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「そうだ。坊やに渡したあの録音を聞いていないのか?」

「そう言われれば、ディーンの家で……ですが雑音がひどくて、私の耳には……」

 しまった、あの人狼を殺すのではなく銀の鎖で縛りあげておくべきだった。そのほうが苦痛も長引いただろうに。

 そこで私はあのとき聞いた限りのことを彼に伝えた。

「……なんてことだ……」マクファーソン神父は額に手を当ててうつむいた。

「まだ方法はあると思うがね」

「……どんな方法ですか。先ほどあなたは解毒方法は知らないと言われた」

「ああ。直接の解毒方法は私も知らないが」

 神父の蒼ざめたおもても美しい。

「あの人狼が言ったように、あなたの力の源が純粋な純潔ヴァージニティにあるとやつらが考えているなら、その心配は無用だろう。自分ひとりではおさまりがつかないというなら、今ひとつの方法をためしてみるかね? 私は喜んで相手になるよ」

「ノーランさん……?」

 手を伸ばして法衣の喉元の釦をひとつはずすと、神父の喉から、小さなしゃっくりのような声が漏れた。

「なんだったら『ヨハネ伝』を唱えていてもらっても構わないよ」それで多少頭痛がしようが安い代償だ。「少々色気には欠けるかもしれないが、それはそれでなかなか背徳的だからね」

 もうひとつ釦をはずしても彼は逃げなかった。もちろん術をかけてはいない――このくらいで腰が抜けたわけでもないだろう、悪魔に説教する男が。

「べつによこしまな気持ちから言っているわけじゃない」

 我ながらおかしくてしかたがなかった。また告解のリストにひとつ追加しなければ。一体いつになったらこのTO DOやることリストはすべてに線が入るんだ?

「あなたは病人クライアントで、私はセラピストだとでも思えばいい」なにやらそんな話があったな。

 釦は五つ目。初夜へのおそれと期待に胸を高鳴らせている花嫁のコルセットの紐を解くような面白さだ。全部はずす前に私が祓われるか、神父がすべてを委ねる気になるか――これは賭けだな。

 私は彼が堕ちてくるのを望んでいるのか、それとも崇高さを保って聖と俗のはざまで苦しむのをはたで眺めていたいのかはかりかねた。以前口にしたとおり、たしかにどちらに転んでも私に損はないが。

 黒い法衣の下の白いシャツに手がかかる。

 肩口、くっきりした線を描く鎖骨の下、それから日に焼けていない胸先にも、縫合ときずのあとがいまだ色の濃い線となって生々しく残る。

 指先でなぞると、その下の筋肉がかすかに反応するのがわかった。

「あのケルベロスときたらとんだサイコパス野郎だな。無抵抗のあなたにこんな――」

「抵抗したんですよ」

 思わぬ言葉に私は手を止めて視線を上げた。

「まあまったく歯が立ちませんでしたけどね。それでも、私にもささやかな自尊心プライドというものはあるわけですし――……」

 喉の奥から笑いが込み上げてきた。

「やっぱりあなたは私が見込んだとおりの男だよ。地獄と面と向かうときには、ぜひともあなたと一緒にいたいものだ。それに、」中断していた開封作業を再開する。「ということは、私にも多少の望みはあると思っていいんだろうね?」

 あらわになった傷跡に唇を寄せると、頭上で慌てふためく気配が伝わってきた。ジャケットの肩先をつかまれたがなにほどのものでもない。

 つかまれたのを幸い、体をひねって重心を移動させると、不意を衝かれた格好のマクファーソン神父は床に倒れ込んだ。こちらも彼に覆いかぶさる体勢になる。石の床は冷えるはずだが、ちょうど身廊に敷かれた絨毯カーペットの上だったからそれほどでもあるまい。

「ノーランさん、こんな方法が本当に効果が、それにその、誰かに見られでもしたら」

 下手な言い訳だな。

 神父の手はまだ私のジャケットをつかんだままだ。それが唯一の命綱ででもあるかのように。

「私は全然気にしないよ」往生際の悪い神父の首筋に軽く歯を立てながら言う。

 紅潮したはだからあの特徴的なかおりが一層濃く、ふわりと漂い、牙が疼く。ついでにべつの場所も少しばかり。が、ここは我慢のしどころだ。「そんなことはどうとでもなる」

 さすがに、敬虔な老人をショック死させたりするのは望まないだろうし、あの坊やにでも見られたら私も無傷ではすまないだろうが。

 数えるのも面倒くさくなったスータンの釦を一気にはずし、スラックスに手をかける。

 これにはさすがに廉恥心か信仰心か、まあなにかそんなものがよみがえったのだろう、片肘をついて体を反転させ逃げ出そうとするのを片手で抱きすくめ、上半身にまとわりついているものを引き剝がす。美しい生贄は腕の中でじたばたした。

 美しいが従順で阿呆な(神)学生を弄ぶのとは手応えが違う。相手はその気になればこちらに反撃できるし、死んでいる獲物より生きて動いている獲物のほうが楽しいのはまちがいない。

 蠟燭の光の下にあらわになった白くなめらかな肩や背にも、あの狂犬が刻みつけた屈辱の痕跡――そのうち最も腹立たしいのはやつのくっきりした牙のあとだ――が消えずにいる。

「これを目にしたらあの哀れな坊やはまた半狂乱になるだろうな。まだ痛むのか?」

「ディーンにはそんな――ッ」

 唇と舌の愛撫に神父が声を嚙み殺す。嫌悪で嘔吐をこらえているような感じでもなかったから、

「声を出すなら遠慮なく出してくれ。古女房を相手にしているんじゃないんだ、反応がないと加減もできやしない」

「……ノーランさん、その、あ、あなたに触れられたところが熱くて……」

 熱い? 私の体温が百℉〔38℃〕を越えることなど、火葬にでもされない限りあり得ないことなのだが。

 それにしてもこの状況でまだ「ノーランさんミスター・ノーラン」などと言える精神力は大したものだ。この気をそそる唇から、説教以外の言葉が漏れるのを聞いてみたくなる。できることなら歓喜のいただきで名を呼ばせたいものだが……。

 こちらをふりむいた神父のおもては、目尻から、真珠貝のように薄い耳朶まで淡い色に染まっている。未だ理性と情欲のせめぎ合いといったところか。

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