2.背に負う

 病院で目覚めたとき私が着ていたのは入院着だった。大きな、大人用の薄っぺらいローブ。

 なんで寝てるんだっけ。

 ぼんやりしていると看護師さんが医師せんせいを呼んできた。腕には点滴が刺さっていた。


 医師に聞いたのは、熱中症になって救急車で運ばれたこと。

 運ばれるまでの処置が良かったから重症にならなかったこと。

 それから、丸一日眠って概ね正常値だから気分が悪くないならもう帰ってもいいこと。

 最後に、家族とは連絡が取れたけどすぐには来られない事情があるようだったということ。

 そうです、と私は肯いた。かすかな目眩に顔をしかめる。

「両親は仕事で海外に行ってるので」

「じゃあ家には一人で?」

「はい」

 あからさまな同情の眼差し。

「一人で帰れる? 少し貧血気味だから薬も出しとこうか。しっかり栄養摂らないとまた倒れるよ」

 分かりやすい子ども扱いに目が覚める。

「迎えもないし、明日の朝の退院でいいね?」

「大丈夫です、今から退院します」

 睨めっこに勝ったのは私だった。でも相手もさすがに医者で、熱中症の対策と緊急の処置を詳しく説明され、「点滴が終わったら帰っていいけど鉄剤は出しておくから。お大事に」と薬を押しつけられた。


 そのときの私は、妙に清々しい気分だった。たくさん寝たからか点滴のおかげか。今なら何でもできる気がした。大嫌いな数学も意味不明な物理も、家にだって歩いて帰れる気がしていた。



 退院の手続きはスムーズに済んだ。でもいざ帰ろうとして看護師さんから『着替え』を渡されて、私は文字通り固まった。全能感は一瞬で消えた。

 ローブに隠れた脚から震えが全身に上った。

「他に、他の服は……」

「救急車に乗せてくれた人からはこれしか預かってないはずだけど。……あなた顔色悪いわよ」

 立っていられなくなって、しばらく看護師さんから背中を撫でられるままでいた。

 そっか入院着で帰れる訳ない。着替えがないと帰れないよね、と当たり前のことが頭をかき混ぜる。

 ベッドに丸まったままの『着替え』は、色褪せた黒Tシャツと中学のときのハーフパンツ。青いジャージ生地がやけに艶々して、目に灼きついた。

 こんなの履けない。

「どうしたの大丈夫?」

「……無理なんです」

「何が?」

 私は人前で脚を出すのが怖い。

 中一のときの嫌な思い出のせいで。

 中学でも高校でも制服のスカート丈も運動着も私服も、絶対に膝より上は人に見せないようにしてきた。どんなときも、例外はなかった。


 見かねた看護師さんがローブを貸してくれなかったら、病室からいやベッドのカーテンからすら出ることもできなかったと思う。

 そして今度は病院のロータリーから動けずにいる。

「アハハ。ダサ……」

 我ながら弱々しい声だなんて思いつつ、薄っぺらい水色のローブの前を掻きあわせた。笑えない。

 外は夕方だった。何とか会計まで終えて自動ドアから出た途端、ぬるいオレンジ色の湿った空気が全身にまとわりついた。脚が空気に触れる度ひどい鳥肌が立って、誰も座ってないベンチの端に逃げこんだ。

「ベッドにスウェットあったのになんで」「クローゼットの方が一軍だったのに」

 独り言キモい。でも何か呟いてないと口か目から何か出てきそうだった。

 Tシャツはまだしも、中学のハーフパンツを選んだ理由を問い質したかった。ハーフパンツは三年前の服だから膝丈、座ると上にずり上がって太腿が人に見られてしまう。

「いやだ」

 母さんも父さんもいないからこれ以外の着替えで帰る方法はない。完全に詰んでる。だから仕方ない、仕方ないんだ。

「さいあく」

 早くバス来い、来い……!

