5話 死の床のカミーユ

変な人たちだと思った。

今まで譲の近くにいた大人たちとはまったく違う考え方だ。

今までずっと、早い段階から大人の考え方を模倣することが賢い生き方だと思っていた。

親が受けてきた後悔を繰り返さないように、失敗しないように生きていく。

それが譲の役目だとすら思ってきた。

しかし、ここに来て、そうじゃないという。

原始的な考え方だとも思う。

それは非現実的で、地に足が着いていないというか、ふわふわした感覚があった。



譲は芸術家とは違う。

自分には特別な才能など何もないと理解している。

だから、凡人でも幸せになれる生き方をすべきなのだと考えて来た。

しかし、譲にはわからなかった。

幸せとはなんだろうか。

これからも、自分が幸せだと思える瞬間がくるのだろうか。

そう思うと不安になってきた。

自分の心の奥に仕舞っておいた何かが溢れてくるのを感じた。

ずっと考えないようにしてきた何かだ。

それを知ることが怖かった。

自分の中の決心していたものが一気に壊れてしまいそうだったからだ。



「今日も勢ぞろいじゃない」


智代の部屋に顔を覗かせたのは、村上美穂だった。

派手な化粧に明るい長い髪を束ねて、疲れきった顔をしていた。


「おお、美穂りんおかえり!」


芽衣子は元気よく手を上げる。

美穂は智代の部屋にずかずか入り込み、重たそうな荷物を床に置いた。


「ああ、つっかれたぁ。私にもご飯頂戴」


その場に座り込んだ美穂。

そして、譲に気がついて目をやる。


「なに、この子。生意気そうな子ね」


すると夏美が噴出すように笑った。


「あはは。間違いないわ」

「いやいや、その生意気さがまた乙なのですよぉ。ショタはやっぱりツンデレにこしたことがないですからね」


知香は両手を合わせて頬をにすりつけ、美穂に擦り寄った。

美穂はうっとうしそうに知香を引き離す。


「そろそろ時間ですね。譲君、帰りましょうか」


時計は夜の10時を回っていた。

帰りたくなかったが、帰らないわけにもいかない。

譲は頷いて、立ち上がった。




理々子と譲は二人で並んで歩いた。

足取りは重い。

理々子はふと空を見上げた。

空にはいくつもの星が輝いていた。


「やっぱり、ここはたくさんの星が見えますね。星が見えるだけで、なんだかほっとします」


譲は空を仰ぎ見る理々子の横顔を見た。

理々子にはこの星空すら、自分とは違う景色に見えているのだろうかと思った。

あの夕日の絵のように。


「譲君はもっと自由にのびのびとしていてください。悩むことはたくさんあると思いますが、君の小さな背中がもの寂しそうなのは見ていられないのですよ。私は譲君のように頭がいい子ではなかったので、譲君が考えているようなことを考えたこともなかったのです。私の幼少の頃といえば、好きな場所で好きな景色を見て、光に当たって、風を感じながらぼんやりとしていた毎日でした。それだけで、世界はキラキラとして見えて、友達は少なかったですが寂しくなかったのです。受験も大切だと思います。でも、夢も大切なのです。一度きりしかない人生なのだから、自分のために生きてあげてもいいのではないでしょうか」


