9ー3
まだなにか言いたげな様子のマクファーソン神父を連れて行ったのは、
深い苔色の壁紙が張りめぐらされた店内に、壮年のバーテンダーと男性客がひとりだけなのを見てとり、神父の躰から少しばかり緊張が解けたのを感じる。私が常にいかがわしい場所で許されざる行為に
バーテンダーは私の顔を認めると軽く会釈し、「お待ちしておりました」とだけ言った。
「こちらの若い紳士にはアイリッシュ・ローズを。私には――今夜はアルコール抜きにしよう。医者から止められているんでね。ヴァージン・メアリーで」
マクファーソン神父は目を見開いて、ぴったりした黒いジャケットに包まれた胸をこころもち反らせてこちらを見たが、その唇からは祈りもののしりも紡がれなかった。
目の前に置かれた、ひとつは透きとおって紅い、もうひとつはとろりと濃厚な赤い液体の入ったグラスと、その向かいに座る私に、神父は交互に視線を投げた。
「――ノーランさん、あなたはよくまあそんな」
「肩の力を抜いて、リラックスしたまえ、キット。世界はすべてひとつの舞台、そして人間は男も女もみな役者だ」
「……」
彼はカクテルグラスをほとんどひったくるようにして取り上げ、ひと息で飲み干した。
「
「……それで」マクファーソン神父はくだけた様子でスツールに腰かけ、カウンターに片肘をついてこちらを見つめた。透明な深いサファイアブルーの瞳は間接照明の下で、金の
肩の力を抜けと言われてここまでがらりと雰囲気を変えられる人間にはあまりお目にかかったことがない。ふだんよほど抑圧されているものが噴き出したか、なにかのスイッチが入ったのかと思うほどだ。
「理由はいくつかある。第一に、私は同族かその
「飲んでもいないのに酔っているみたいですね、サー?」
洒落者の衣をかぶった聖職者は嫌味たっぷりににっこりした(それもひどく魅力的だったことはつけ加えておかねばならないだろう)。
「お連れのかたになにか新しくお作りいたしましょうか?」バーテンダーが礼儀正しい静かさで口を挟んだ。
「ああ、任せるよ。その前に少し聞きたいことがあるんだが」
「なんでしょう?」
職業上必要な範囲を超えて、壮年のバーテンダーの黒い眼がこちらの視線と絡み合う。男はクリスタルガラスを磨く手を止めた。
「最近、この界隈で若い女が尋常ではない形で死んだ、知っているか?」
「知っているとも。もちろん」
客に対する職務上の儀礼的な口調は失せていた。
「被害者は店に来たことのある客か、あるいはお前の知己でかの女を知っている人間はいるか?」
相手は少しのあいだ記憶を探ってから、
「店の客じゃない。ここへ来るには若すぎるし、いろいろ
「ふさわしくない、というのは?」神父が口を挟んだ。
私が質問を繰り返すと、
「死んだのは報道されてる女だけじゃない。最初は裏通りで
「今の話は警察には伝えたか?」
「いいや、俺は話していない。やつらはここまで聞きに来ない。知り合いから聞いた話だ。ほかの――もっと格下の店じゃどうだか知らないが、どっちにしろ、アバズレがひとり死んだくらいで面倒ごとに首を突っ込む気はないだろう。知らぬ存ぜぬ、で通すさ」
「なるほど。ではそういう人間を相手にしている店はどこにある?」
男はいくつかの通りの名と店の名をすらすら答えた。
私が視線を外すと、ややあって情報提供者の眼に生気が戻った。直前までやっていた作業を最後までやり終え、本来の仕事にとりかかる。
「それから」神父に向き直る。「私は基本的に飲んだり食べたりできない。その点でもあなたの助けを借りることになるわけだ」
新しいカクテルグラスが神父の前に差し出された。ルビー色の液体が湛えられたグラスのふちに、三日月の形をしたレモン
「これは?」神父が尋ねた。
「〈ロンドンの魔女〉というカクテルで、ビーフィーター・ジンのグランプリを
我々はどちらからともなく顔を見合わせた。
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