 暑くて苦しくて吐き気もして、汗が垂れるのも構わずとにかく脚を隠すようにしてベンチに縮こまった。

 そのまま一度だけバスのクラクションを聞いた。でも乗れなかった。あんなに待ってたのに。どうしても脚が震えて動けなかった。


 *


 屋根のついたコンクリの吹き抜けに風が吹いた。ぬるいけど少し涼しい塊が私の髪を揺らしていって、時間の経過を知った。

 気づけば誰の気配もなくて、こわごわ体の力を緩める。その拍子に膝の上に乗せていたビニール袋がコンクリに落ちた。日は落ちかけて、雨よけに電気がついている。

「そっか……タクシー呼ばなきゃ」

 早く帰らなきゃ、とゆっくり顔を上げたとき。ガシャン――自転車の倒れたような音が響いた。そしてすぐ、

「紗世、お前何してんだ!」

 肩を強く掴まれた。

「え?」

「ほら戻るぞ、何逃げてんだ!」

 汗だくの祐が私を睨みつけていた。両肩を揺すぶられ、私はその剣幕に呆然とする。

「病室は? 何階だ?」

「ぁ、わた……ぇ?」

「は?」

「わ、わたし、痛い」

 祐はハッとした顔をして勢いよく手を離した。

 「わりぃ」とすぐ謝られて、私も咄嗟に「ごめん」と言った。途端、ローブがはだけてるのが見えて慌てて脚を隠す。キツく目をつぶった。

「マジで悪かった。……チャリとってくる、待ってろよ」

 祐は五メートル先で倒れる自転車を起こして、そのまま引っ張ってきた。真っ直ぐ私を見る視線に、裾に隙間がないかどうかで頭がいっぱいになった。

「バッグと他の着替えとかバスタオル持ってきた。あとスニーカーも。帰るとき困ると思って」

「着替え?」

「あとバッグの中に財布っぽいのもあったから必要そうなの突っこんで持ってきた。色々……できるだけ見ないようにはした」

 私は差し出されたバッグを無我夢中で受けとった。膝に乗せて中を探る。

 あった!

 心底安堵してバッグに顔を突っこんだ。デニムパンツが入っていた。

「よかった……!」

 着替えて帰れる。ローブも返せる。よかった。しばらくそうして祐がいたことを思い出した。

 ハッとして顔を上げると祐が視線を外して言った。

「スマホも入ってる」

「え? あー着信すごい。インスタも」

 着信は母さんと父さんそれぞれからと、インスタは友だち。グループチャットで私が休んだことが話題になってるみたいだった。個別でもチャットがきてる。ストーリーの通知もすごい。


