10.優しくしたい
おばあちゃんが寝たきりと聞いたショックから立ち直る時間もなく、辰おじさんが客間に姿を現わした。
覚えていたよりずっと老けて、いつも固めていた髪は白髪交じりでボサボサ、眉間の皺も深くなっている。出っ張っていたビール腹がへこんで、一瞬誰だか分からなかった。
「親父、声ぐらいかけてから入ってこいよ」
祐が不機嫌な声をだして、それでやっと分かったくらいだった。
スッと祐との距離が離れて、エアコンの冷風が頬を撫でた。
「辰おじさん、ご無沙汰……」
「さぁちゃん。この通りッ」
辰おじさんは客間の障子をくぐった途端、私に向かって膝をついて頭を下げた。
「えっ、おじさん? あの」
土下座だこれ。ぐりぐりと額を擦りつける頭を呆然と見た。
「親父、紗世困ってっから……そういうのやめろよ」
「馬ッ鹿野郎! お前も頭下げろッ。どうせ碌に謝りもしねぇで無理やり連れてきたんだろ!」
「ア? んな訳ねぇだろ!」
「いいからこっち来い! ばぁさんがもう謝れねぇんだ、俺たち家族が総出で頭下げんのが当たり前だろうがッ」
「チッ」
「祐、おめぇ親に向かって舌打ちするなんざァ」
「あのっあの、もう祐には謝ってもらってますから! だからもう充分ですっ」
私はまるで阿波踊りみたいな手つきで辰おじさんにお断り申し上げた。
「さぁちゃん。気持ちはありがてぇがバカ息子ひとりが謝ったって始まらねぇんだ。ちっさかったあんたをどれだけ傷つけちまったかはノン坊から聞いてる。オレの気も済まねぇ。あの頃は直接できなかった謝罪をさせてくれ……。オラッ祐、お前も膝つきやがれ」
祐はへそを曲げたような顔で、でも素早く体勢に入った。
「いや、あのそ」
私の「こまでしなくても」は二人分の「すみませんでしたッ!!」にかき消されてたぶん届かなかったと思う。
並んだつむじを見て、あぁ同じ巻き方してると、思った。
謝罪のあと、辰おじさんはテーブル斜め向かいに腰を下ろし、祐は私の斜め後ろに胡座をかいて膝に頬杖をついた。私は正座で辰おじさんに向き合った。
「ノン坊から連絡もらってるから、こんなむさ苦しいとこで良ければいつまで居てもらって構わねぇ」
「ありがとうございます」
「おっかねぇ思いしたってなぁ。ウチのアホがそんな奴ぶん殴ってれば一瞬でケリがついたんだろうが」
「ぶん殴ったら俺が捕まんだろうが」
「黙ってやがれ。今はオレが話してんだアホが」
「アァ?」
終始これで、私はもはや止めることをやめていた。そう言えば祐の口調って昔より乱暴だよな、と薄ら思ってた原因というか理由がはっきりした。はっきりしすぎてむしろ清々しい気分だ。
「あの、日曜には母が戻って来る予定なので……それまでお世話になります。よろしくお願いします」
睨み合う二人を半分無視して、私は頭を下げた。
「さぁちゃん、立派になったなぁ」
辰おじさんは眉を下げてしみじみ言った。
「
と、思うとダハハと豪快に笑う。
辰おじさんってこんな感じだったっけ?
