9.嫌われたくない
祐の自転車のライトが夜道を照らす。ひどく汗ばむほどではないけど、じっとりと暑い熱帯夜が私たちを包む。
砂利道を歩く私たちの足音のせいか、すいっちょんの声がか細く途切れてどこかへ行った。ウチを出るまではあんなに口煩かった祐も、外に出た途端なにもしゃべらない。
見上げても空は曇っていて、星はひとつも見えなかった。
*
「こっち。今、冷房つける」
門をくぐり靴を揃えて家に上がって、玄関からすぐの客間に通された。古い畳の匂いが充満していて埃っぽかった。祐もそう思ったようで「悪ぃ、あとで掃除する」と障子と廊下の硝子戸を開け放った。
「エアコンも久しぶりにつけたからちょっと臭せぇな。臭いなくなったら障子は閉めろよ。俺、今からお前の飯作る」
「え……そんなのいいよ」
「あ? 泊まりにきた奴が栄養失調で倒れたら困るだろうが」
そうだけどでも、と思っても、うまく伝えられずに口ごもった。
「いいからお前はここにいろ。話は飯食ってからだ」
「うん」
よし、と祐が微笑んだ。「すぐ出来る」と台所の方へいなくなった。
カチコチと歌う振り子時計と私だけ。
おばあちゃんに挨拶しなくていいの。さっきはそう言おうとした。だってもう八時過ぎてるはず、こんなに遅くに来られたら迷惑だよね。『夕飯の支度が始まる頃には帰りなさい。相手の家もお母さんもいつまで遊んでるのかと心配になるからね』そう、だから小学生のときの私と祐は五時の『ふるさと』が流れたら、どんなに遊び足りなくても走って帰った。
ぼんやり見上げる振り子時計は、時間がずれて十二時過ぎになっている。時差が八時間でイギリスだな、と思う。
するりとエアコンからの風が冷えた。私は障子を閉めようと立ち上がって、廊下の奥、台所から聞こえてくる音に耳を澄ませた。でもすぐに諦めて障子も襖もそっと閉じた。
客間の襖の奥には客用の寝間があって、廊下がぐるりと囲んでいる。廊下を奥に進むと仏間、縁側のある奥間。仏間はまた廊下で茶の間とも繋がって、台所やトイレのあるこちらに戻ってくる。祐とおばあちゃんの部屋は狭い離れで、辰おじさんの部屋は二階。集落では、立派な間取りで有名だった。
思い出す内に頭の中で一周した気分になって、やっぱり落ち着かなくなってくる。記憶よりはこぢんまりとしたスケールに違和感も仕事し続ける。物音を出すのもはばかられる心地。
私は手持ち無沙汰にスマホを取りだした。父さんからLINEが来ていた。
『辰くんにはしっかり挨拶すること。僕からも連絡しておく』
『学生の本分を忘れず』
『祐くんと仲直りできるといいね。でも必要以上に仲良くなりたいときは常識の範囲内!』
最後のが正直白けたけど、母さんだったらこの百倍の勢いになるだろうな思って『うん』『明日電話するね』とだけ返した。ちいかわスタンプの『ありがとう』も。
続けて見たインスタではみんな楽しそうで、相変わらずなんでそんなに#を思いつくのかなって思う世界に生きてる。それこそ三時間も置かず。だから会話が途絶えているグループチャットを見る限りでは、私以外の子たちでグループが立ち上がったんだろうなと思う。
悲しくも辛くもなくて、仕方ないと思った。そういうものだから。でも二学期もいよいよ学校に行きづらいな、とは思った。
アカウント自体消しちゃおうかな、でもまだいいかな。現実逃避が失敗してアプリを閉じようとした。
「あっ」
よく見ないで触ったせいか、はずみでチャット画面を開いてしまった。一瞬で既読がついてしまった。通知の⑬が一気に消えたと思うと面倒くさくてたまらない。でも既読無視はしたくない、無視してるとバレたくないから。
『だいじょぶ?』
『さよひとりだから心配』
『なにかあったら行くからね』
『元気?』
『さよ好きそう』
同クラの
ほとんどが私を心配する言葉や、好きと公言していた読者モデルのストーリー。中性的で短いスカートを履かないスタイルが好きで、私がフォローしてたのをみんな知っていた。
何か考える前に反射でそれをタップしていた。なんてことはないショートショートの動画、たぶんこのとき流行ってた何かの振りつけ。
自動でリピートになって消した。今はそれどころじゃないから面白いとも感じなかったけど、不思議と気持ちが落ち着いていた。返事がないのに十件以上も送るとか重い、そんな風に思ってたのも軽くなった。藍衣に『ありがと』『元気だよ』と返信する。
ぱっぽ、と振り子時計が九時になった。
*
子どものときのままの薬箱、赤いシールの貼ってある木箱がテーブルにドンと置かれた。お粥を食べるとお腹が痛んでしまい、祐が胃薬を出してくれたから。
「いいか、何があっても飯は食え」
鼻に寄った皺に本気の怒りを感じ、私は素直に肯いた。頭が上がらないってこういうことか、と謝る。間髪入れずハァと返ってきた。
「でも俺もあんま食ってねぇからお前のこと言えねぇけど。……ひとりで食う飯まずいし」
ひとり?
一度だけ、お母さんの帰りが遅くなって祐の家の夕食にお邪魔したことがあった。和食だけど品数が多くて全部手作りで、何も言わなくても祐が箸や小皿を出すお手伝いをしてて、自然に「いただきます」が始まって――。
ぼんやりしてたからか、テーブル向かいにいた祐が立って私の右隣にドカリと腰を下ろした。胡座で私の方を向いて。
「お前ってすぐ痩せるよな」
すり、と頬を撫でられた。
「せっかく食わせたのに」
絶句。な、ななんでほっぺ……! てか近すぎてなんで!
「ここにいる間だけでも三食食うぞ。どうせ二学期になったらまた痩せるだろ」
俺も忙しくなるし。ぽんっと頭で弾んだ手は私の髪をするりと撫でて離れた。
後頭部でひえっと背中が突っぱって、疑問と反論はどこかへ行った。祐の肩が近すぎてそっちを見れないし、撫でられた部分がじわじわ熱い。
「いつまで俺ん家にいるかだな」
「……お盆になったら母さんが帰ってくるって。だから日曜まで……お世話になるね」
「日曜?」
祐が急に黙った。私はそっと顔を動かして祐の眉が寄ってるのを確認した。カチコチの音が私を忙しなくする。
「ね、ねぇ。私おばあちゃんと辰おじさんに挨拶しなきゃ。二人ともいないの?」
祐の視線が刺さる。
「親父は夜勤で、朝帰ってくる。ばあちゃんは寝てる」
心底ホッとした。覚悟して来たつもりだったけど、やっぱり怖い。
「じゃあ挨拶は明日の朝だね」
まぁな、と言った祐はどこか歯切れが悪くて不安になる。
「辰おじさん帰ってきたとき寝てるの気まずいから、何時に起きるといいかなっ」
わざと明るく言って、スマホを持ちあげた。と、右手首を掴まれた。スマホを抜きとられてくいっと引っ張られる。ちょっと、と抗議しようと咄嗟に顔を上げると、祐の顔がすぐ側にあった。
「ぎゃっ」
「紗世、体こっち向け。話ある」
「分かった、分かったけどなんか近い」
「お前がこっち向いたらそうでもない」
そんなことある? でも私は全力で俯いたまま祐と向き合った。膝がぶつかって、手首は掴まれたままどころかいつのまにか握られててどんな顔をしていいか分からない。
「やっぱ近くない?」
それにここは祐の家だと思い出す。
いくらおばあちゃんが寝てるとはいえ、手を繋ぐのはアウトじゃないの。もし起きてきて見られたら。
最高に熱かった顔が冷めていく。だんだん恐ろしくなってくる。
「む、向いたから。手、離して」
「やだ」
「エェ……」
「ってか俺も怖いから」
祐が片手で顔を覆った気配。私はゆっくり顔を上げた。
「お前に家のこと話すの、すげぇ怖い」
ぎゅうと強く握られた。
指の隙間から片目が私を見ていた。
「嫌われたくない」
泣きそうな目だった。
◇
眩しいなぁ。
障子戸は朝の光を取りこんで、明るいクリーム色に透けていた。気温が上がったのか、私は少し汗ばんでいた。
いつの間にか寝てた、と目を擦った。一晩ですっかり慣れた振り子の音がして仰向けのまま時計を見る。九時半だから五時半か、と寝返りを打った。習慣で枕の下を探ってから、スマホはそこにないことを思い出す。部屋の反対側のコンセントで充電中。
もう一度仰向けになった。
昨日、祐は小さくなりたいみたいに背を丸めたまま、時折私の手を強く握ったままでいた。距離の近さより沈黙の長さが苦しくなり始めたとき、祐の手は力をなくした。
そして、
「やっぱ明日話す」
と離れた。
そのあと祐はどこからか布団を持ってきて、ひとつ奥の寝間に敷いてくれた。「これ使え」と渡されたシーツとタオルケットは明らかに真新しくて、気を遣わせたと思ってもありがたく受けとった。
「六時頃、起こしに来る。トイレはいいけど、あんまりパジャマで歩き回んなよ」「心配すんな。誰もお前を叱ったり追い出したりしない」と言って、部屋を出て行った。
――何を話すつもりだったんだろう。
どうして家のことを聞くと、私が祐を嫌うんだろう。
お祭りの夜の中で、祐の顎から落ちた涙を思った。
でもよく分からなくて、なんだか悲しくなって考えるのをやめた。
もそもそと起きあがって布団を畳む。こっそり顔を洗いに洗面所を借りて、部屋の隅で化粧水をつけた。祐が突然入って来ないかドキドキしながら、襖の影で着替えた。黒のスキニーに白いシフォンのチュニック。少しでもきちんと見えるように襟紐も結んだ。
身支度ができて緊張してくる。すると図ったように足音がして「紗世」と祐が障子越しに呼んだ。
起きてるよ、と答えて襖の影から出る。
「おはよう」
明るいからか、変に恥ずかしかった。髪が跳ねてる気がして、手で梳いた。
顔をのぞかせた祐はいつもの勢いはなく、ちょっとぼんやりしてるみたいに見えた。シャワーでも浴びたのか、髪が濡れていた。
「あーえぇと。親父、まだ起きてる。会うか?」
「う、うん」
「茶の間にいる」
分かったと踏み出した、つもりだった。
脚が動かない。
「え……あれ。……おかしいな」
動かない。
「紗世?」
祐が部屋に入ってきた。すぐ側まで来る。
「どうした」
「ちょっとだけ、待って」
心の中でえいっと掛け声をかける。動け、動けうごけ!
