The Satyr Shall Cry To His Fellow

9ー1

「ほんとに迎えにこなくて平気?」

 病院のエントランスでディーンは何度目かの念押しをした。

「大丈夫だよ、ジェレミーじゃないんだから、ひとりで帰れる。明け方になるかもしれないから先に寝てて構わないからね。それから私がいなくてもちゃんと自分で起きて朝ごはんを」

 車椅子を押した看護師がくすくす笑いながら通り過ぎていった。

「ちょ……わかったから大きい声でそういうこと言うのやめてマジで」

 とディーンは早口で言い、

「うん、じゃあ気をつけて……その人が早くよくなるようにって、俺の分も祈っといてよ」

 心配そうにこちらをふりかえりながら戻っていく姿に、良心にちくりとした痛みを覚えつつ、病棟へはあがらず、玄関ホールを逆戻りして裏の駐車場へ回る。

 そこに待っていたのは、

「ご足労に感謝する」

 夕闇の中のシルバーの車と、その横に佇むダークグレーのカシミアのコート姿の持ち主はまるで幽霊のようだった。


 車は以前とは異なるルートを南へ向かい、やがて見たことのない建物の前に停まった。

 四階建てで、あたたかみのある赤茶色の煉瓦壁のあいだを、装飾のついた白大理石の窓枠が飾っている。玄関エントランスも同じで、円柱に挟まれた両開きのドアの上には、三角形のコーニスが載っていた。

 クリーム色と黒のモザイクタイルが敷かれたホールの突き当たりで、時代がかったデザインのエレベーターに乗り四階へ上がる。

 エレベーターホールから玄関まではタイル敷きだったが、部屋の中は短い毛羽の立った海老茶色の絨毯カーペットで覆われていた。腰板の張られたリビングには石造りの大きな暖炉。実際に使われたあとさえある。

「この家は……」私は馬鹿みたいに首をめぐらせて、どこか懐かしさのある――祖母の家みたいな、と言ってもいい、これほど天井が高くも広くもなかったが――室内を見回した。一見して、プラスチックやステンレスといったものが見当たらない。おそらく化繊ではない布と、革と、真鍮と、本物の木と石で構成されている(暖炉と同じくらいのサイズのテレビを除いてだが)。

「本当にあなたの家ですか?」

「どういう意味だ?」

「他人の留守中に入り込んだか――また貸しサブレットか……」

 ノーラン氏は愉快そうに笑った。

「賃貸だがまちがいなく私の家だ。まあ、いろいろあってね。引っ越したことを言っていなかったか?」

 聞いていませんよと口中でつぶやき、

「新しい家をお披露目するために連れてきたわけではないのでしょう?」

「ああ、そうだ。あなたにはもっとゆっくりしてもらいたいところだが、これから出かける」

「どこへ?」

 どうして直接そこへ向かわないのか尋ねた私に、

「まさか紅楼のちまたをうろつくのに、そんな野暮ったい格好でいいだなんて思ってはいないだろうね?」

 黒いスーツ姿でいるこちらを横目で一瞥する。

「いけませんか? ここはニューヨークでもロンドンでもパリでも、ましてやラスベガスでもないんですよ」

「そうだな、ついでにいうとローマでもない」

 私が鼻白んだところへ、

「いつだったかあの坊やが言ったが、悪目立ちしたくないんだよ。これからお愉しみというときにドッグ・カラーが目に入ったら、河岸を変えようという気にもなろうというものだろう?」

「……わかりました」

「そうとなれば、ひとつふたつの細工は必要だ」

 彼は奥へ行き、小さな紙袋と、青い絹張りの大きく平たい箱を重ねて持ってきた。

 紙袋から取り出したのはカラーワックスだった。色は黒。

「まったく便利な時代になったものだよ、昔はご婦人がたは金髪ブロンドを手に入れるために炎天下で苦行まがいのことをしていたというのに」

「そうそう、それからこれもだ」もうひとつ、細いペンのようなもの。

「――眉用のマスカラ?」

「神は細部に宿るんだよ」

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