2-2

「今日はなにを読んでいるの、ドミニク?」

 いつかのカフェの軒先で、聞き慣れた声がした。

「『L’Anglais décrit閉ざされた城の dans中で le château fermé語る英吉利人』」

 ペーパーバックの表紙を掲げてみせると、リベカは満足そうに両の口角を吊り上げた。

「ほんとうにあなたはヘンタイね」

 魔女に、それも日本語で言われると自分が堕ちるところまで堕ちた気がするな。

「それで――本当なんでしょうね?」

 リベカがチップを払ったところなど一度も見たことがないが、上得意の常連ででもあるかのようにすっ飛んできたウェイターを、彼女は手のひと振りで追い払った。

「本当だとしたらたっぷりはずんであげなくちゃ」

「誰にだ」

「あの坊やによ」べつのテーブルに給仕している若いウェイターの締まった尻を指さす。

 ……やれやれ、魔女の目に留まったら最後、いいように使われたあげく蛙に変えられるのが落ちだろうに。

 まあいい、とにかくさっさとすませてしまおう。皇帝カエサルのものはカエサルに、だ。

 丸めた白い布切れの入った円柱形のガラスケースをテーブルの上に置く。

『これは?』わざと尋ねると、マクファーソン神父は硬い表情で、

『渡せばわかります』とだけ答えた。

 リベカは薬物中毒者のようにさっと手を伸ばして容器を引き寄せ、蓋をあけて中を一瞥した。その唇に笑みが広がる。

「たしかに頂いたわ」

 ブツは赤いシャネルのハンドバッグにしまい込まれた。

「約束を忘れてはいないだろうな」

「もちろんよ。――その前に乾杯させてね」

 声がかかるのを今か今かと待っていたらしいウェイターは、彼女が指一本あげるどころか視線を動かしただけで駆け寄ってきた。

「喉が渇いているの――わ」

 魔女が本気で誰かを誘惑しようと思ったら、哀れ人間の男に逃れるすべはなきに等しい。股間に蹄鉄を打ちつけておくわけにもいかないしな。

 ウェイターは風のように店の奥へ消えた。

 あっというまに運ばれてきた赤ワインで唇を湿らせ、たっぷりのマスカラで強調した長い睫毛を思わせぶりに持ち上げてこちらを見つめ、

「ドルイドだってことは言ったわよね」

「ああ」

「今のあなたと同じ時代にいることは確実」

「ということは生きているんだな」

「そうね」水晶占いでもしているかのように、ガラステーブルの天板を片手で撫でる。

「それでそいつは」

「今世は人間よ、幸運ラッキーなことにも」

「どこにいるんだ」

 たとえシベリアの奥地、ヒマラヤの麓、マサイの集落にいようが、居場所さえわかれば必ず見つけ出してやる。

アメリカ合衆国このくにに」

 魔女は一語一語をわざとゆっくり発声した。

 テーブルの上に載せていた片手の爪が伸び、ガラスにこすれてきしみを立てる。目の前の女に気取られたくはない。

「この国のどこに」

「そこまではわからないわ」

「なぜだ」

「だってアメリカ人というのはしょっちゅう移動するものでしょう? 幌馬車に乗って――あらトレーラーハウスだったかしらね、まあどっちでもいいけれど」

「君は魔女だろう、占いのひとつもできないのか」

「できなくはないけれど、わたしの得意分野はそっちじゃないの」彼女の一挙手一投足に注目しているウェイターに向かって素早いウインクを送る。

 この淫魔サキュバスめ。

「中国とかインドじゃなくてよかったのじゃない?」

「御託はいいからさっさと話せ。そいつは男か女か? 何歳だ? 名前は?」

「ずいぶん性急せっかちねえ。何百年も待ったんでしょう、数分くらいがなんだっていうの。そんなにいっぺんに求めないで頂戴、あんまりと嫌われるわよ」

 そのよくしゃべる口を縫いつけてやりたい。魔女はまたワインをひと口飲んだ。

 それから順番に指を立て、

「性別でしょ、年齢、名前、それにもうひとつ親切につけ加えるなら人種なんかもご入用かしら? 外見の特徴もわかれば最高かもしれないけど――残念、わたしはそんなことぜーんぜん知らないの」

 頭の悪い女子大生のような口調で、

「だって、わたしたちのご主人様が、そこまで教えてくれなかったから」

 テーブルの脚が歯ぎしりに似た音を立てた――おそらくは私の奥歯も。

「……それだけの情報でどうやってそいつを探し出せというんだ」

「あら、あなたがお目当ての人物を探そうが探すまいが、わたしたちにはなんの関係もないわ」リベカは鼻で笑った。

「わたしたちはあなたの知りたがっていたことのうち、わたしたちが知っているだけのことを教えたの。フェアな取引だわ。最初に契約条件を確認しなかったあなたが悪いのよ」

「なんだと⁈」

 魔女は蛆虫でも見るような目でこちらを見た。

「それにあなたもじゅうぶん愉しんだんじゃなくて、ミスター・ノーラン? この際ですから言わせてもらいますけど、大体あなたのやりかたは自分勝手で強引なのよ、それで女が悦ぶとでも思ってるの?」

 誰に向かってものを言っているんだ、それが私の上でよがっていた女の言うことかと喉元まで出かかったが、公の場で暴露するにはあまりにセンシティブな話題だと前頭葉がブレーキをかけた。

「――リベカ!」

 立ち上がってつかみかかろうとする前に、

「やめて!」彼女は熱い瓦屋根の上の猫のように飛び上がって鋭い叫びをあげた。

「それ以上わたしに近づいたら警察を呼ぶわよ!」

 ハンドバッグをしっかり胸の前に抱え、自分おのれの両腕をかき抱いてあとずさる。迫真の演技だ。

 警察がなんだというんだ――いかにも恐怖におびえたような顔をして、このあばずれが! だから久しぶりに外で会おうとか言ったんだな、こうなることを予想して!

 その気になれば私を火炙りにできる女権拡張論者フェミニスト女悪魔リリスが、無力なイヴみたいにふるまってみせるなど――お笑い種もいいところだ。

 だが今は中世ではないから、公衆の面前で好き勝手に女をひっぱたけるわけもない。しかも自分の妻でもないのに。

 四方から疑惑の視線が注がれているのを感じる。くだんのウェイターなどスマートフォン片手にいつでも通報せんばかりの構えだ。叫喚追跡が義務だった暗黒時代並みに、アメリカ人は女の悲鳴に敏感に反応するときた。この人数を幻惑するのはさすがに手に余る。

「あなたとはこれきりよ、

 まるで別れ話でもしていたかのようにやつは言って、勘定書をさっととり上げ、ハイヒールの靴音高くそのまま足早に歩み去った――まったく、最後までひとを礼儀知らず扱いしやがって!

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