遠く、かぎろひの立つ
micco
1.再会
夏の畦道は長い。風さえ茹だる真っ昼間に歩くもんじゃなかった。
「クッソ、あつい」
「……なんで
「たまたま」
「やっぱり、次のバス待てば良かった」
「誰が二時間も待つかよ」
予想最高気温は三十二度、きっと今まさに。
私の住む町は山間の小さな集落。駅から商店街前、そこから乗り換えて山道を進み、どんづまりのバス停で降りる。店もないし何にもないから、町と繋がるバスが本当の生命線。最近は住む人もまばらみたいで、出歩く人も少ない。
古ぼけた役場と昔からある神社だけが公共施設。あとは山か緑色。
でも私はあと半年で卒業。都会じゃなくてももう少し便利な場所にひとり暮らしがしたい。毎日バスに揺られながらそんな風に思って暮らしていた。
――今日は午後から先生たちの集まりがあるとかで、市内の高校はどこも午前授業らしい。駅前は制服の人混みでごった返していた。私はうんざりしてバスを一つやり過ごした。
これは正解で、おかげで悠々と座れた。駅からぴったり十五分で商店街前に着いて満足する。
あとは涼しい自分の部屋に帰るだけ。
ちょっとお腹が減ったかも、と思いつつ私はバスを降りた。太陽の暑さに辟易しながら横断歩道を渡り待合所に向かう。停車時間を把握してなかったから。
一時間以上あるなら買い食いしようか、少しの間ならそこで待とうかなんて思いながら日陰に足を踏みいれた。
そこに祐がいた。
「バス、二時間半後だぞ」
行儀悪く脚を投げだしたままベンチに腰かけて、まるで最後に会ったのが昨日だったみたいに言った。そして五年ぶりの再会を気にする風もなく、祐は私に「歩いて帰るぞ」と顎をしゃくった。
あっちー。祐がTシャツの腹で汗を拭う。ちらりと見える背中は何度も見なかったことにしていた。制服の白シャツはとっくの昔に脱いでスラックスの裾も膝までまくり上げている。髪は染めたらしく明るい茶色で涼しそう。M高の校則はどうやら緩いらしい。
知らない人みたい。
私ももちろん制服でローファー。でも可愛くて気に入ってる夏のセーラー襟は脱げるわけないし、膝下のスカートもひどく重くて辛い。襟足から汗が垂れて気持ち悪い、肩までの微妙な髪の長さのせいだ。ハンカチも限界で、拭いても汗を伸ばすだけになるからもう諦めて流れるままにしていた。
どうして今さら話しかけてきたんだろう。
祐は不自然なほど気安くて、私は最初、安堵と困惑に打ちのめされた。
でも歩き始めたらすぐ、気まずい相手に全力対応できるメンタルじゃなくなった。大げさに言えばそれぞれが生命の危機。だから少し不自然でも、今は軽薄さがありがたいくらいになっていた。
だって考えることは少ない方がいい。帰ったらすぐ模試の勉強しなきゃ、でもその前に早く冷たいシャワー浴びたい。前回の模試はD判定だったから水浴びたらすぐ。
暑さで頭がぼんやりして、シャワーのことが頭を占領し始める。視界の中の黒いスラックスを目印に前に進んだ。
「昼で終わりって知ってたら、ぜってー休んだ。金曜だし」
祐が話しかけてくると少しだけ目が覚めて、私は息切れしながら答える。
「なんで知らないの? HRとかで連絡あるでしょ」
「聞いてねぇ」
祐と私はちがう高校。ただ、同じ集落に住んでるから時々こんな風に時間がかぶった。とは言っても、私はバスで祐は自転車。
もしすれ違ってもお互い知らない振りしてた。徹底的に。
「聞いてないってどういう」
「俺、学校でずっと寝てる」
「ヤバ」
でも会話は続く。道もまだ続く。
この畦道は国道と集落を結ぶ絶対的な近道で、徒歩か自転車なら誰でも通る。でもさすがにこの時間は人っ子ひとりいない、暑さに農家も家で休んでるんだろう。
道幅は二メートルあるかないか。
いびつな土手で区切られた田んぼの稲は真っ直ぐに緑で、眩しい。乾いた土も、稲に透けて見える水面も空も全部霞むほど眩しい。唯一、祐のスラックスだけが真っ黒で異様な存在感。祐が汗を拭く度に見える硬そうな背中の下、てらりと皮ベルトが光る。