まるで自分の体の一部じゃないみたいに感覚がない。さっきまでどうやって動かしてたんだろう。分からない、どうしようどうしよう。なんで、なんで?
動かない!
「……紗世、無理すんな。顔色悪いぞ」
「だいじょうぶ、大丈夫。行けるから、ちょっとだけ」
いいから、と祐が私の両手を持ちあげた。
「いい、紗世はここから動かなくていい。親父が来る。来るのは親父だけだから」
「うん……。でも」
「ほら座るぞ」と祐が先に座ってゆっくり私を引っ張る。大丈夫と言う。
「ゆっくり、そう、うまい」
曲げた膝が震えてガクッと体勢を崩した。あっと言う間もなく、祐が支えてくれた。
「……はは。お前、重い」
「お、重いとか言うなぁ」
「褒めてんだよ」
なにそれ、と悪態をついたときには膝が畳にくっついた。息を止めてたらしく、やっと深く呼吸できた。吸った空気にフローラルな香りが混じっていた。自嘲で笑えてくる。
私、全然ダメだ。こんなんじゃおばあちゃんに会えるわけない。しっかりしなきゃ。平気だって言わなきゃ。
「祐、もう大丈夫。茶の間まで行く」
「行かなくていい」
「ダメだよ、挨拶しなきゃ」
「んー。これ、なんか落ち着くな」
さっき私を支えてくれた両手は恋人繋ぎになっていた。
「えっ。やだ……離してよ」
「やだ。付き合った奴らがやってんの、分かった気がするわ」
「え、エェ……私は落ち着かない!」
なんか近い。ここに来てから距離感バグってる。
私の戸惑いと羞恥を無視して、祐は「うん」と手をにぎにぎしたままでいる。なんか笑ってる。謎のリズムが始まると、祐の指が指の付け根に擦れて変な声が出そうになった。熱くて恥ずかしい。恥ずかしくて熱い。
でも頭のどこかでは、さっきの混乱がすり替わって脚の震えがなくなったことに気づいていた。祐がわざとそうしてると分かっていた。
「なぁ」
「な、何。早く離して」
「やだ。今から昨日の続きしゃべるわ」
私は祐のしっとり湿った髪を眺めた。深く俯いていて、睫毛が瞬いてることしか見えないから。
でも祐が何かに苦しんでることは、もう分かっていた。
「別に、言いたくないなら……」
「ちがう、言いたい。言えば紗世は少し楽になる気がする」
祐が顔を上げた。さっきまで恥ずかしくて痛かった心臓が今度は重く痛みだす。祐の瞳は暗く翳って私を見ていた。今にもドロリと黒の絵の具が出てきそうな色で。
「茶の間には……ばあちゃん出てこない安心しろよ」
「ぇ、なんで。だってご飯とか」
私の反論を遮って祐はささやいた。
「なぁ。俺、臭くねぇよな?」
何言ってんの? 話、変わってない?
思わず口から出そうになった返事はすんでのところで飲みこんだ。飲みこんで良かった、祐を傷つけるところだった。
「いい匂いだよ。……シャンプーのいい匂いしかしないよ」
私は震える祐を励ましたくてでも他の言葉が出てこなくて、少しだけ指を曲げた。祐の指が大きくて、さっきされたみたいにはきゅっとできない。
でも祐は返事をしたみたいに、私の肩に頭を乗せた。
「ばあちゃん、二年前に転んで骨折したんだ」
「二年前って……」
薄いシフォンの生地から熱が伝わった。
「大丈夫だったの? もしかしてまだ治ってない、とか」
あとから私は自分の無知を恥じる。
治ったよ、と祐が言った。
「寝たきりなんだ。自分では動けないし、意味のある言葉も、もう言えねぇ」
祐の頭が離れて肩が軽くなった。
「俺のことも覚えてねぇから。誰もお前を
だから安心しろ。
すでに脚だけじゃなく全身が動かなくなっていた。だから繋いだ指がするりと離れても、何も言えなかった。
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