なんだかすごく明るい。いつもビール缶を片手に時代劇を観てる印象しかなかった。それかウチに謝りに来るときしかまともに話したことがなかったかもしれない、と記憶を辿った。
でも同時に、年下の父さんを『ノン坊』、母さんを『清子さん』と呼んでいたことは懐かしく思った。祐のお母さんが出て行くまでは――私たちが生まれる前から四人でよく飲んでいたと聞いている。集落に同じ年の夫婦がいなかったとか、辰おじさんが集まりたがったとか。辰おじさんは元ヤンキーだったとか。
「俺、紗世の飯持ってくる」
祐が話を遮って立ち上がった。
「おい、茶ァくらい出せよ。さぁちゃんは大事なお客様だからな」
「へーへー」
トンと障子戸が閉まって「ハァ」と祐そっくりなため息が聞こえた。ちがうか、祐がそっくりなのか。
辰おじさんはポケットを探るような仕草をして諦め、少しだけ口をもごもごとさせた。そっか煙草だ、とすぐ思い当たり、テーブルの下に置いてある硝子の灰皿を持ち上げた。昨日の内に見つけていた。
「おじさん吸ってください。私、気にしないんで」
灰皿をおじさんの前に置く。
「……さぁちゃんがそんなこと言う年になっちまったんだもんなぁ。そりゃオレは禿げるし、ばぁさんはボケるか」
じゃあ遠慮なく、と辰おじさんは煙草を出してライターで火を点けた。ホントは煙草の煙は嫌いだけど、辰おじさんの吐いた煙はやっぱり懐かしい匂いがした。おじさんはフゥーと美味しそうに目を細めて、もうひと息吸いこんだ。
「祐が押しかけたって聞いた。悪かったな、何もされてねぇか?」
「えっと、何も……ないです?」
「チッ。それはそれで情けねぇ。……まぁ、気に入らねぇことしたらオレに言うといい。ぶん殴って放りだしてやる」
物騒すぎる。確かに祐には勝手に手を繋がれたりしてるし、距離は近いけどそこまで悪いことはされてない気がする。頬が熱いのがバレたからか、おじさんは面白がる顔でニヤリとすると、また煙を吐いた。
「ノン坊が久しぶりに電話寄越したと思ったら、『辰くん、どうしよう祐くんに紗世がとられる!』と来たもんだ」
ダァッハッハ! 大爆笑の辰おじさんは今度はひとりで噎せ始める。私は「大丈夫ですか」と言いつつ、さいあく今日は絶対LINEしないと心に決めた。
「いやぁ笑った笑った。十年ぶりくらいに職場で笑ったもんだから、他の奴らがビビっててますますウケちまって。……ノン坊は食えねぇ奴だが、あいつがあんだけ慌てるのはさぁちゃんと清子さんのことだけだけだぜ」
「父さんはいつも仕事ばっかりなので……」
「お、さぁちゃんもいっちょ前に反抗期か? いいぞ、しっかり反抗しとけ。今だけだぞ暴れていいのは」
エェ、と思いつつ口を尖らせてみる。
「祐も……さっきのとか、反抗期なんですか?」
辰おじさんは静かに目を細めると「いいや」と小さく言った。
「あいつのは違う、ありゃただのハリボテ野郎だ」
「ハリボテ……?」
「さぁちゃん」おじさんは一気に煙を吸いこんで、吐きだす前に短くなった煙草をぎゅっと灰皿に押しつけた。ゆっくり漂い広がる煙が少しだけおじさんの顔をぼやかした。
「あんたもウチのばぁさんのせいで辛い思いをしたと思う。それはもう、本当にこの通りだ」
「おじさん、もう……」
「でもオレはノン坊から、あんたが自分でウチに来るって決めたって聞いて、偉いと思ったぜ。自分で自分のケツ拭きに来たんだ、さすが清子さんの娘だってな」
なんで母さんの話になったか分からなかったけど、辰おじさんが真正面から褒めてくれたことは純粋に嬉しく思った。
「筋を、通さなきゃと思ったんです。私、おばあちゃんと会うのが怖くて……避けなくていい祐のことも避けて、逃げて何にもできなかったって気づいて。だからおばあちゃんと会って話をしてから……」
祐と仲直り、と言いかけて咄嗟に飲みこんだ。父さんの台詞じゃないけど、父親に言う話じゃなかった。
でも辰おじさんにはお見通しだったか、クククと怪しげな笑いを浮かべていた。
「いいねぇ。さぁちゃんも、あのアホもそんな年か……まぁ十八っつたらそうだよな」
おじさんは頬杖をついて何か思い出したように口を曲げた。でもすぐ元の通り姿勢を正すと、私をじっと見た。
「『筋を通す』は、ばぁさんが好きだった言葉だっけな。すっかり忘れてた。オレもばあさんが倒れるまでは口煩く言われたもんだ。だからさぁちゃんが覚えてくれてんのは、ばぁさんも喜ぶだろさ。まぁ……今はもう何考えてっか分かんねぇけどな」