あぁあのベルト、触ったら熱そう。
話が途切れて、また暑いことしか考えられなくなっていた。そしてぼんやりとシャワーへの渇望に思考が移ってループする。
「あっちぃ」
「うん」
山へ伸びる一本道はあと半分。祐が前で私がその斜め後ろを歩く。ゆらりと祐の先の畦道が揺れた気がして、私はまた汗を拭いた。
最後の田んぼを過ぎると、道は唐突に山道になる。黒々とした圧倒的な日陰によって私たちは同時に息を吐いた。直射日光に当たらない分、多少は涼しく感じるのに汗が止まらない。少しだけ立ち止まってそれぞれ汗を伸ばした。
ここからは小さな山を越えていく坂道。通る人がいないのか、元々狭い道幅は緑に侵食されて埋もれかけていた。
「草刈り誰だよ。めんどくせぇな」
祐が呟いて捲っていた裾を下げ、足元の長めの枝を拾い上げた。「おい、遅れるなよ」そのまま歩き始める。
遅れるなよって、何。なんでそんな、普通なの。
勝手で強引な言動に、少しばかり冷えた頭が反発しかけた。
「待ってよ」
でもうまく言えず私は祐を追いかけた。
私たちが六年間通った通学路はほとんど獣道になっていた。所々に敷かれた石畳や石段は朽ちて削れて苔むしている。
祐は時々枝を振って、顔にかかりそうな葉を器用に払いのけた。そして私がくぐると次の枝を払う。
「ん、早く」
「分かってるよ」
祐が除ける行儀よく並ぶ丸い葉っぱはウルシだ。私はそうと分かってから大人しく祐の言うことを聞いていた。小さい頃一緒にかぶれてひどい目にあったから。今でもあの痒みを思い出すと怖気が走る。
たぶん祐も同じなんだろうと、ちらりと見上げる。でないとここまで人に親切にしない。髪が茶色で背が高くて腕が長くて、ホントに知らない人に見えた。
「そこ、足元にもあるぞ」
「ぁ、うん」
私は慌ててスカートの裾を押さえた。
ようやく集落の寂れた屋根が見えた頃には、私と祐は汗まみれもいいとこでヘトヘトになっていた。
山道を抜け、コンクリートも敷かれていない国道のバス停。私たちは陽射しで温められた木のベンチで休憩していた。家はもう目と鼻の先でも、ローファーで山を登った罪は重かった。足の裏が痛くてたまらない、なぜか頭も。
祐もさすがに疲れたのか気怠げに深座りしている。「まぁ少しは早く着いたな」と言い訳じみた声にも力がなかった。
「早く帰りたい」
「……ならさっさと帰れよ」
硬い突き放す言葉の直後、私の視界は揺れた。
「でも、今、無理」
あ、くすぐったい。こめかみから伝った汗に全神経が集中した、自分が遠のく感覚。と思うと、頭がぐわんぐわんした回るまわる、水を飲まなきゃ、そうだ何か水を。
バカみたいだけど今さら気づいた、すごく喉が渇いていた、あぁ水。ぽたとスカートの折目にいくつか雫が落ちた気配。
「おい、大丈夫か」
「あっつ、い」
「お前、揺れてるぞ。おい!」
祐が耳元で何か大声を出した。でも私はシャワーが浴びたくて暑くて喉が渇いて水がほしくて、目の前が真っ暗になった。
*
雨が降ってる。
そう、あのときみたいな。夏なのにすごく涼しい日だったから祐と山に行ったんだっけ。そしたら大雨になって、道が分からなくなって――。
「寒い」
「言うなよ。もっと寒くなる」
「だって」
白く辺りが光った。間髪入れず雷が鳴った。私は怖くて、祐にくっついた。
「くっつくなよ」
「だって怖い。家に帰りたい」
「弱虫だなぁ。こういうときは止むまで動いちゃだめなんだ。ばあちゃんがいつも言ってんだ」
小さいときは祐のおばあちゃんが苦手だった。目つきが鋭くて、何でもズバズバ言うから。
返事をする前に、握った祐の黒いシャツがパッと光って私は慌てて目をつぶった。
「たくちゃん、怖いよ」
「……チャーハン食いたい」
え? 私はそっと目を開けた。なんで食べ物?