 私が前のめりで画面を見ていると祐が「おい」と言った。

「病室戻ってからにしろよ。あ、でも電話するなら中じゃだめか、ならさっさと親に」

 祐の言葉で現実に引き戻された。

 そして真っ直ぐ祐を見上げられる自分に気づく。さっきよりは呼吸が楽になっていた。

 どうやら誤解されてるってことも理解した。

「祐、あの」

「……おう」

「私、さっき退院してきた。これはその、ちょっと借りてきた服で……」

 は? 祐は目をまん丸にして動きを止めた。

 そこで初めて、なんでこんなに親切にしてくれたんだろうと疑問が湧いた。きっと救急車を呼んでくれたのは祐、でも私たちは――。

 畦道で感じた戸惑いと葛藤も胸を掠めた。茶色の毛先が電気で金色に透ける。

 祐はたっぷり沈黙してから、くしゃっと顔を歪めた。そして「ハァァァ」と大きなため息をつきながらしゃがみこんだ。

「っんだよ……」

「その、ごめん。ごめん祐」

 辺りは夕闇に包まれ始めていた。

 しゃがんだまま祐は乱暴に腕で汗を拭って、「謝んなよ。クッソあちぃ」と呟いた。


 *


「後ろに乗ってけ。時間はかかるけど、漕いでやる」 

 スマホもあるしタクシーを呼ぼうと思っていたのに、祐が私の荷物を勝手にカゴに入れてしまった。

「いいよ、ひとりで帰れるよ」

 脚さえ隠れていればあとは何も恐くない。むしろ祐と帰ることの方が気まずい。

「帰るって、もうバスねぇぞ。なにで帰るんだよ」

 言葉に詰まった。それにわざわざ山を下りてきてくれた相手の前で「タクシー」とは言いづらい。

「ほら乗れよ」

 でも素直にお願いできなくて「現金もないしじゃあお願い」と、不承不承肯いた。


 人が漕ぐ自転車の後ろに乗るのは初めてだった。

 平気そうに見えてバランスをとるのが難しいし、案外お尻が痛いんだと知った。そして自分が自転車に乗らなくなった理由も思い出した。

 大丈夫、隠れてる。

「進むぞ。掴まらなくていいのか」

「掴む?」

 どこ? そっとTシャツの裾を引っ張った。

「おい首締まる。もっと上持て」

「う、上って」

「肩とか背中とかあんだろ。あと、腹とか」

「えぇ?」

 そうして私たちの住む山へ、沈む夕陽に向かって自転車は走り出した。


 すぐに祐の背中は汗で濡れていて熱くなった。掴む私の手も。でも走り出すと風が涼しくて、少しずつ気持ちは落ち着いた。

「そういや……お前の親、家にいないって?」

「うん」

 商店街の入り口を通り過ぎ、街路樹の並ぶ国道を走る。

「飯はどうしてんだ?」

「一週間分の材料セットが届くやつ食べてる。昼は購買とかコンビニ」

「ふぅん」

 歩道の段差。

「あたっ」

「……タイミング合わせて腰浮かせろよ」

 そんなの知らないと言い返しそうになったけど、次の段差が来てそれどころじゃなくなった。

 祐が笑った。

「は、初めてなんだから」

「そっか。……ほら次、来るぞ」

 痛ったぁ。お前、鈍くさ。うるさいなぁ!

 夕陽が沈んでいく。

「ね、ねぇ」

「あ?」

「救急車呼んでくれたのって祐だよね?」

「……それが?」

「処置がよかったって、医者が言ってたよ」

 お礼を言おうと思ってた。謝罪もしようと。でも、

「あー思い出した。お前、重かったわー」

祐は変に茶化した。

「なっ……余計なお世話!」

「なんだよ、恩人に向かってー」

「セクハラ!」

 だから言えなかった。

 

 しばらく行くと歩道も段差もなくなって、代わりに本格的な上り坂に差し掛かった。もうすっかり夜だった。

「は、ちょっと、一回休憩する」

「うん」

 自転車はチチチチと軽い音を出して緩やかに減速した。ゆっくり。じれるくらいになったとき、最後キュッとブレーキがかかった。私は反動でシャツを強く握った。頭がちょっとだけ祐の背中にくっついた。傾いて足が着いて、風が止んだ瞬間に汗が噴きだした。

「……ほらタイヤのとこの、見てみろよ。足置けるとこあるだろ」

「置くとこ?」

 偶然か街灯の下だった。静止した自転車に居場所はなくて、私はつんのめりながら降りた。「どこ?」でもふと祐の顔を見上げて、探すのをやめた。

「分かったか?」

「……もう、ここまででいいよ。お尻痛いし、タクシー呼ぶ」

「あ? だってお前、金ないって言ってただろ」

「クレカあるから、平気」

 私は顔を見ないようにしてカゴからバッグを持ち上げた。中からスマホを出して、近くのタクシー会社を検索する。指が汗で滑って上手くタップできなくて焦る。

「そういうの、なんで早く言わねぇんだよ」

「さっき思い出したの。……もしもし、今、えぇと……大通り前の上り坂の途中で……」

 キィ。祐が背を向けてペダルに足を掛けた。

「あ、祐」

 ちがう一緒に!

 でも振り向いた祐は私を睨みつけていた。ひどい汗を拭いもせず、顎から落として。そして乱暴にペダルを踏むと行ってしまった。

 すぐに見えなくなった。



 タクシーの車内は一瞬で汗が引くほど涼しかった。そして恐ろしく速くて、私は必死にスマホをいじった。

 きっとどこかで祐を追い越すと思いながら、追い越す瞬間を知らないままでいるために。どこかの国の政治ニュースをスクロールし続けた。

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