9-4

 バーテンダーの男から聞き出した次の店は、タクシーを使うほどの距離でもなかった。

「来たことが無い店だ」醸造所ブルワリーを模した煉瓦造りの建物と、赤や青色に輝くネオンサインを前に、神父のほうをふりかえる。「あなたは?」

「ありません」

「悪いが先に入ってもらえないか。なんというか――若向きの店のようだ」

「そんなことで怖気づくなんてあなたらしくないですよ、ノーランさん」

 神父は微笑わらって、臆することなくドアを押し開け、

「どうぞ」吸血鬼を招き入れた。


 軽薄なウエイターはほとんど有益な情報を持ち合わせていなかったが、その代償に神父は黒ビールをグラス二杯飲み干す羽目になった。

「この調子ですべての店を制覇するつもりですか?」

 三件目の騒がしいプールバーのカウンターで、神父は度の入っていない眼鏡をはずし胸ポケットにしまった。シルクのタイと第一ボタンはここまでのあいだに緩められている。琥珀色の液体がわずかに底に残るグラスと、朱をした雪花石膏アラバスターの頬が薄暗い照明を反射する。

「いつまでかかることやら――その前に私の肝臓がもつかどうか!」

「あまりうまくないな」

 通りに面した窓ぎわに並べられたビリヤード台では、若い男たちがキューの握りかたを教えるふりをして、連れの女たちがボールをこうと突き出した尻に腰を擦り寄せていた。

「もしかして――あの中に?」隣で神父の体がわずかにこわばるのが感じ取れた。

「いいや、いないな」

 神父がほうっと息をく。

 時計に目をやると、午前三時を回っていた。墓地が口をひらき、地獄がこの世に毒を吐き出す時間だ。

 名残惜しいが、今夜はそろそろ戻ったほうがよさそうだ――私が生き血を飲みたくなる前に。

 擦り切れたグリーンの羅紗ラシャの張られたテーブルの横を通り抜けざま、ブルネットの女がみだらに上半身をくねらせ、ために、白い手球があらぬほうへ飛んで行ったのが目に入った。周りからどっと歓声があがる。女はふりむいて、自分をくすぐった男の胸にキューを押しつけ、怒った――が、その口元は笑っていた。

 ゲームの終わったテーブルの上に放り出されていた、手垢のついたキュー・スティックを取り上げる。

 出口へ向かっていた神父が足を止めてふりかえる。

「どうかしましたか?」

「久しぶりの感触だと思ってね。――あなたは、経験は?」

「いいえ」神父は苦笑した。

「そうか。非常に技巧と――運を要する競技スポーツだよ。チェスのようにね」

 軽いスティックを台に戻し、神父と歩調を合わせる。

「あなたはどこで?」

「室内のテーブルで行われるようになってからは、まあ、ボストンの社交界では少し鳴らしたよ」

「――? 社交界でですって?」

「そう。あれは一八〇〇年代の――いつだったかな。ポケットプールとスヌーカーの腕はちょっとしたものだったよ。今でも衰えていないと願いたいが」酒とゲームをたしなみながらでないとできない話というのもあるのだ。

「――おいおい、どうしてそんな眼でこっちを見るんだ? 私がずるをしたとでも思っているのかね?」

 神父は肩をすくめ、やれやれとでもいうように頭をふった。

「その目で見るまでは信じない、というわけか。まったく、聖トマスのようだな。疑うならやってみせようか、なんならあなたも一緒に?」

 ご遠慮します、と生真面目な聖職者は言った。「たぶんあなたは、ご自分が勝つまで勝負をやめないでしょうから」

 

 アパートメントのバスルームで染料と当座の酒の臭いを洗い落とした神父は、髪を乾かすのもそこそこに、帰ると言い張った。

「このに及んで私があなたになにかすると思っているのか?」

 いかにも傷ついたような表情をつくってみせたが効果はなかった。

「あなたを信用していないというわけではなくて、聖務日課があるんです」

「一杯ひっかけてからミサをあげる司祭か。昔よく見たな」

 マクファーソン神父は私に向かって眉をひそめたが、一瞬後には笑い出していた。

「あなたが教会に――それもミサに?」

「そうだ」

 なにがおかしいのか神父はまた笑ったが、それは不快に感じるような調子ではなかった。つられてこちらまで笑い出しそうな。

 少しでも酔いを醒ますためか、帰り道、マクファーソン神父は助手席の窓を細く開け、夜風が洗ったままの髪をなぶるにまかせていた。自分によく似た殺人鬼か身代り幽霊センディング生き写しドッペルゲンガーが出歩いているかもしれないというのに、その横顔はどことなく気楽で、くつろいでいるようにさえ見えた。

 教会に着くまで私たちは話をしなかった。

「ではおやすみ、神父ファーザー

 神父はかるくうなずき、ドアを開けた。

「ああそうだ、忘れるところでした、私の靴のサイズは9.5ですよ」

「ええと、それはヨーロッパのサイズでいうといくつだ?」

 さあ、と神父は肩をすくめた。そして、おやすみなさい、ノーランさん、と言ってドアを閉め、意外にもしっかりした足取りで街灯の下を教会へと歩いていった。

 質素な黒いジャケットとスラックスのうしろ姿が教会へ消えるのを眺め――ひょっとしたらあの硬いベンチの上で懺悔の祈りがてらひと眠りするのかもしれないが――私は車をUターンさせた。これほど、夜が明けるのを惜しんだのは何百年ぶりだろうかと思いめぐらせながら。

 だが夜はまだ続く。それだけはたしかだった。

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