11.眠れない

 この日、祐は私の側に座っておしゃべりしては、一時間もしないで立ち上がるのを繰り返した。私は、祐の生活はもうずっとおばあちゃんの介護中心に回っていたと知った。

 

 二年前、おばあちゃんが骨折する前からすでに認知症は始まっていたらしい。

 苛立ったように祐を叱るようになり、ひどい物忘れが増えた。始めは少しおかしいな最近変だな、と思う程度。

「中三のときにはよ、俺とばあちゃんって毎日ケンカしてたんだ。ばあちゃんは俺にいつもあることないこと叱るし、俺、その結構前からばあちゃんのこと嫌になってたから。飯もなんか不味いと思いながら食ってた」

 今思えば罰当たりなんだけどさ。

 祐はハハハと力なく笑い、私の隣で仰向けに転がった。

「夏過ぎた頃かな……茄子を、冷蔵庫に入りきらないほど買ってたんだ。おかずが茄子ばっかりだったのは気づいてたけど碌に話もしなかったし、俺も部屋に籠もってたから。親父が最初に気づいたんだ、そんときにはもうばあちゃんはボケてた」

 冷蔵庫の野菜室に入りきらず、台所のそこかしこ、菓子棚の中にまで茄子が入れられていた。溶けて腐れた茄子の残骸が色んなところから見つかって、嫌がるおばあちゃんを辰おじさんが無理やり病院に連れて行った。すぐ車の免許を返上させ、家事は分担することになった。すると徘徊が始まった。


 話の合間にも洗濯機が祐を呼ぶ。おばあちゃんが床ずれにならないよう二時間に一回は姿勢を変えにいく。水を飲ませに行く、オムツを替えに行く。

 私はその間に祐から聞いた話をスマホで調べた。認知症の初期症状、徘徊。

 そして祐は戻ってくると続きを話す。するすると、まるで昔話をするみたいに淀みなく吐きだすように話し続けた。私は課題に目を落としながら、相づちを打つ。聞いてると知らせるために。

「ウチ、ばあちゃんの退職金と年金で暮らせてたみたいなとこあったからさ。ばあちゃん、通帳の暗証番号絶対教えないって突っぱねてさ。人前に出るとパリッとすることもあったから、銀行に連れて行ったら親父のこと知らない人だとか騒いだりして」


 まるでホントにおとぎ話。全然想像つかない、私の知るおばあちゃんはいつも正しくて静かで乱れたりする人じゃなかった。記憶と耳から入る情報がぶつかる、検索サイトのお年寄りのイラストが私に笑いかける。なんて幸せそうな顔。

「ロウベンが最悪だった」

 辰おじさんは決しておばあちゃんのしもの世話をしなかった。「それだけはできねぇ」と、祐に頭を下げたそうだ。だから祐はずっと、おばあちゃんの介護をすることになった。

 学校から帰ってくると立ちこめる異臭、畳になすりつけられた便、汚れた手のまま食事を作るおばあちゃん。怒鳴っても泣いて頼んでも聞こえない、伝わらない相手。

 目を離せなくなり、学校を早退することが増え遅刻が増え、志望校を下げた。進学校に行けるはずの成績は二学期から下がり続けたから、私立かバスを乗り継ぐしかないM高を受けることにした。

「その頃は高校とか、どうでもよかった。とにかくばあちゃんが……」

 唐突に、そしてはじめて祐は言葉を詰まらせた。


 カチコチと振り子時計だけが時を刻んで、私は不安になってゆっくり振り向いた。

 祐は頭の下で腕を組んでぼんやり天井を見つめていた。目も口もぽっかりと開けて。

「祐?」

 一拍遅れて、瞬き。

「あ、悪ぃ。そろそろ飯だな」

 でも起きあがった祐は、胡座をかいて背を丸めたまま動かなかくなった。

「たすく?」

「なんか今、メンドくさかったこと色々思い出したわ」

 深いため息とともに、いつかのようにつむじが差しだされた。

 もし、私がもっと感情豊かで涙もろい女子だったら、きっと泣きながら祐を抱きしめたのかもしれない。大変だったねとか辛かったねとか、優しい声をかけられたのかもしれない。

