16.決意する

 翌日、母さんは辰おじさんと連れ立って役場に行った。

 まずは『ケアマネ』という人を紹介してもらいに。でも役場がくれたのは小さな冊子だけで、どの人がいいとか詳しいことは教えてもらえなかったそうで、母さんは不完全燃焼。「こうなったら徹底的に調べてやる」と、祐の家に来ているヘルパーさんや知り合いに色々話を聞きまくるのに今は奔走し始めた。

 方針としては、早急におばあちゃんを介護施設に預けるか訪問介護に任せるかする。そのために必要な手続きやお金のことも含めて、母さんが手伝うことになったそうだ。


 お盆から三日経って銀行の窓口が開くと、母さんは辰おじさんを引っ張ってまた出かけて行った。

 私は走り回る母さんを尻目にだらだらと課題を終わらせて、来週から始まる新学期に憂鬱な気持ちでいた。目の前には一応の参考書。でも朝から三ページも進んでいない。

 同クラの藍衣とは細々とチャットを続けてはいたけど、夏休み前と同じグループの中に戻れる気はしない。

「あーあ」

 祐の家のことを心配してる場合じゃないと分かってはいるけど、勉強はつまらなかった。みんなが誰かのために忙しそうにしてるのを見てるだけだからかもしれない。

 私が最初に助けたいって思ったのに……でも子どもは邪魔になるだけだろうし。ひとりきりの時間が長いと心がぐずついてくる。


 茶の間で麦茶を飲んでいると家の電話が鳴った。

「はい、野上です」

「……俺だけど」

 祐だ。

「うん、何?」

「昼飯、俺ん家で食うからって……おばさんが」

 歯切れの悪い言い方。

「私はいいや。母さんにはLINEしとく」

 何か言われる前に「じゃあ」と受話器を置いた。

 そのままスマホを取りだして母さんにLINEを送る。

『私はウチで食べるから』

 これでよし。

 昨日も同じような電話があったけど断っていた。祐が「来るな」って言ったなら簡単に誘わないでほしかった。母さんが私と祐を仲直りさせようと仕組んでのことならますます乗る気はないし、祐自身がこの前の発言を撤回したいならそうすればいいのに。


 ただ、祐と母さんがどんな話になったかは気になっていた。祐が学校に行ければいいとは思う。でもそれはきっと理想でしかないし、時間が経てば経つほど私が声高に叫ぶことじゃない気がしてるから聞けないだけで。

 なにはともあれ、

「『おばさんが』じゃないよ」

 言葉にすると俄然苛立ちが沸いて、私は母さんが隠しているちょっと高めのカップ麺を食べることに決めた。


 *


「という訳でね、認知症になっても手続きすれば、介護費用くらいは口座から引き出せる手続きがあるのよ」

「それが成年後見なんちゃら?」

「そう。でも時間かかるのよねー」

 母さんは「あんたがあたしに頼んだんでしょ」「後学のために聞いときなさい」と進展があれば状況報告を怠らない。私はスマホで一々調べつつ、母さんの話を聞くのが習慣になってきた。でも介護の補助金の手続きや法律の話になるとネットの情報も途端に難しくなる。私は分かったような分からないような気持ちのまま母さんに尋ねた。

「でもそれが認められれば、辰おじさんすごく助かるんだよね」

 そう思うんだけど、と母さんは深く肯いてから、今夜三度目のため息を吐いた。

「まぁーったく宮子さんも宮子さんだけど、辰も辰。変なとこで頑固なんだから。『やっぱりばあが嫌がってた金を勝手に使う訳にはいかねぇ』って車の中で突っぱねて、手続きするのに時間かかっちゃった」

「……辰おじさんらしい……けど」

「ね、らしいけど……よね。どうせ凍結されちゃうなら、と思うんだけどね。辰くんまだ納得できてないみたいだったし」

 認知症になったり亡くなってしまった人の銀行口座は、それが銀行に知られたら『凍結』するらしい。もし自分がそうなったらと考えると、せっかく貯めたお金がなかったことになるのは単純に嫌だと思う。

 母さんは缶チューハイを飲み干した。

「あ、紗世。母さんが認知症になってお金のことで暴れても、口座のお金は介護費用とかあんたのために自由に使っていいからね」

「う、うん……?」

「……って、元気な内にね、伝え合う必要があるんだなぁって思うわね。辰くんとこに首突っこんだらさ」

 どれ寝よっか。母さんは私の返事を待たず台所に缶を置きに行ってしまった。


 まだ八時だ。母さんのいなくなった茶の間では改めてテレビを点ける気にもなれなくて、スマホをテーブルに乗せたままスクロールしたりインスタを閉じたり開いたりして時間を潰してみる。でもやっぱりつまらな過ぎて部屋に戻ることに決めたそのとき、スマホが鳴った。