「あと、お祭りの焼きそば」
私があんまり変な顔をしたからだろう祐が口をひん曲げた。
「怖いときは好きなものを考えろって、ばあちゃんが」
「好きなもの?」
「だからオレはチャーハンと焼きそば!」
『オレ』の言い方が不自然で私は首を傾げた。さっきまで『ぼく』だったのに、なんか変だった。祐の頬がまた白く光った。
「さよはアレだろ、」
「「ポッキー!」」
声が揃った瞬間、飛び上がるくらい近くに雷が落ちた。わっと私たちは抱き合って、しばらく震えた。そして抱き合ったまま、お互いが聞こえるくらいの声で『好きなもの』を出し合った。
雨が小雨になった頃、私のお父さんと祐のおばあちゃんが迎えに来た。寒くて歯を鳴らしながら泣いた。山を下りるときも雨が冷たくてつめたくて、顔に降る雨が――。
目覚めた瞬間、私はあっと叫んだ。顔中に冷たい水が注がれていた。息を吸った途端、水が鼻から口から入った。咳きこむ、苦しいなんで水が咳が。
「
声がして、誰かが私の顔と身体を勝手に横向きにした。ざり、と髪が硬い床に擦れて頭が引き攣った。続く咳でぬるい鼻水が出た、よだれも。
「大丈夫か!? 顔拭くぞ」
今度は顔にタオルが降ってきて、頭が持ち上がった。ごしごし拭かれる。私はそのタオルの匂いで自分の家にいることが分かって、ようやく最後の咳をした。そして今、私を拭いているのは祐だってことにも気づいた。さっきまで山にいたのに?
あぁ夢。
「た、く」
「起きれるか?」
無理だった全然力が入らない。返事を待たず、祐の手がゆっくり私の頭を床に下ろした。耳と頬が床のでこぼこに触れて今いるのはお風呂場だと知った。
「ちっ、お前マジ重い……脱がすからな」
重い、脱がす。声が反響して遅れて脳に届いた。でも届いた頃には水に溶けてなくなって忘れた。頑張って目を開けると、私の身体はすでに起こされたり持ち上げられたりして祐にされるがままのようだった。だめ開けてられない。
小さなチャックの滑る音。脚に熱い何かの感触。背中に壁じゃない何か。
「あ?」「なんだこれ」「めんどくせぇなクソ」「……よし。お前の部屋、変わってねぇよな? 運ぶぞ」
ぐにゃぐにゃだ、私。
ぐるんぐるん振りまわされる感覚でまた気分が悪くなった。どこかに置かれたのか背中がじんわり熱い。吐きそう目をつぶってるのに目眩がする。
「おいリモコンどこだ。あった!」「スマホ借りるぞ」「あ、もしもし……」
祐が何かたくさんしゃべってる。でもよく分からない。ほっぺ、叩かれた?
「おい、紗世! こっち見ろ!」「……意識はあります呼吸も、ハイ」
声が少し離れていく。いやだ、怖い。
「たく、ちゃん」
「保冷剤、ハイ……」
戻ってきてくれた。
「たくちゃ」
手をぎゅうと握られた。もう一回、ぎゅう。
それは痛いくらいだった。でもめまいと怠さで訳の分からなかった私を、確かに繋ぎとめた。
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