「……祐の髪って、プリンになってるよね」

 でも無理だった。関係ないことを言った。

 背中にも肩にも触れる勇気も、祐が私にするように頭を撫でることもできない自分に失望する。

「目立つか?」

「うん、お祭りのときより伸びてる」

 そっか。祐の声はいつも通りでも、体は小さく丸まったまま。

「なぁ紗世」

「そ、そうだ。私、染めるの手伝おうか。母さんの手伝ったことあるから」

「……お前が?」

「何その顔」

 祐が顔を上げた。怪訝な表情に軽口で返す。

「ならホントに手伝えよ」

「任せてよ」

 祐は調子を取り戻して、私の肩を軽く小突いた。私もわざと強く叩き返した。

 それが私の精一杯だったから。


 *


 真夏日に干した布団はふかふかで温かすぎて、目を覚ました。軽く寝汗を拭い、スマホを探し、薄目で待ち受けの光を浴びる。深夜の一時。通知だけ確認して、すぐに枕の下に戻した。目蓋が重くてすぐにまどろみの中に入りかけた。

 それから体感では三十秒か三分。ふいっと意識が再び持ち上がったとき、静かな足音が客間の前を通り抜けて玄関に降りた気配がした。

 スリッパの底がタイルにぺたりと擦れる。

 あぁ祐だ。

 そうしてゆっくり、焦れるくらいゆっくり玄関戸が鳴って、外に出て行った。


 どこに行ったんだろう。

 眠気が薄らいでいくのを感じながら私は寝返りを打った。

 今夜は暑くてエアコンなしでは寝られないと祐が言い、寝間ではなく客間に布団を敷いていたので、玄関はすぐそこ。耳を澄ますと、やっぱり誰か外にいるようだった。

 私は恐る恐る目を開けた。

 部屋は真っ暗なのに不思議と障子が白く薄ぼんやり明るく見える。喉の渇きも覚えて起きあがると、もうすっかり目が覚めていた。


 祐じゃなかったらどうしよう。

 もし辰おじさんだったら水が飲みたくてと言い訳しよう、とそこまで考えそっと障子戸から玄関先をのぞいた。暗くて見づらいけど戸が半分開けっ放しになっていた。夏と秋の虫の声が入り交じる。

 音を立てないように框から見下ろせば、祐のスリッパはないようだった。

 単純な好奇心、こんな夜中に何をしてるのか気になった。

「……祐? いるの?」

 わ! と驚く声が上がって、ガシャンと大きな金属の音が続いた。私もびっくりしてスニーカーをつっかけ外に出た。

「え、たばこ?」 

「あーバレたかぁ」

 祐は玄関先の段に腰かけたまま、私を振り向いた。

 バレるも何も明らかに煙たいし、指にはたばこが挟まっている。

 灯りもなく月のない夜の中で祐は細く白い煙を吐いた。



「服、たばこ臭くなるぞ」

「今さらでしょ」

 まぁな、と言いながら祐はまた煙を吐いた。私に気を遣ってか顔を背けながら。

「いつから吸ってるの?」

 慣れた様子に最近じゃないな、と思った。高校の友だちにも何人かたばこを吸う子がいて、仕草でなんとなく分かった。

「去年くらい。親父には言うなよ」

「うん」と答えながら、辰おじさんにはもうバレてるんじゃないかなと思う。おじさんからすると、たばこなんて反抗の内に入らないような気もするし。

「紗世、お前はダメだぞ」

「……吸わないよ。おいしいと思わなかったし」

 去年の冬にちょっとだけ試していた。みんなでカラオケに行ったとき、口を向けられて。同じクラスの身元のしっかりした友だちだったから、ノリで。

 その瞬間はちょっとした優越感とか高揚があったけど、それだけで自分で買ってまで吸ってみたいとは思わなかった、どうでもよかった。親もいないしいつでも試せると思ったら、却ってやる気が起きなかった。