そのあと、おじさんは「お、あと四時間しか寝れねぇ。まぁ酒飲んでねぇだけ健康的だな」と話を切り上げた。
そして障子戸に手をかけて、思い出したように振り返った。
「さぁちゃん、祐を頼むな」
辰おじさんは私が答えるより早く、出て行った。
◇
祐が作ってくれたのは出汁の利いた中華粥で、私のお腹はほっこりと温まった。もう胃薬は必要なかった。お盆を運ぼうとする私を制して、祐は「布団干すから手伝え」と言った。
玄関から庭に出ると、照り返しさえ眩しく陽射しは刺すよう。
祐が折りたたみ式の物干しを二つ出してきて、石畳の上に広げた。大人がひとり通れるくらいの道に二つも並べると、他のお客さんは入って来れないくらい狭い。
それもそのはず、純和風の庭だった場所は外から見るよりも雑草の茂りで一歩入るだけで虫にひどく刺されそうだ。
私の背を越すツンツンした塔みたいな草、ススキの仲間みたいな草、地面を這うような三つ葉に似た草。何も生えてないところがないくらい。
「ばあちゃん倒れてから草むしってねぇから」
私があんまり見ているからか、祐が隣に立った。
「俺も何度か草むしりしようとしたけど、すぐ生えてくるからやめた。……ほら、干すぞ」
「あっ、私が全部干すよ」
敷布団から汗とか変な匂いでもしたら気まずい。私が昨日借りた敷布団は祐の物だったらしい。客用のは何年も使ってなくて黴臭いからダメだった、と言われれば納得するしかなかったけど、そういうのは早く教えてほしかった。
元は祐のっていうのもなんかアレだし、一晩借りたのを触られるのもなんていうか……。
「じゃあ俺は先に客間とか掃除機かけてくるわ」
あっさり肯いた祐を見送って、私は玄関先に畳んで詰んだ布団を運んでは干した。全部で三枚――黴臭くてずっしり重いのが客用で、もう一枚は祐の。そして最後の敷布団は一番軽くて湿気っぽく感じなかった。
一枚運ぶごと鼻に乗る汗を拭きつつ、風もないし飛ばされることはなさそうこれならすぐ乾きそうだと、家の中に入った。
でも聞こえてくるはずの掃除機の音がなく、私は首を傾げつつ客間に入った。案の定、祐の姿はなくて掃除機のホースだけが畳の上に伸びている。
何か用でも思い出したのかと、プラグを差しこんで掃除機の電源を入れた。そうして客間と寝間の半分をヘッドで撫で終わった頃、祐が戻ってきた。
「悪ぃ。今日、ヘルパーさん来る日だった。風呂、掃除してた」
ヘルパーさん?
祐の汗と水で半濡れのシャツを見つつ、私の眉根は寄ったらしい。
「ヘルパーさんってのは、ばあちゃんの介助に来てくれてる人で……今日が風呂の日だったのすっかり忘れてたから」
「そっか」
親切な解説に我ながらそっけない返事。
「十時から来たら俺も介助手伝うから、そんときお前はここにいて好きなことしてろよ。ほら、課題とかあんだろ」
「うん」
「ちょっと昼飯遅くなるかもしんねぇけど、我慢できるか?」
「うん……ってかそんなに食い意地張ってない」
ははっと祐は笑って、私の頭にポンと手を着地させた。
「ヘルパーさん来る前に親父に弁当作ってきていいか」
「いい、よ」
「悪ぃ、じゃあ掃除頼む」
撫でて離れていった。
私は何も考えなくていいように、すぐに掃除を再開した。
きっかり十時にヘルパーさんがやってきた。
祐の「おはようございます。今日もお願いします」という声が聞いたことのない大人びた声だったから、私は思わず耳を澄ませた。
ヘルパーさんは元気そうなおばちゃんで、佐藤さんというらしい。
「祐くん、今日も布団干し偉いね」「宮子さん、食欲どう?」
話しながら二人は奥の方へ行ってしまった。
私の目の前には国語の課題冊子と筆箱、スマホ。
古文の、助動詞『る・らる・す・さす・しむ』活用のページが開かれている。未然形接続の助動詞の意味、意味の区別の仕方、演習。
私はぼんやりとそれを眺めた。何か言葉が出てきそうで、でもはっきりと形を成さないモヤモヤが私をそうさせていた。
蝉が鳴いてる。
ウチにいるときは聞こえない音がした。蝉、風が雨戸を揺らす、話し声、歩く度に床が鳴る。私の部屋――エアコンの音しかない世界と、同じはずなのに全く違う世界。今、私はここにいるのに、私ひとりだけが遠い。
課題は手につかなくて、十二時にヘルパーさんが帰るまでひとりでスマホをいじっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます