してしまい、うへぇとなる。私は仕方なしに起きあがった。そうしてドアを開けた途端、自分の体が冷え切っていたのを知った。
――曇り硝子の五センチ手前は外気の気配が濃厚だ。暑さを覚悟しながら玄関扉を開けると、予想通りの圧倒的な夏が私を包んだ。洗いざらしの髪から水分が立ち昇るのが分かった。
「うわ。休んでよかった」
見れば表札裏のポストは案の定いっぱいだ。たった数歩の距離も嫌になるほどの快晴に目を眇め、外へ出た。
と、つっかけの爪先がガザッと何かを蹴った。驚いて見れば、足元に新聞屋の広告と、
「紙袋?」
中には見たことのあるビニール袋と薬袋。私は飛びつくようにして拾い上げた。思わず周囲を見回す、誰もいない。
急いで中を見てすぐ閉じた。間違いない私の下着。薬も私の名前。
「なんでこんなとこに。私、紙袋なんて持って」
きっと祐だ。
思い出した。私、カゴに忘れたんだ。
羞恥で血の気が引いた。同時に病院の中では深く考えられずにいた事実に思い当たる。退院のとき制服は持たされなかった。ビニール袋に入った下着だけ。
「ちょっと待って制服……」
『冷たいシャワーで全身を冷やした処置が良かった』と医師が言っていた。制服は濡れたはずなのに、見当たらない。さっき見た洗濯機の中にも。
じゃあ私、何を着て救急車に乗ったの?
『指示に従って楽な格好で脇を冷やしてくれたのもよかった』そのまま放置されてたら死んでたって言われた。
楽な格好って、もしかして。
脚から力が抜けた。扉に寄りかかった。
祐に、見られたんだ。
世界は明るくて眩しいのに、目の前が急速に翳った。頭の中で私を罵倒する声がわんわんと響いた。地面が揺らめくのは目眩、それとも陽炎。
紙袋の中にはレシートも入っていた。
裏に殴り書き。
『制服は野田クリーニング』
◇
祐の母親は随分前に出て行ってそれっきりらしい。
でも祐にはおばあちゃんがいて、家のことは何の問題もないと大人は話していた。定年まで小学校の先生をしていたとかで、集落でもしっかり者で有名らしかった。誰にでも厳しくて、私はあまり笑った顔を見たことがない。遊びにいって静かに叱られたことも数え切れないし、色んなことを教わった。
そんな事情からか祐はおばあちゃん子で、何かと言えば「ばあちゃんが言ってたんだけど」で始まる会話のせいか遠慮のない男子からバカにされることも多かった。小六まで背が小さくて痩せてた祐はそういう標的になりやすかった。
私はそんな祐を表立って庇えない臆病者だったけど祐は私を責めることはなかったし、いつの間にか卒業間近には口癖は直っていた。女も男もなく、家の近い私たちは毎日一緒に遊んでいた。
こんなにこの道、細かったっけ。
祐の家までの砂利道を歩く。たった十分の距離なのに、知る景色と違って見えた。
私の家は細い国道沿いの集落の外れ。そして祐の家は裏の砂利道を上って、山にぶつかるどんづまり。だから家の裏は鬱蒼と茂った山で、竹林や清流の流れ込む池なんかがあって、私と祐は一年中その裏山で遊んでいた。
両親宛に送られてきた
そして忘れればいい。またすれ違っても挨拶もしない幼馴染に戻ればいい。
「あつすぎる」
手土産を選ぶのにも時間がかかって一番暑い時間になった。帽子をかぶってるだけまだマシだけど、気を抜けば朦朧としてくる熱世界。
知らず視線が落ちていく。
二本の黒い棒が伸びたり縮んだり。
真っ黒だ。
私の影は黒のスキニーパンツから溶け出して足にまとわりついたようで、まるで私の醜さを煮詰めたようで、無理やり道の先に焦点を合わせた。自分の狡さを自覚している、祐のいない時間にわざわざ出向く狡さを。深い感謝が伝わるといいと、できるだけ高いお菓子を持ってきた打算を。
でもこれは二時間真剣に考えた結果。きっと最善の方法。
坂が緩くなり、少しずつ少しずつ木造の門が見えてきた。伸び放題の生け垣に埋もれるような、記憶よりも古びて褪せた小さな。
肩に力が入って掌にひどく汗をかいていた。怖かった。何度もズボンを履いているか確認する。
あの日以来だった。祐の家に行くのは。おばあちゃんに会うのは。
思い出が掠めて脚が震えた。
いいの、本当に。手土産だって受けとってもらえないかもしれない。私の顔を見ただけで怒るかもしれない。息が上がっていた。視界全部がひどく揺らめいて、足元に転がる石をしばらく見た。でも、
「行かなきゃ」
私は顔を上げた。
五年ぶり、祐の家は様子がちがった。
表の庭は背の高い雑草が伸びたまま全然手入れがされていない。
――百日紅が満開だった。白と青の紫陽花は終わりかけで、きれいに刈られた庭を横目に歩いた。
茶色に変色した紫陽花が息苦しそうに揺れる。庭の濡れ縁は最初からなかったみたいに緑に隠れて見えない。
――濡れ縁からおばあちゃんが見えて「こんにちは」って声をかけた。明るい陽射しで眩む暗がりからはっきりと返事があった。
まるで空き家みたいな静けさが門の奥、玄関へと進む石畳からも感じられた。踏みしめられて草の勢いがない一本路から辛うじて誰かが住んでることだけが分かった。
――下校時間には必ず打ち水がしてあった石畳を、落ちた百日紅の赤を避けて渡る。タン、タン鳴る靴底が好きだった。
ここホントに祐の家?
同じなのに何もかも違う景色に混乱する。最後の、あの夏との共通点を探して視点が定まらない。耳の横から汗が垂れた。
たっ、と紙袋に汗が跳ねた。
「もしかして昼は誰も居ないいのかも」
そうだ、居なければ父さんから祐の家にお礼の電話を入れてもらえばいい。
一気に楽になった。祐にもおばあちゃんにも会わないで済むかもしれない。
勢いづいた私は、ひと息に門をくぐってインターホンを鳴らした。蝉が気まずげに震えてどこかへ飛んでいくのを聞いた。応えがない。
やっぱり……誰もいない?
でも私はもう一度鳴らした。二度鳴らすのがおばあちゃんとの決まりだった、「客でもない自分の都合で訪ねた者が、呼び出しておいてせっかちになっちゃいけない」と教えられていた。
「……はい、どなたですか」
心臓が止まりかけた。
がらりと玄関を開けたのは、祐だった。
「お、お世話になったから……これみんなで食べて」
私は玄関先ですぐ祐に荷物を押しつけた。脳内でシミュレーションしていた二割も再現できないまま。相手もまさか私だと思ってなかったんだろう、「気を遣わせて悪い」とか「今は通す部屋がない」とか、ぼそぼそと返事をした。
絶対に顔を出すはずのおばあちゃんが出て来ない。玄関からちらりと覗いた廊下の先には誰の何の気配も感じられず、家の中は祐越しに懐かしい匂いと不快な熱気で充満していた。
祐からは怒りの気配がなく、それでいて気安い様子もどこかへ行ってしまったようだった。
お互いの沈黙と暑さに息苦しさを覚えた頃、祐が「ちょっと待ってろ」と中に姿を消した。でもすぐに戻って来て「また倒れられたら困る」「送ってやる」と
会話のない帰り道。
少しずつ緊張が解けるのと比例して焦りが加速していく。結局お礼の言葉ひとつ、お詫びの気持ちも言えてない。
『お医者さんから処置が良かったって言われた、ありがとう』『わざわざ病院まで来てもらってごめん』『暑いのに自転車で走らせてごめん』『制服まで』『メモも』
言葉にするとあまりに伝えるべきことが多すぎて、声が出ず、坂を下って砂利道はすぐにコンクリに変わった。車一台分しか通れない細い路、塀を曲がれば見慣れた表札。
過ぎる日陰に息が乱れた。
祐が腕で額を拭って私を振り向いた。帽子のつばに祐の顔が隠れてたから少し見上げないといけなかった。茶髪が透けて金色に見えた。目が合う。
強張った顔が私に言った。
「お前、やっぱ体調良くないだろ」
「え、大丈夫」
「顔白いぞ。水分は?」
「とってる」
「飯は?」
「それは……あんまり」
祐は鼻に皺を寄せて黙った。そうしてると記憶の辰おじさんとそっくりだ。ますます見られることが居心地悪い。
ハァ。祐は下に履いたジャージのポケットに手を突っこんで下唇を突き出した。
「お前、飯って作れんの?」
なんでそんなこと聞くの、と眉間に力が入った。咄嗟に口ごもる。正直言って料理は億劫でいつもテキトーだ。届く材料はいつも余って冷凍庫がパンパンになっている。
「碌なもん食ってないだろ」
「ろくな……あ、ちょっと」
鼻を鳴らした祐は迷いなくウチの玄関へ歩き出した。待ってよと追う私を無視して玄関の鍵を開け始めた。鍵を開けてる!?
「たすっ、え、なんで?」
「あ? あぁ、おじさんがお前が本調子になるまで持っとけって」
ガチャン。
「はぁ? ちょ、なんで勝手に」
「飯、作ってやる」
素早くスニーカーを脱いだ祐はニヤリと笑った。きちんと靴を揃えて。
「お前よりはウマいもん作れると思うぞ」
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