 こんな時間に着信? 番号は四二……。

 私は驚いてただ音を聞くだけの人になった。デフォルトの音楽がようやく鳴り止んでホッとしたのも束の間、またすぐ鳴り始める。

 祐?……もしかしたら辰おじさんかもしれない。いや、それはないか。あ、でも母さんが父さんと国際電話してたら繋がらないから、私にかけてきた可能性も否定できない。緊急の用じゃなかったら切ればいいよ、でももし祐だったら——。


 私は鳴り止む気配のないスマホの画面をゆっくりスライドして、恐る恐る耳に当てた。

「……もしもし?」

 しぃんとした間のあと。

「俺、だけど」

 祐の声は電話越しだと少し低くて別人のよう。

「何? 母さんに用?」

 そうじゃなかったら切る、そうじゃなかったら。

「お前に……紗世に頼みがあって電話、した」

 「紗世に」と名前を呼ばれた瞬間に起きた、恥ずかしさでも気まずさでもない正体不明の息切れで反応は遅れた。

「……頼みって」

「今からお前ん家、行っていいか?」

「え?」

「じゃ行くわ」

 待ってと言い切る前に、通話は切れた。


 そして祐は五分もしないでウチに来た。行儀よくインターホンを押して「こんばんは」と言って。

「あーら祐くん。お昼はご馳走さま」

「……っす」

 秒で部屋から出てきた母さんの声がニヤけている。茶の間で様子をうかがっていた私は嫌な予感が止まらず、ひとり変な汗をかいていた。

「紗世に用事? どうぞ上がって、そこにいるから。じゃ、あたしは美と健康のために寝るからおやすみー」

「っす」

 げっ、と立ち上がる間もなく、祐がスリッパを脱ぐ音がした。

 母さんなんで今日に限って寝るの早いの! 

 内心で悪態を吐いている内に、祐は当然のように茶の間に入ってきた。半膝立ちの状態で迎えた私は最高に面倒くさそうな顔をしていたと思う。祐も負けないくらいの顰めっ面で——。

「おじゃま……」

 でも目が合った瞬間、祐はビタンと手で顔を覆った。

 え、今すごい音した。

「おま、え……服着ろ」

 潰された蛙のような声。一拍遅れて自分の格好を見下ろし、私は奇声を上げた。

 キャミ一枚だった。今日は涼しいから一枚で過ごしちゃおー、と呑気な母さんの声が脳内でリフレインする。

「ば、ばかぁ! 何見てんの!」

 これだ、母さんのニヤけ声はこれだ。

「みて……いや見た。早く着ろ」

 正直かよ。



 だぼっだぼのダサすぎるクラスTシャツを着て出てきた私を上から下まで眺めてから、祐は「これ、頼みたい」と持ってきたらしいビニール袋を差し出した。

「何これ……なんで」

 まだ平常心ではないし、素直に肯ける状態じゃない。そもそも明らかに避けてられてる相手に頼むのか理解できない。

 そう言いたかったけど、私はただむっつりと黙った。

「お前、任せろって言ってただろ」

 透けて見えたのはカラーリング剤。

「……別に私じゃなくても」

「お前しか、頼む奴いねぇし」

 この通り。茶色のドーナツみたいな頭がこっちを向いた。確かに黒の面積が増え過ぎて河童みたいになっている。

「いるでしょ、誰か友だち……M高とかの」

「いねぇ」

 即答しないでよ。

 私はただいじけてるんだと、祐の視線を避ける。だけどそれは祐の意味不明な発言のせいで私は悪くない、そう思い直す。むしろ大人の対応をしてるし、関わるな的なことを言っておいて自分から関わる意味も分からない。母さんから言われてお昼に誘うくらいなら、仕方ないとは思うけど。

 ガザ、とビニール袋が音を立てて、祐が腰を下ろした。私の席の向かい側、一緒にご飯を食べるときの席。

「俺、休み明けからもう学校行かねぇつもりだった。前期に取れた単位なんてものの数にもなんねぇから」

 学校にも中退するって言ってあったし。祐は後ろに手をついて天井を見上げた。私は立ったまま。

「でも、おばさん……清子さんが俺ん家に金貸してくれるって。それでばあちゃんのペルパー増やして介護手伝ってくれることになった」

「母さんが?」

 聞いてなかった。お金のことなんて一言も。

「俺も親父もそこまではって言ったけど、清子さんに怒鳴られた」

 ハハハと祐が笑った。

「そんで考えて、できるだけ単位取って卒業するって決めた」

 だから、と祐はカラー剤をテーブルに乗せた。モデルの髪色は黒。

 頼む。下がった頭、黒いつむじ。

「染めんの手伝ってくれ。俺の決意が三月まで続くように」

 どうしてとは聞けなかった。私がするべきことだと思った。何もできなくて指を咥えていた私にできる、たった一つのことだと思ったから。

「分かった。やるよ」

「……マジ?」

 恐る恐るという風情で祐は顔を上げた。その顔にむかついて私の唇は尖った。どかりと自分の席に座った。

「自分で言い出しといて何それ」

「だってお前、ケッコー頑固じゃん」

「は? そんなこと言うならやっぱやめ」

「あー! 嘘うそ、今のなし!」

 大げさに慌てる祐が可笑しくて、たまらず顔を背けた。まだ怒ってる風を装ったけど、口元は変に歪んだ。でも祐は気づかなかったようで、

「悪かったって! な、もう染めてくれ。お前ん家の洗面所でいいか?」

 と、勢いよく立ち上がった。さっさと廊下に出ようとする。今度は私が慌てる番だった。

「き、今日はもう遅いし明日でよくない?」

 なんとなく母さんがいる家の中では気まずかった。仲良く髪を染めるところに登場されたくない。

「別に気にしない」

「私が気にする。ってか夜だと色が見づらいし……そのTシャツ、白いし汚れるかも。明日黒いの着てきてよ」

 あ? 自分の服を見下ろした祐は「こんなん汚れても」と振り返った。もう体は茶の間から半分出ている。

「気になるなら別に脱いでやればいいだろ。暑いからちょうどいくね?」

「ちょうどよくない!」

 なお悪い。

「……お前、顔赤いぞ。あ、もしかして俺の裸そうぞう」

「してない! いいから明日来て!」



 ◇



 洗面所に新聞紙を敷いて、きれいに洗ったお風呂の椅子を真ん中に乗せた。普通の椅子じゃ私の身長じゃ作業しづらい。でも洗面台に届くような丸椅子も廊下に用意した。母さんに相談したら風呂場で流したら色がつくから洗面台で、と教えられたのだ。

 ほら、やっぱり準備の時間が必要だったじゃん。

 言い訳じみた台詞を内心で呟きつつ少し乱暴に洗面台を掃除した。ニヨニヨする母さんの顔とか昨日の帰り際の祐を思い出してしまって、少し唸った。


 祐とは二時に約束していて、あと三十分。母さんは朝の内に「いいわねぇ。あたしも昔、染めまくったわぁ」と楽しげに出かけて行った。帰りは夕方になると言って。辰おじさんは今日は仕事だから母さんだけケアマネに会いに行くらしい。

 準備の完了した洗面所を確認してしまうとすることがなくなった。

 少し落ち着かない気持ちで茶の間でインスタを開いた。藍衣からまたチャットが来ていた。

『なにしてるの』

 珍しいな、と思った。藍衣はそういう干渉はしてこないキャラだと思っていた。

『これから友だちきて髪染めるよ』

 すぐに返事が来る。

『友だちって同中?』

『うん』

 最近は返事に時間がかかったり気づかなかったりして、人とだらだらチャットするのは久しぶりだった。いい時間潰しになるなぁ、と目の前の文字に言葉を返す。

『じゃあ明日も家?』

『うん』

『そっかー』

「紗世ー来たぞー」

 ピンポンと鳴る前に外から声がした。驚いてスマホを落としかける。

「今開けるから待って!」と声を張り上げて、藍衣には『友だちきた』『またね』と送った。

 玄関を開けると、無地の黒Tシャツを着た祐がいつもの調子で「おう」と言った。

 あれ、なんか違う。まじまじと見つめる私に、祐が眉根を寄せた。

「なんだよ」

「……髪切った?」

「ん、さっきな」

 さらりと短くなった毛先が眉をなぞるのを見て、どきりとした。

「変か?」

「い、いいんじゃない。前より頭良さそうに見える」

「あ?」

 私は背を向けた。前の祐の方がよかった、とシャツの裾を握った。黒の、まるでお揃いみたいな無地のTシャツ。

 視線が真っすぐ届くのが恥ずかしかった。

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