Irresistible

3-1

 俺はすぐにクリスのほうをふりかえった。

 いつもだったらさっさときっちりボタンを留めちまうのに、クリスは座り込んだままぼうっとこっちを見ている。まさか血を吸われすぎて貧血で立てねえなんていうんじゃ――

 急いでそばに寄ると、クリスは俺の顔を見て微笑んだ。

 それは魂が雲の上クラウド・ナインどころか宇宙にまで飛んでったかと思うくらい、骨がぐずぐずに溶ける(その一方で、べつのとこが硬くなっちまうハード・オン)ような微笑みだった。日向の雪だるまスノーマンみたいに変身が解ける。

「クリス……」

 立てないんなら支えてやろうと思って膝をついた俺に、

「どうしてそんなに怒っているんだい、ディーン? べつに彼は私を傷つけようとしていたわけじゃない。としていただけだよ」

 それを聞いて俺は全身の血が逆流して耳から噴き出すかと思った。

 これは夢じゃない。目の前のクリスからはリキュールみたいな、熟した果物フルーツに似たすごく甘くていい匂いがしてるし――夢魔でもない。夢魔なら教会に入ってこられないはずだもんな。

 けどゼッタイ正気じゃない。

「私がなったらしてくれるという話をしていたんだよ。そこへお前が飛び込んできて」

 あのクソ野郎バスタード――奥歯が勝手にキリキリいう。お前がしたんじゃねえか。

 野郎のねちっこいキスのせいでか濡れて紅くなった唇を、クリスはたしかめるように指先でなぞって、舌先でぺろりと舐めて、また俺に向かってにっこりする。まだやつの術が解けてないなんて、あいつガチで本気出しやがったんだな。クリスの守護天使――ってのがいるんなら――は一体なにしてんだよ! まったくやつらときたら、毎度毎度、クソの役にも立たねえな!

「だからお前が心配するようなことはないんだよ、ディーン。彼は心優しい正しい位置に心臓があるからきっと――なんならお前でもいいけど」

「あいつに心臓なんかなかったのあんたも見てるだろ!」

 クリスは俺に触ってもいないのに、その声はビロードの手袋みたいに俺の耳を撫でた。夢魔にされたときの数倍、下っ腹にクる。狼になったときも有難いことにスウェットは脱げなかったから、ゆるい生地が股間の突っ張りを隠してくれてるはずだ。

「ディーン?」

 説教用でもふつうでもない、ちょっと喉にからんだ甘い声が俺を呼ぶ。

 こんなふうに名前を呼んでもらうのを望んでた――こんなチャンス、マジでない。だってクリスからユーワクしてるんだし俺は十六歳以上だし、なにも問題はないはずだ(そうだろ?)。

「クリス、俺……」

 俺の声も同じくらい喉にからんでいた。はだけたスータンのボタンに伸ばした手も、情けねえことにアル中のジジイみたいにふるえてる。クソ、しっかりしろ俺!

 スミスのばあさんがしてたように、ていねいに、スータンとその下のシャツをゆっくり剥いていくと、隠れてた肌の上のまだ色の濃い傷痕がいくつも目に入って、熱くなっていた頭に冷や水をかけられた感じがした。

 今も血が流れている傷口を手当てするみたいに、指先でそっと触れる。

「これ……触ったら痛い?」

「いいや」クリスはうっすら笑った。「むずがゆいだけだ。感覚がないところもあるから、されても平気だよ。それとも、傷だらけなのは嫌かい? 彼は気にしなかったよ」

 そのセリフにゾッとした。

 やっぱどう考えてもおかしい。マトモじゃない。

 直前に言ったこともひっかかる。

 俺“でもいい”ってなんだよ。まさかとは思うけどほんとはあいつのほうが好きで、俺は手近にいるから利用するだけのついでかよ。あいつのほうがオトナで、ケイケン豊富だから?

 いくらアルフレッドが俺をべつの群れのαアルファだって認めてくれたとしても、クリスあんたにとっては俺はまだ独り立ちもしてないガキだから――?

 クリスは夢でも見てるか悪いクスリでもキマってるみたいな感じで、相変わらずとろけるような微笑みをうかべながら、俺のその……えーとあれだ……ふだんだったら絶対口にも手も出さない部位ところを、服の上かららすように撫でている。敏感なをくすぐられて、思わずヘンな声が出そうになる。

 クソ、想像したくないけどあいつにもこんなふうに触ったんじゃ――てゆうかあいつがムリヤリ触らせたんじゃねえだろうな、あの変態! エロジジイ! 今度という今度は絶対許さねえ! 殺さないまでもあそこで去勢しとくべきだった! どうせ使いみちなんてねえんだから!

 こんな状態で「待て」をするのはめちゃくちゃきつかったし、俺の息子は父親オヤジの意向を完全にムシしてたが、おふくろの銀のたてがみにかけて、俺は狼男だけどレイプ魔じゃないし、あきらかに様子が正常ふつうじゃない相手につけこむほど人でなしでもない。

 もしクリスが正気に戻って俺のしたことに気づいたら、道はふたつにひとつだ。怒って俺を追い出すか、すごく後悔して自分を責めるか。そのまんま二回戦目になだれこむってのは分子レベルでありえない。それに、あいつのおこぼれをもらうのもなんかシャクだ。

 けどどうしよう。ぶん殴って目を覚まさせるわけにもいかないし(手加減がむずかしい)、俺は悪魔祓いのお祈りなんか知らないし……。

「――ちょ、わ、待ってよクリス、どこ触って……!」

 考えて気を抜いていたらいつのまにかこっちが押し倒されていた。

「なにを考えているんだ?」

 俺の太腿にまたがって、腰のあたりまで脱げかけていたスータンを全部取っ払い、うっとり目を細めて舌なめずりする。シャツも半分以上はだけてて、形のいいへそと、その下に続く金色のうっすらしたくさむらまで見える。

 夢にまで見てたすげえエロい眺めだけど――え、まさか俺がソッチなの⁈

 そりゃ妄想シミュレーションならともかく、俺は全然ないし、相手がクリスならそれでも良――いやちょっと待て、落ちつけ俺、がそれで本当にいいのか⁈

 俺はあわてて自分の体をクリスの下から引っぱり出し、正面扉に駆け寄った。

 入口の脇にある石の台座の上の、帆立貝の形をした器を持ち上げる。こぼさないように注意しながらそのままクリスのところへ戻ると、中身を頭からぶっかけた。

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