9ー2

 仕方がないので教えられたとおりバスルームへ行き、鏡の前でワックスを手に取る。こういうものを使った経験がないので勝手がわからず、いつもは額の両横に流している前髪も、染めるついでに全部上げる形にした。

「天使が堕天使になったみたいだな」

 手についた整髪料カラーリング剤を洗い流して顔をあげると、すぐうしろに――いつのまに入ってきたんだ、足音もしなかった!――ノーラン氏が立っていた。

「――びっくりさせないでください!」

「失礼した。映っているからわかっていると思っていたんだが」

「――え?」

 ふりむいて、実体と、鏡の中の姿を交互に確認する。

 黒に近い濃紺のダブルのスリーピース。ジャケットの色を反射したようにアイスブルーにも見えるシャツのボタンをひとつあけた首元には、同系色のシルクのスカーフ。

「吸血鬼は鏡に映らないと思っていたのか? ――ブラム・ストーカーの功罪は大きいな。じゃあ一体全体どうやって髭を剃れというんだね、従者ヴァレットもいないのに?」彼は鏡の中で片目をつぶってみせた。

「さあ、今度は私の番だ」

「あなたが? なにを――」

「よく見ているといい」

 両の肩をつかまれ、鏡のほうを向かされる。

 やわらかなクリーム色のタイルに反射する光の中で、曇りのないガラス板に映るノーラン氏の顔貌かおかたちは、まるで年月の変化をスローモーションで投影しているかのように、肉眼でもわかる速さで、ゆっくりと変わっていった。

 三十代のように発達していた顎の筋肉が落ち、頬がこけ、鼻翼から口許にかけて細く深い皺が刻まれる。もともと血色の悪い薄い唇はさらに色を失い、青みを帯び、酷薄そうにさえ見える。灰色がかった金髪は、それこそ染料を落としたように、いまやほぼ色褪せていた。首も細く、皺が寄り、喉仏が木のこぶのように突き出す。

 それは肩に置かれた手も同様で、皮膚はつやを失い、乾いて、関節の形がはっきりわかるほど骨ばっていた。

 秀でた額と、肉が削がれ一層目立つようになった薄い鼻梁の両脇の灰色の双眸だけが、面白そうに炯々けいけいと輝いている。

 言葉を失っている私に、

「――驚いたかね? こうしてみると、記憶の中の祖父そっくりだ。私は母親似だと言われていたんだが」

 声までが老人のように少ししわがれていた。養父ちちよりずっと年上に見える。

「ここまでは前準備だ」

 リビングへ戻ると、

「ちょっとこれを試してみてくれないか」

 彼はテーブルに置いた先ほどの箱を押しやった。

 開けてみると、中に入っていたのは、光沢のある黒のツーピースだった。ジャケットはシングルで、光の加減でストライプにも無地にも見える。

 気を遣ってか彼がその場を離れたあいだに、シャツからズボンパンツまで一式を着替える。シャツ一枚とっても生地の手触りから、かなり上質なものなのがわかる。それに……

「必要以上に華美ドレッシーではありませんか?」

 あつらえたわけでもないのに、脇から腰にかけての裁断ラインが絞られている気がするし、ズボンも細身だ。

 体をひねってみる。べつに動きにくくはないけれど……。

「思ったとおりだ。よく似合っている」

 再び姿を現したノーラン氏は満足そうに目を細めた。ダークブルーのタイを差し出す。

「あなたのサイズはわかっていた。前に服を借りたことがあったからね――イタリアン・スタイルなのは私の趣味だ」

 アメリカン・この国のスタイルはカジュアルすぎるからね、と彼は言い、

「欲を言えば靴もそれなりのものにしたかったのだが、今夜のところはまあいいだろう。あとで正確なサイズを教えてくれ」

「……どうしたんですか、これは」

「本当のことを言うと、それはお詫びというかお返しなんだ。借りた服を返そうと思っていたが、そのあと血で汚してしまって返せずじまいになっていたからね」

 そんなことはすっかり忘れていた。

「それにしたって……こんな高価なものをもらう理由はありませんよ」

「そうそう流行遅れになるものじゃないのだからとっておけばいい」

「……これは完全にあなたの道楽でやっているんじゃないでしょうね?」

「そう思うかね?」

「……」

「あとひとつ、これを」

 差し出されたのは細いフレームの眼鏡だった。

「こんなものまで」

「目許でかなり印象が変わるものなんだよ。知り合いの警官や、まして信者にでも見られたら、あなたとあなたの教会の評判は地に落ちるだろう?」

 半信半疑でかけてみる。臙脂色のカーテンが開けられた目の前の窓ガラスに映っていたのは、裕福な老紳士とその若い秘書といった風情だった。

「さ、それじゃ出かけようじゃないか」

「杖はらないんですか」

「年寄扱いしないでもらいたいね」

 ノーラン氏は大して気分を害したようには見えなかった。

「本当にこんな格好までする必要があるんですか、おまけにあなたまで」

「堕落した存在を嗅ぎつけようというのだから、自身が魅力的な餌にならなくてはね。これまでの様子からすると女性の格好のほうが効果的なのかもしれないが、あいにく私は淑女レディの化粧の方法など知らないし――」

 あらぬ想像をしているのか、氏はにやにや笑っている。

「こうしていると稚児とそのパトロンのようだな」

 エレベーターの中でノーラン氏が出しぬけに口にした。

「若く美しい愛人を囲っている中高年の金持ち男、というのは最高に反感を買うと思わないか?」

「――ノーランさん!」

 思わずあげた声が誰もいないエレベーターホールに響き渡る。

「聖職者を侮辱するつもりはないんだ、神父ファーザー」彼は声を低めた。実際には彼のほうがそう呼ばれるにふさわしい外見だったが。

「しかし、親密な関係という設定なのに『ノーランさんミスター・ノーラン』はないだろう」

「年上の愛人ならそれでよいのでは?」

「ベッドの中でもそう呼んでいると言い張るつもりか?」

「なっ……名前の呼びかたなんてどうでもいいじゃないですか!」

「前から思っていたんだが、君はこの種の話題になるとすぐ周章狼狽するのをもう少し控えたほうがいい。告解室で聞かされた経験がないわけでもあるまい? ――ああ、タクシーがきた」

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