 マジか、お前も結構やってんだな。祐が呟いたのが少し面白くて「それくらい誰でもやってるよ」とうそぶいてみた。


 深夜だからか、少しだけ涼しい風が吹いた。お盆が近いんだな、と思う。

「眠れねぇのか」

「ちょっと起きちゃった」

 よっ、と祐が立ち上がって、さっき転がしたらしい灰皿缶を拾いにいった。缶を開けて吸い殻を中に入れたらしい。

 祐越しに門が影を作っていて、その奥には砂を散らしたな星たち。この前見たハクチョウ座は見当たらない。

「毎日吸うの?」

 考えなしに隣に座ってしまったことを、少しだけ後悔していた。何をしゃべったらいいのかよく分からないし、明るい話題もない。深い話もしたくない。

「まぁな」

「買うときバレないの?」

「親父が茶の間に置いてったやつをくすねてる。気づかねぇんだわ」

「……ふぅん」

 祐が隣に戻ってきた。コトリと缶を石の上に置いた音のあと、肘同士がくっついた。

 本格的に話題に困る。草の影が揺れるのをただ見る、祐の足が砂利を擦るのを聞く。くっついたままの肘が気になって戻ろうと思い始める。だけどこのまま朝になってしまいそうな沈黙を打ち破れなくて、まだ一緒にいたい気持ちを捨てきれなくて黙っていた。


 不意に祐が身じろぎして私の前に手をかざした。

「紗世、手貸せ」

「手?」

 何するの、と言う前に祐の指が私のにするりと入りこんだ。歯車が噛み合うみたいに指の根元まで。

「ぁ」

「これ、気に入ったわ」

 気に入ったじゃないよ! 頬が熱くなる。叫びたかったけど、実際には「な」と「ちょ」だけ。

「なんか落ち着く。……肉っぽいから?」

 肉っ! 咄嗟に手を引いた。例えが失礼だし軽率すぎるし、やっぱり距離が近すぎる。

 それに付き合ってもないのにこんな風に手を繋いだりするのはおかしい。

『付き合ってる』というワードで、あの子を思い出してしまう。カッと頭に血が上った。

「わ、私は落ち着かない。離してよ!」

「やだ、でないとたばこ吸いたくなる」

「知らないよ!」

「おい大声出すな、親父が起きる」

 思わず言葉を飲みこんで、すぐ我に返った。大声出させてるのは誰よ!

 だから私は勢いよく祐を見上げて文句を言おうとして――やめた。

 私の手の甲に、祐のもう片方の手が触れた。大きな硬い掌にそっと、優しく包まれる。

「お前の手、」

 祐は笑っても泣いてもなかった。嬉しそうでも悲しそうでもない、静かな横顔のまま囁いた。

「あったかい」

 ひどく寒そうに。

 夜の空気は温くて風が心地いいくらいなのに私たちの手は汗で湿ってるのに、まるで真冬のカイロを大切にするみたいに。

「お前が家に毎日いたら、俺たばこやめられるかも」

「なに、それ」

「でも無理か。お前、帰るし」

 そっか、帰るんだよな。祐は独り言ちてこっちを見た、暗がりの中の瞳は穴のように黒い。視線がぶつかった。

「もっと居ろよ」

「帰る、よ……母さん来るもん」

「なんで」

 祐が変だ。息が額にかかるほど、もう目が合わないくらい近い。

「もうここで暮らせよ。おばさんも無理して戻ってくんだろ? ウチなら俺が飯作るし、ひとり暮らしじゃなくなるから怖いことないだろ。そうだよ、そうしろよ。俺と一緒なら寂しくないだろ」

「たす」

「お前が言いづらいなら俺が」

 やだっ、と手を取り返そうとした。怖い、なんかおかしい。

 でも祐はびくともしなくて私は反動でバランスを崩した。「あっ」肩に手の感触、鼻先にシャンプーの匂い。なぁそうしろよ、と首元で声がする。

「やっ」

「頼む」

 力が強すぎて、背骨が反る。すると肩から背中に熱が移って呼吸も止まる。

「俺……ホントはたばこなんか吸いたくねぇ」

 私は離して、と言った。

「夜もずっと寝てたい」

 祐、と呼ぶ。でも、

「なぁ紗世」

 頼む、と祐は私にしがみついた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る