2-4

「落ちついてください、ノーランさん」

 マクファーソン神父のおだやかな声が福音のように耳に届いた。「あなたにお渡ししたもの、あれは魔女の血ではありませんよ」

「なんだって⁈」素っ頓狂な声が出た。「誰の血なんだ」

「私のです」

「なんだと⁈」

 安堵したのもつかのまだった。

「なんだってそんな馬鹿なまねをしたんだ⁈」

「ほかに誰の血を渡せというんですか」

「あの血の気の多いホット・ブラッド狼の仔のだとか――いや誰のだろうと構わない、あなた以外であれば!」

「ほかの人をこんな危険に巻き込めるわけがないでしょう。かといってなにも渡さずにすませるわけにもいきませんでしたし」

「わかっているならなおさらだ! あなたは私以上の大馬鹿者だ!」

「落ちついてください、ノーランさん」神父はくりかえした。

以前まえにあなたが言われたように、私の力の要因が純粋な純潔ヴァージニティにあると思われているのであれば、私はもう彼らの脅威とはいえないのですから、ふつうの一般人の血くらいの価値しかないはずです」

「……」

「それに、私が魔女なら、自分の弱みが戻ってきたら、すぐにそれを燃やすかなにかして葬ってしまうだろうと考えたのですよ。だから、うまくゆけばあれはもう彼女たちの手元どころか、この世にすらない」

「しかし――後生大事にしまいこまれてしまったとしたら、取り戻すことなど到底期待できないだろうが。あるいは万が一にでも勘づかれて……」

栗鼠リスが冬に備えて木の実を埋めて、そのまま忘れてしまうみたいにですか?」

 マクファーソン神父の笑い声は透明な響きを帯びていた。

「気づかれないまま封印されたのなら、これ以上安全な隠し場所はないと思いませんか? もし気づかれたとしても、双方が核兵器を持っているようなものなのですから、こちらにも火で戦うくらいの時間は残されているでしょう」

 ……本当にとんでもないことを言う神父だな。あの温厚そうな養父母と血はつながってはいないが、この聞かん気の強さホット・テンパーはたしかにエメラルド島生まれだろうと思わせるものがある。あるいは本当に妖精の取り換え子チェンジリングなのかもしれない。

「それにしても、ほかでもないあなたがそんなふうに取り乱すところが見られるだなんて。生きていると面白いこともあるものですね」

 マクファーソン神父は可笑おかしそうに言った。

(なんだとこの若造が)

 むかっ腹を立てたのも一瞬だった。

「……ああ、そうとも、私はどん底に到達したら底を掘ればいいと考えるようなイタリア人じゃないんだ、根っからのアイルランド人なんだ。たまに取り乱すぐらいなにが悪い」

「それに、私がそれこそ奇矯なふるまいを始めたら、そのときこそこれ以上おかしなことになる前に、ディーン――かあなたがすべての幕引きをしてくれるでしょうから」

「……私はそんなことに手を貸すつもりはないぞ」

 大体、これ以上おかしなふるまいとはなんだ。

 そこではっと思い至る。

「まさか――神父、あなたはあの薬を……」

「飲んでいませんが?」

 私は片手で目を覆った。

「――だったらなおのことだ! なんであんな愚かなまねを――」

「ノーランさん」思わず法衣スータンの肩に手をかけた私を神父は動じるでもなく見返した。

「あなたは単純な善意から他人ひとになにかをほどこす人じゃない。そんなあなたがあんな話を持ち込んでくるからには、それなりの理由があるはずだ。しかも告白できないような」

 生真面目なおもてに、ふっと微笑がうかぶ。

「かといってあなたは簡単に約束を破るような人でもないでしょう、今までいくらもその機会はあったんですから。がなにか困っているのならどうにかしてあげたいと思うのは、ふつうの感情ではないんですか? それくらいにはあなたのことを信用しているんですよ」

「それなら――」私は内心の当惑を押し隠して言った。「それにしてもあなたは無謀すぎる、はたから見ていても危なっかしい、もういい大人だろう!」

 マクファーソン神父は反抗期の少年のように、秀麗なまなじりを小生意気に吊り上げて反論した。

「ディーンみたいな小言を言わないでください。あなたの言葉を借りるなら、代金を支払ったのは私なんですから、あなたが気にする必要はない」

 大ありだこの愚か者め、と言いかけて、すんでのところで思いとどまった。真に愚かなのはこの私だ。聖と邪のあいだで驢馬ロバのようにふるまって、結局なにひとつ手に入れられず……。

「……ノーランさん、離れてください」

 神父の言葉に、それほど強くつかんでいたかと我に返る。

「これは失礼した……どうした、神父?」

 彼がこちらの手をふり払い胸を押さえたので、それこそ心臓でも焼かれたかと悪寒が走る。

 言ったそばからこれだ。知る限りのあらゆる罵詈雑言の半分で淫乱魔女とド外道の人狼を、残り半分で強情な神父を呪いながら、おそらく自動体外式除細動器AEDは効果がないだろうと頭を巡らす。魔女の血を探し出して燃やすほうが早いか、あるいは――……

 神父がもがいて、支えようとした私の腕の中から抜け出した。

「動けるのか?」

「それ以上近づかないでください」

 スータンの喉元を片手でつかみしめ、険しい表情で、もう片方の手でこちらを牽制する。

「一体どうしたというんだ。私がなにをしたと――」

 神父が側廊の柱の陰に逃げ込んだのを追う。彼がよろめいたので、そらみろ、言わんこっちゃないと腕を伸ばして抱き止めると、弱った蜂鳥ハチドリがこちらの胸の中に転がり込んでくる形になった。

 香ではない匂いがはっきりと嗅ぎとれた。

「大丈夫か?」

 とは言ったものの、大丈夫ではないのは私のほうだった。

 神父は身をこわばらせてこちらを凝視みつめている。いつもならば聖句を口にする唇はかたく引き結ばれているが、その深い蒼玉サファイアブルーの双眸が雄弁に物語っていた。

 古来比類なき甘美な瞳に宿るのは――紛れもなく情痴の炎だ。

 これ以上どこかへ飛び去られる前に、神父を石壁に縫い留める。

 衝動のまま噛みつくように口づけると、やわらかな唇が誘うようにそっとひらかれてこちらを招き入れた。

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