10-2

 あたしが聞いたのは、そいつがべつの店に行こうって誘ってたこと、とかの女は言った。

「なんていう店?」

「うーん、なんかヘビとかトカゲみたいな名前の」

「……?」

「それでシェイマスに聞いてみたんだけど、自分でもあんまり近づきたくないトコだってさ」

 カウンターの端でべつの客の相手をしている太鼓腹の中年男を指さす。ほう、ということは、この店にもアイルランドらしいものが少なくともひとつはあったわけだ。

「その店はどこにあるって?」

 娘は早口で通りの名前を口にし、

「裏の通りを西に二ブロックぐらい行ったとこ。シェイマスが言うには、そのビルの上はアパートなんだけど、誰が入っても全然居つかなくて、今じゃ電気もついてないって」

「薬物中毒者の多い地区ではとりたててめずらしいことではないな」

 私が口を挟むと、

「そりゃね。けど、家賃が払えなくて夜逃げしてホームレスになったりするならともかくさ、家財道具そっくりそのままでその日のうちに部屋の主がいなくなるとか、ちょっとふつうじゃないだろ、なんか幽霊屋敷みたいで」

「ふうむ、たしかにそれは健康的な西部の街には似つかわしくない話だな、ありがとう、お嬢さん」

 安全で適切な個人的空間パーソナルスペースを踏み越えてしまったことに気づいたのか娘はわずかに身を引こうとした。が、時すでに遅しだ。

 凡庸な胡桃色のが、痴愚のように薄ぼんやりと曇る。先刻までぽんぽんと言葉を吐き出していた唇は、なにかを舌にのぼらせたまま動きを止めた。

「こちらはもうじゅうぶんだ。ほら、君のシェイマスが、ここを片づけてほかの客の相手をしろと言っているのではないかね?」

 それを合図に、娘はまだ中身の入っているタンブラーを我々の目の前からひっさらい、そのままシンクへ流した。そのあとはこちらに目もくれようとはせず、ふたつ隣でビールをあおっている労務者風の男と、その肩にしなだれかかる厚化粧の娼婦おんなの相手をしに戻った。

 私は目を見開いている神父に向き直った。

「さ、おいとましようか」


「彼女になにを?」店の外に出てすぐ、マクファーソン神父は怪訝な面持ちで尋ねた。

「なに、大したことじゃない。あなたと私が今夜この店を訪ねたこと、それからあなたと見紛う男が冴えない中年男と一緒にいるところを見たという記憶を消させてもらった」

「なぜそんなことを?」

 彼はいささか憤慨しているようだった。今夜は酒を口にしてはいないのに、白い頬が紅潮しているのが夜目にもわかる。

「もし私の聖職者としての名誉を守るためだとしても、彼女は人違いだったと言っていましたし、話を聞き出すためならまだしも……他人の記憶を断りもなく消したり作り変えたりするなんてそんな」

「そんなにカリカリしなさんな」この千変万化の様相を見せる実直な聖職者がなぜ腹を立てているのか手に取るようにわかったが、真剣にとりあう気にはなれなかった。

「遠からず人はあらゆるものを忘れ、あらゆるものは人を忘れてしまうのだから」

「あなたは自分だけが一万年も生きるとでも思っているんですか」

 ほほう、これではからずも神父がローマの古典にも通じていることが明らかになった。望外の収穫だ。

「ふむ。それも悪くないな。高名なユダヤ人物理学者によれば、美人と話をしていると一時間は一分にしか感じないそうだから、あなたと一緒なら最後の審判までは退屈せずにすみそうだ」

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