暗闇で見えづらかったが、理々子のあの優しい微笑だけは感じられた。


毎日見ていたのは明恵の険しい顔だった。

試験が近づくと、勉強を教える塾の講師もぴりぴりしていたし、周りの生徒達も辛そうな顔をしていた。

誰かの落ち着いた微笑など、最近見ていなかった気がした。

だから、ほっとするのかもしれない。



「ねぇ。お姉さんは、なんで画家になろうと思ったの?」


譲はささやかな疑問を聞く。


「私は本当に口下手で、自分の思いを充分に表現できなかったのです。毎日、一人で画用紙の上に絵を描くばかりで、本当は皆と仲良くボール遊びもしたかったですし、鬼ごっこもしたかったのです。でも、ある日、母にモネの展覧会に連れてってもらったことがありました。そこである絵と出会ったのです。それは『死の床のカミーユ』でした。とてももの寂しくて、哀しい絵でした。でも、そこに描かれたカミーユの顔には確かな愛情と喜びが浮かんできていて、ああ、この人は本当に夫を愛し、子を愛し、自分の人生に終止符を打てたのだと悟りました。そして、モネ自身の決意と彼女への愛情も感じられたのです。彼はこの作品についてこう述べていたそうです。「私は無意識的に死によって変化してゆくカミーユの顔色を観察しているのに気がついた。彼女との永遠の別れがすぐそこに迫っているので、カミーユの最後の姿を捉え頭に記憶しようとしたのは自然だったのだろうが、私は、深く愛した彼女を記憶しようとする前に、彼女の変化する顔の色彩に強く反応していたのだ」彼は誰よりも画家だったのです。そうとしか生きられなかったのです。愛する妻の前でも筆を捨て切れなかったモネはきっと何度も自分を責めたと思います。けれど、それがクロード・モネであり、そんな彼をカミーユは愛したのだと悟りました。死は血の気漂う赤から、暗い紫へと代わり、次第に灰色と化していきます。そして、肉体が滅びてもカミーユの愛情だけは確かにそこに存在したのだと思いました。その絵からはカミーユの愛情とモネの愛情の二つを感じることが出来たのです。私はその絵の前で泣いてしまいました。そして、最後にモネの『睡蓮』を見ました。その絵は他の睡蓮とは違って、モネが白内障になった後に描かれた作品でした。そこには輪郭もなく、赤や紫や緑、黄色の線がただ彷徨っているように見えました。でも、それがモネの見えた世界なのだと知りました。そうなってまでも、彼は絵を描き続けたのです。彼にとって絵とはどのようなものだったのでしょうか。私には人生そのものだと思います。きっとモネも言葉で気持ちを伝えるよりもずっと、絵で気持ちを伝えた人なのだと思いました。その時、私も画家になりたいと思いました。私の感じている全てを絵に託したいと。それからずっと絵を描いています。展示会にも何回か出させてもらっていますが、未だにちゃんとした評価はいただけていません。でも、絵を描くのをやめようとは思っていません。これが私の生き方だと思うからです。きっと、私はこうでしか生きられないのでしょうね」


理々子が離し終わると、しばらくの間、二人は黙って歩いた。

そして、ぽつりと譲は話し始めた。


「でも、俺にはお姉さんが口下手だなんて思わないけどな。まだ、ちゃんとした絵を見てないからわからないけど、お姉さんの気持ちはちゃんと言葉で理解できたと思う」

「ありがとうございます。けれど、それはきっと今の『リベルテメゾン』の皆様のおかげです。私は自分の言葉に自信が持てなかったのです。もし、話して皆に嫌われたらどうしようとか、間違ったことを言っていたらどうしようとか思っていました。けれど、彼女たちは私に自由に話していいんだよと教えてくれました。ありのままの私を受け入れてくれました。だから、こうして、譲君ともちゃんとお話できるのです」


譲は頷いた。



目の前に自分の家が見えたのだ。

恐る恐る玄関に近づき、扉を開けた。

玄関の目の前には仁王立ちした明恵が立っていた。

譲は身がすくんだ。


「塾から電話があったの。今日、塾を早退したそうね。なのに、どうして真っ直ぐ家に帰ってこなかったの?塾の人から譲が自分でうちに連絡するって言ったそうじゃない。だから、こういうことなんだとすぐわかったけど。あなた、どういうつもりなの?」


明恵の目は怖かった。

後ろから健もやってくる。


「成績が充分追いついているならいいの。でも、あなたこのままだとどこの学校にも合格できないのよ。受験したのに、どこにも行けずに公立中学に通うことは、最初から公立中学に通う子よりずっと惨めなの。わかってるの?」

「おい、そんな言い方をしなくても…」


健は明恵の後ろから言った。

しかし、ひどい顔で明恵は健の顔を睨みつけた。


「あなたは黙っててよ。この子はこともあろうことか、塾を早退して、こんな夜遅くまで遊び回っていたのよ。しかも、中学受験を目の前にした受験生が。どれだけ親を心配させて、他の人たちに迷惑かけたのか、教える必要があるわ」

「確かにそうだが、譲にも何か理由があったんだろう。こうしてちゃんと家に帰ってきてくれたんだ。とりあえず、今日のところはこれでいいだろう」

「いいはずないでしょ。こんなところで許したら、この子は何度も繰り返すようになるわ。まだ自分の立場を理解していないのよ。人生はね、そんなに甘くないの。わかるでしょう。ここで諦めたら、譲の人生終りなのよ」

「終りって、大げさだろう。まだ、譲は12歳だぞ」

「12歳が大事な時期なのよ。今から世間の厳しさを知っておかないと、周りからどんどん遅れてきて、ふりになってしまうわ。私はこの子のために言ってるの。あなたはいつだって身勝手なことばかり言うのね。譲が心配じゃないの?」

