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「相変わらず不用心だな、神父」

 声をかけると、信徒席の最前列でひざまずいて祈っていたマクファーソン神父が驚いた顔でふりむいた。

「……ノーランさん」

 夜の十時ともなれば、住宅地にある教会に祈りに訪れるような酔狂な人間はめったにいない。実際、聖堂には神父ひとりだった。

「てっきり司祭館のほうへいらっしゃるかと、それで今戻ろうと」

「外を通ったら光が見えたのでね。あの坊やは鼻が鋭いし、納骨堂がお嫌いなんだろう。だったら聖堂ここでいいじゃないか」

 内部のあかりといえば祭壇と側廊の燭台でゆらめいている蝋燭の炎だけだが、ヴァンパイアの目にはじゅうぶんな光量だ。

 私は神父のほうへ歩み寄った。

 こんな時間だというのに彼は長衣スータン姿で、ボタンを襟元まできっちり留めている。

「誰も来ないとは思うが――告解室のほうがいいかね?」

「あなたは閉所恐怖症なのでは?」

「方便だよ」にやりと笑うと、神父は苦笑した。

 彼と並んでベンチに腰かける。

 蝋燭のほのかなあかりに照らされて、マクファーソン神父の白い頬は普段よりいくぶん紅潮しているように見えた。

 事態が急を要すると言った割には、彼はなかなか話の口火を切ろうとしない。

「さて、なんの話だったかな、神父。夜は短いんだ。困ったことがあるなら私ではなくフランチェスキーニ司教に頼るようにと言ったじゃないか」

「こんなこと、さすがに猊下には言えませんよ」

「こんなこと?」

「だってその……猊下はもうお齢ですし、時代背景を考えると……それにもちろん貞潔の誓いを守ってこられたかたですし……」

 なんとなくごとの察しがついた。おそらくあの、年中発情しているような坊やの情操教育――というかしつけの問題だろう。

「ええと……あなたはたしかお子さんがいらっしゃらなかったんですよね……最初の奥様とはその……貞節を保っていらした?」

「たしかに。最初の妻は体が弱かった」

 もともとそういう女を選んで妻にしたというのもあるが。

 だが私はべつに修道士でもなんでもないし、この、奇妙な安堵の表情をうかべている品行方正な聖職者をさらにまごつかせてやりたくなってきた。

「誤解してもらっては困るんだが、私が聖書に詳しいからといって、聖書おしえに従っているわけではないよ。むしろ逆だ。最初の妻がだったから、私は結婚してこのかた、聖書で禁じられている方法ばかりとってきた」

 マクファーソン神父の顔がさらに赤くなった。

「そうか、まだあなたには告白していなかったな。なにしろあなたの見解に従えばべつに罪にもならないようなことだし――かといって赦しを得るために必要だというなら、逐一詳細を告白するにやぶさかではないが」

「……ノーランさん!」

「なんだね。そんなに大声を出さなくても聞こえるよ。まだ耳は遠くないんだ。私をいつの時代の生まれだと思っているんだね。たしかに生地せいちはアイルランドだが、人生の三分の一をイタリアで過ごした。それもアレクサンデル六世とその“甥の枢機卿”がイタリア半島中を席巻していたときにだよ」

 悪徳が美徳とともに最も輝いていて、ニューヨークが未だ影も形もなく、バチカンが現代のバビロンだったあの時代!

「だからあなたがあの坊やの素行に悩まされているのなら、私が人生の先達として、悩める青少年に穏便な解消方法を」

「ノーランさん、問題を抱えているのは彼ではなく私なんです」

「……あなたがなんだって?」

 ついに耳まで悪くなったのかと思った。

「……ですから、私の問題なんです」

 マクファーソン神父の表情かおははじめての告解を前にした少年のようだった。

「……失礼だが、私はあなたのことを、分別のついた老人のように思っていたのだけれども」

「それは……その、こうしたことはべつに誰かと比べるようなことでもないのでしょうから……。幸いにして私はこれまでこの種の問題にはそれほど悩まされずにきましたよ、その、医学生理学的な意味では」

「それがどうしてまた今になって――まさかあの坊やにほだされでもしたのか?」

「いえ、彼は関係ありませんが」

 生真面目なおもては取り繕っているようにはみえなかった。

「ではなんだというんだ。あなたの口からは言いにくいというなら、今一度術をかけてしゃべらせてやろうか? この前は失敗したが、再挑戦してみる価値はあるだろう」

 神父はひきつったように言葉を吐き出した。

「そのっ……つまりですね――一度してしまうと、欲求を抑えることができなくなってしまうものなのかということをお聞きしたかったんですよ!」

「……それは人によるだろうな」

 私はいささか間の抜けた答えを返した。

 神父は肩を落とし、恨めしげにこちらを見た。膝の上で祈るように両手を組んでいる。

「……ええ、おそらくそう言われるのではないかと予想はしていましたが……私の周囲まわりで、私に本当はなにがあったのかを知っていて、かつ聖俗両方の側面からなにがしかの見識をお持ちなのはあなただろうと思ったのですが……」

「評価してもらえて有難いね、と言うべきなのか?」遠回しに嫌味を言っているんじゃなかろうな? 

「しかし、いくらなんでもそれだけではわからないよ。それに、経験するといっても、あなたの場合は」

「……そうです」神父はくらい顔になった。「ですから、使われた薬物の後遺症――中毒だろうと考えたのですが、覚えている範囲では長期乱用とはいえない頻度でしたし、血液検査だって異常はありませんでしたし、それにもともと亜硝酸アミルはそれほど中毒性の強いものでは――」

 私がそれはなにかと尋ねると神父は説明してくれた。なるほど、一種の媚薬カンタリスのようなものか。

「それでどうしたというんだ」私は事務的な口調でいた。

「……ですから、その、どうにもおさまりがつかなくなってしまうんですよ……器質的な意味ではなくてですね。昔ながらのお茶も試しましたがなんとも……。自分ですると少しはおさまるのですが……」

 ――自分でする? 私は再び耳を疑った。

 神父の美しい顔は羞恥で朱に染まっている。私はまたこの男の評価を誤っていたらしい。

 当惑が顔に出ていたのだろう、

「それは、だからその……男性生理としてはやむを得ないことではないですか、ほかの手段ではどうしようもないときには」

「……これは私の時代感覚を早々にアップデートする必要があるようだな」

「それに、聖書の記述は神の命令に背いたことを言っているのであって、その行為そのものでは」

「神学者の名をもらっているあなたと聖書談義をするつもりはないよ」

 と言うと、彼はほっとしたような表情をみせた。

「そんなようなわけですので……これがふつうのことなのか、それともいわゆる正常の範囲からはずれているのか、一度あなたにお尋ねしてから、なんとか解決策を……」

「冷水を張った桶に飛び込むか、あるいは下穿きパンツの中にイラクサを詰め込むかだな」

「……私は真剣に相談しているのですが?」

「私も大真面目に答えているのだが?」

 私の生きていた時代に推奨されていた方法はそれだった。まあ実際に股袋ブラケッタに詰め込んでいたのはべつの物だが。

「大体、ひとを好色家カサノヴァみたいに言わないでもらいたいな。魔女の薬の解毒方法なんて私も知らないぞ」

「魔女の……薬?」マクファーソン神父は絶望的な表情になった。


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