5話 結婚

気が付けば、芽衣子たちもすっかり酔っ払っていた。

今日も支払いは大丈夫なのかと心配になるほどだ。

しかし、よく見るとその中にいつの間にか由美も混ざっていた。


「由美君、君に一ついいことを教えてあげよう! 我が尊敬するチェコの小説家カフカの言葉だ。『結婚はしてもしなくても後悔するものである』結局、後悔するものなんだよ。なら、思いっきり飛び込んでいくのもありだ!」


芽衣子はべろんべろんに酔いながら由美に話しかけた。

由美はそんなの嫌ですよぉと反発する。


「アインシュタインは言っていたぞ。『男は結婚するとき、女が変わらないことを望む。女は結婚するとき、男が変わることを望む。お互いに失望することは不可避だ』ってね。男女の思考なんていつも平行線で分かり合えないのが普通なんだ。そこをわからんと男女は語れねぇな」


美穂も笑いながら答える。

彼女は酔うと笑い上戸になるらしい。


「どっかの心理学者が言ってたな。『人間が自分で意味を与えない限り、人生には意味がない』いつだって私たちはその選択を自分たちで決めている。他人のせいにしているうちは、一生かけても幸せになんてなれないよ」


あのお酒の強い夏美もすっかり酒がしみこんだらしく、しおらしくなっていた。

どうしようもない4人だと亜紀は食器を片付けながら見つめていた。


「エーリッヒ・フロムの言葉でしょ。皆飲みすぎ」


いつもの名言大会が始まったと呆れ顔になる亜紀。

そして、由美は突然立ち上がって、風に当たってくると店の外に出た。

顔が火照って熱い。

しかし、いつもとは違い心地の良い酔いだった。

外の冷たい風が今の由美には気持ちが良かった。

由美はポケットにしまっていた携帯を取り出して、画面を見つめた。

そこには5件の着信と1件のメールが送られていた。

どれも池本からのものである。

由美は一呼吸おいて、池本に折り返す。

池本は3コールで電話に出た。

慌てた様子で由美の名前を呼んでいた。


「池本さん、ごめんなさい。私、全然あなたのこと知ろうとなんてしてなかった。あなたが何かを抱えていることは何となくわかっていたの。けど、見て見ぬふりしてた。たぶん、結婚したいって気持ちを優先していたのね。でも、それが現実になりかけた時、私は怖気づいた。私にはまだ、いえ、きっと一生あなたとの人生の困難を乗り越えることは出来ないと思うの。私には全く覚悟なんて出来ていなかった」


そうですかと池本は寂しそうに声を漏らした。

池本には悪いが、これが恋ではないと由美は随分前から知っていた。

ただ、早く周りに追いつきたくて無難な幸せを得ようとしたのだ。

でも無難な幸せなんてなくて、そこには高い高い壁があって、それを池本と2人で乗り越えるのかと考えた時、自分には無理だと感じた。

そこまで彼を信用もしてないし、愛してもいない。

こんな感情で結婚しても自分の幸せなんてつかめないだろう。

格好をつけて本当の自分を隠していたのは池本だけではないのだ。

由美もまた自分に嘘をついていた。

由美は静かに池本との電話を切った。

そして、しばらくの間夜空を見上げて、涙を流した。

その時、ちょうど暖簾を下ろしに来た亜紀が外に出てくる。

そして、入り口の横でぼんやりしていた由美を見つけた。

由美はさっと携帯を隠し、亜紀も気づかないふりをした。


「私、由美が決断したことならどんなことでも応援するわ。けど、嘆いてばかりのあなたを励ます言葉は私には持ち合わせてないのよ。あなたは私の結婚が理想的なようなことを言っていたことがあったけど、結末は最悪だった。あなたと同じよ。私も浮かれていたのね。プロポーズされて、舞い上がって、彼の本質を見ようとしていなかった。裏切られたことも気が付かないで、彼がどんなつもりで私と結婚したのかもわかってなかったの。だから、本当は私が由美に何も言う資格なんてないのよ。ただ、由美に私のような後悔はしてほしくないから、ちょっときつく言ってしまったのかもしれない」


亜紀が自分の為に言っていたことはわかっていた。

けれど誰かに甘えたかったのだ。

優しい言葉で慰めてほしかった。

それが本心ではないとしても。

それが自分の弱さで、そんな弱さが恋愛にも表れていたのだとわかった。

焦っていた。

自分の周りが結婚し、出産していくことで、おいて行かれる気がしていた。

それが単純に寂しかったのだ。


「私、あの子たちのように名言なんて知らないの。でも、昔、芽衣子が教えてくれた言葉があるわ。『結婚は早すぎてもいけない、おそすぎてもいけない、無理が一番いけない、自然がいい』武者小路実篤っていう小説家の言葉なんですって。焦る必要なんてないわ。あなたが本気でしたいというタイミングですればいいのよ。そしたら、私は本気であなたを応援できる。でも、決断した限りは自己責任よ。その後、どんなに泣こうが喚こうが私は何もしてあげる気はないの。だって、選択権はいつだってあなたにあるんだもの。あなたが本当にいいという道を進んで」


亜紀はそう言って笑い、暖簾を下げると店の中に戻っていった。

そういえばと、テレビによく出るタレントのマツコ・デラックスがテレビの中で言っていた言葉を何となく思い出していた。

こう生きたほうが幸福っていうものに惑わされることはない。

だから、無理して結婚することはない。

結婚しようがしまいが、子どもができようができまいが、人間は一生孤独。

絶対的に埋めてくれるものの存在なんてないって。

何となく聞いていたけど、今考えたら深いなって思う。

若い頃は自分が結婚できないなんて予想もしていなかったし、しているのが当たり前だと思ってたから。

誰かの植え付けた、結婚=幸せなんて縮図、万人受けなんかじゃない。

何が幸せなのかわからないから、そうやって定義づけて、固執していたのだと理解した。

芽衣子たちはあまりに自由に生きている。

そんなので大丈夫かって思うぐらい自分勝手に。

でも彼女たちの人生は彼女たちのもので、他の人間が心配したところで責任は持てない。

彼女たちは彼女たちなりの生き方を決め、覚悟を持って生きているのだと思った。

どんな生き方でも輝くことができる。

幸せなんて、いつでも自分が判断することだ。

そう思うと、気持ちが半分軽くなった。

由美の中にある無意味なカウントダウンの音が消える。

その代わり、これから何をしようかというワクワクする音が響いてきた。

もう、恋愛しないとか、結婚を諦めるとかいうつもりない。

ただ、生きたいように生きようと思った。

自分のための人生を生きようと決心したのである。




由美が夜空の下で佇んでいると酔いが少し冷めた芽衣子が由美を呼びに来た。


「もう店仕舞いだから、亜紀が創作料理をご馳走するって。亜紀の考案した料理はうまいぞぉ」


芽衣子は今にもよだれを垂らしそうな顔で言った。


「知ってる」


由美もそう答えて、急いで店の中に戻った。

テーブルの上にはいくつかの料理が大皿の上に盛られていた。

どれも美味しそうな匂いを漂わせている。

あんなにお腹いっぱいになるまで食べたのに食べたくなるのは不思議だ。


「はい、どうぞ」


亜紀は小鉢に料理を注いで、由美に渡した。

由美はそれを見ながら、昔の事を思い出した。

亜紀が離婚を決断した日、亜紀が悲しそうに言っていた言葉だ。


「私は夫との幸せな生活より、美味しいって言ってもらえる料理を作る方を選択したのよ。私が見ていたのは、いつだって美味しそうな顔で食べてくれる人の顔だった」


亜紀は今でも変わらない。

亜紀の選択は料理を作ること。

それは高級料理店でなくてもいい。

星の数なんて関係ない。

美味しい料理には評論家の言葉より、食べた人の自然な笑顔の方が大事だ。

それは紛れもないたった一つの真実だから。

今の亜紀は由美の理想だった頃とは違っていても、キラキラと輝いていた。

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