「心配だけど…。そんなにきつく言わなくてもいいだろう」


自信がなくした健が縮込むようにしゅんとした。

そして、再び譲と理々子のほうを向く。


「それと、どちらさまですか?譲を補導してきてくれた方かしら」


今度は譲の隣にいた理々子に話しかけた。


「いえ、私は…、譲君のお友達です。譲君が夜遅くなったのは、私の所為なのです。塾の帰りに私がつい声をかけてしまって。すいませんでした。だから、譲君をあまり責めないでください」

「友達?ふざけないでよ。立派な大人が小学生と友達であるわけないでしょ。あなたが譲をそそのかしたの?もう、顔も見たくないわ。今回は警察に突き出さないであげる。だから、今後、譲には二度と近づかないで頂戴」


明恵はそう言って、理々子の腕を掴んで家から追い出そうとした。

それを見て、譲は唖然とした。


「やめろよ!お姉ちゃんにそんなひどいことするな」


譲は叫んでいた。

そして、理々子から明恵の手を引き離した。

明恵は今までに見せたこともないほどショックを受けた顔で譲を見ていた。

そして、掌を高く振り上げた。

平手打ちの大きな音がする。

譲は怖くなってつい目を瞑ってしまったが、痛みは感じなかった。

目の前には理々子が立っていた。

理々子の頬は真っ赤に腫れ上がっていた。


明恵の手は震えていた。

まさか、理々子が飛び出してくるとは思わなかったのだ。


「…やめてください。もう、やめてあげてください。譲君はとっても優しい子です。お母さん思いの素直で優しい子なのです。譲君といろんなお話をして、わかったことがありました。それは譲君の言葉が全部お母さんの代弁だったのだってことです。譲君はお母さんが大好きだから、お母さんの望むようにしてあげようと必死だったと思います。それがうまく答えられなくて、譲君はずっと悩んでいました。そんなにお勉強が大切ですか?譲君のお母さんが言っていた言葉は本当だと思います。でも、その言葉は譲君自身が見つけ出す言葉じゃないのですか?賢い生き方をすれば、みんな幸せになれるのでしょうか。私はもっと譲君にのびのびと生きて欲しい。だって、こんなに優しくて思いやりのある子なのですから」

「あなたに何がわかるのよ。どうせ、子どもだって持ったことのないから、そんな無責任なこと言えるのよ。ここを乗り越えれば、譲だってきっと――」

「でも、譲君には夢がありません。受験に合格しても、進むべき道がないのです。それでも、絶対に幸せになれるというのですか?」

「だからって夢を見ても叶えられるわけじゃないわ。無駄よ。もっと現実を見ないと人は生きていけないの」

「そんなのわかんないじゃないですか。譲君にだって何か特別な――」

「ないわよ!だって、私の子だもの」


明恵は大声で叫んでいた。

辺りはしんとする。

明恵はゆっくり譲の方を見た。

譲の目からは涙が溢れていた。


健がゆっくり明恵に近づいてきた。

その目はとても悲しそうだった。


「明恵、もうやめよう。お前が譲にしていることは、譲のためなんかじゃないよ。お前のためなんだよ。お前の後悔を克服するために、譲に自分の夢を託しているんだ。譲は譲だ。お前じゃない…」

「わかっているわよ、そんなこと。でも、譲は私と同じなの。私と同じように失敗するの。だから、後悔させたくなくて…」


明恵は泣きそうだった。

譲は明恵のこんな顔を見るのは初めてだった。


「お前はエリートで、中学受験も大学受験も上手くいって、就職だって一流企業だった。お前の失敗って言うのは俺との結婚じゃないのか?」


明恵はゆっくり振り向いた。

健の顔がとても悲しそうに見えた。

譲も呆然と見ていた。


「…ち、違う…」

「お前、再三、元同僚の瑞穂ちゃんの事を話してたもんな。あの子のことが羨ましかったんだろう。旦那は一流企業の出世頭で、金持ちで、セレブ生活だもんな。それに加えてお前の旦那は一流企業でもなけりゃ、甲斐性無しで、こんな田舎で一軒家を建てることしかしてやれない。ローンだってまだたくさんあるしな。ずっと申し訳ないと思ってきたよ。お前みたいな、エリート人生をまっしぐらに生きてきた人が俺なんかの嫁になんて来るほうがおかしな話だ。でも、譲のことは許してやってくれないか。半分俺の血なんだ。お前のように賢くは生きられない。それでも俺は譲に幸せになって欲しいと思う。もし、譲が本当に私立中学に行きたいと言うなら行かしてやりたいと思っているし、もしそうでないなら無理に行かせなくてもいいと思っている。譲にはまだ無数の選択肢があるんだ。それを最初からつぶす必要ないんだよ」


明恵は泣き崩れた。

譲はただ黙ってその光景を見ていた。


その日から明恵は譲に勉強しろとは言わなくなった。

塾もやめたければやめてもいいとも言われた。

あんなに嫌だった塾なのに、いざ辞めてもいいといわれると複雑な気持ちになった。



譲は塾の先生を呼び出し、自分の進路についてもう一度考えることにした。

今までの第一志望は難しくても、それ以外の学校ならなんとか合格できるかもしれないと言われた。

改めて、いろんな学校のパーフレットを眺めながら、自分の行きたい学校を考えた。



塾の帰り道、後ろから譲を呼び止める声がした。

それは、輝だった。


「おい、譲。お前、志望校変えたんだって?」


譲は頷く。


「うん。第一志望は俺の成績じゃ厳しかったし、それほど行きたいわけでもなかったしな。お父さんと相談して決めたんだ」

「そっか。俺、譲と一緒に行けるって楽しみにしてたんだけどな。けど、塾は同じとこ受けような。そしたら、前みたいに話せるだろう?」

「そうだな。でも、お前、頭良くなりすぎて、話についていけなくなるかも」


譲は笑う。

輝はぷくっと頬を膨らました。


「そんなことねぇよ。俺、お前とはずっと仲良くやっていけそうな気がするんだ」

「その根拠は?」

「なし!」


輝は元気いっぱいに言った。


「ないのかよ!」


譲もその隣で楽しそうに笑った。


「それよかさ、譲は今からどうするよ。俺、息抜きにちょっと遊んでいこうと思ってるんだけど」

「俺は今日、行きたいところあるんだよ」


譲はそう言って一枚のチラシを開いた。

それは美術展のチラシだった。


「はぁ。お前、絵なんて興味あったのかよ。しかも、知らないやつばっかだな」

「まあね、皆アマチュアだから」


そう言って、譲はチラシをポケットに仕舞った。

輝は更に不思議そうな顔をした。

それでも面白そうなので、輝も譲についていくことにした。




展示館は公民館の地下にある小さな会場だった。

中には人が少なく、静かだった。

見たこともない人の名前で何人かの絵画が並ぶ。

その中で、一際目立つ大きな絵があった。


縦3メートル、横1.5メートルの花の絵だった。

中央には淡いピンク色の花が描かれていた。中央はうっすら黄色く、その周りには濃いピンクの輪が出来ていた。

バックは真っ黒で、その花に向けて一筋の光が差している。

花はまるで光を仰ぎ見るようにして、花からは大きな雫が垂れている。

地面には今から大きくなろうとしている小さな草が懸命に立ち上がろうとしていた。


すると、譲の横で輝が肩を叩いた。


「これって、俺らの見てた夕日に似てない?あの土手の夕日に…」


確かにそこには夕日の絵が描いてあった。

一面オレンジ色でうっすら町の影が見えて、そしてまぶしく、少し哀しい夕日だった。

作品の下のプレートにはこう書いてあった。


『作品「悲しみと喜びの青春」 植木理々子』


あの時の絵だった。

殆ど、オレンジ一色なのにどことなく寂しくて、でも輝いていて、輝と見た夕日に似ていた。


「おい、隣の巨大な絵も同じ作者だぞ。しかも、お前と同じ名前だ」


そう言って輝はプレートを指差した。

確かにそこには、『作品「譲」 植木理々子』と書いてあった。

あの、花の絵だった。


「これって、菫だよな。形が菫なんだけど、ピンクの菫ってあったか?」


輝は首を傾げる。

けれど、譲にはわかった。

その絵の意味が…。


「菫、菫っと」


そう言って輝は携帯で菫の花言葉を探した。


「菫は、『謙虚』『誠実』『小さな幸せ』か…。ありきたりだな。だから、『譲』なのか?あ、ピンクもあったぞ。『愛』と『希望』だって」


気がつくと譲は泣いていた。

輝はそれをみてぎょっとする。

何が起きたのかわからずにあたふたした。


理々子の言葉がよみがえる。

譲にたくさんの言葉を投げかけてくれた理々子の顔が浮かぶ。

一筋の光は夢、真っ暗な世界は現実、花から零れる水滴は涙、そして菫は譲自身だ。

菫は確かに顔を上げ、光を見つめていた。

足下には生命力を感じさせる草か描かれていた。

これは理々子からのメッセージだ。

これから、生きる譲への想いが綴られていた。


『死の床のカミーユ』の絵の前で泣いている理々子の姿を思い浮かべた。

きっと理々子もこんな気持ちだったのだろうか。

絵から伝わるものは、言葉なんかに出来ない。


譲の頭上には確かに一筋の光が差し込もうとしていた。

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