4話 夢
理々子は入り口の扉を開けて、譲をアパート内に招き入れた。
すると、丁度廊下を歩いていた女性が理々子と譲に気がつき、声をかけてきた。
「あらあら、理々子ちゃんお帰り。その子はどちら様?」
その女性は綺麗な人だった。
譲はつい恐縮してしまう。
「あ、亜紀さん。こちらは私のお友達の譲君です」
理々子が譲を紹介すると、亜紀がじっと彼を見つめた。
「まぁ、可愛いお客さんだこと。今、智ちゃんのお部屋でいつものをやっているの。もし良かったら、二人もどうかしら」
亜紀の手には、二枚の皿があった。
どちらも大盛りの中華だ。
「わぁ、もう皆さん集まっているのですね。丁度良かったです。譲君を紹介できます」
理々子は靴を脱いで、亜紀の後ろをついていった。
譲も靴を脱いで、アパートに上がる。
玄関には無数の靴が散乱し、下駄箱のうえには大量のフィギュアが置いてあった。
譲は呆れながらそれを見つめた。
理々子に呼ばれ、譲は慌てて理々子の後についていく。
長い廊下を、亜紀を先頭に理々子、譲と一列に並んで歩いていく。
一番奥の部屋から何やらがやがやと騒がしい声が聞こえて来た。
亜紀が扉を開けると更に威勢のいい声がした。
「中華来たぁ! 待ってましたぁ」
一人の女が亜紀の大皿を見て、大声を上げて飛び上がった。
すでに女の顔は真っ赤で、お酒を飲んでいるようだった。
隣の女も煙草をふかしながら、熱燗の酒をお猪口でちみちみと飲んでいる。
「今日は野菜たっぷりの八宝菜よ。それと、理々子ちゃんのお帰りよ」
亜紀が部屋に入ると理々子は後に続いて部屋に入った。
入るのを躊躇していた譲を見て、優しく手を引いた。
「リリーか。お帰り」
優しくそう言ってくれたのは、カメラの手入れをしている女だった。
理々子もにっこりと笑う。
「はい、帰ってまいりました。そして、今日は私のお友達も一緒ですよぉ」
理々子は譲の背中を押して、自分の前へと出す。
部屋にいた何人もの女たちが譲に注目する。
譲は恥ずかしくなって、俯いた。
「彼は園田譲君、小学校6年生です。今日、お友達になりましたぁ」
「ぬおぉぉぉ! 小学生ボーイ! 問題ありありですぞ! リリーがショタコンだったとはぁ。私としてはありなのですが、世間的には厳しいといいますか。ですが、やはりショタコンも伝統であり、認めざるを得ないといいますか……。ショタ好きの漫画としては
ジャージ姿のお下げの眼鏡女が頬に手を当てて、左右に身体を揺らしていた。
いきなり叫び、かなり興奮している。
「って、あの漫画の小林くんは高校生で、ショタじゃないだろう。つーか、あの漫画、みんな小林なんだけどね」
カメラを持っていた女が突っ込みを入れている。
その間に亜紀はテーブルに大皿二つを置いた。
「まぁまぁ、リリーも譲君もこっちに来て、座りなよ。一緒に飯を食おう」
最初に声を上げていた女が理々子と譲を手招きする。
彼女は牧野芽衣子といった。
頭の後ろに無造作な団子を作った、ブチメガネの細身の女だった。
「それはいいけど、私のちゃぶ台じゃ、この大人数は足りないぞ」
今度はカメラを持ったこの部屋の主の板橋智代が立ち上がって声を上げた。
すると、隣の部屋から無理やり運んで来たちゃぶ台を抱えて、あのジャージお下げ眼鏡女の堀口知香が部屋に入ってくる。
「大丈夫でやんすよぉ。あっしの使ってくんなまし」
知恵はむちゃくちゃな言葉で智代の狭い部屋に自分のちゃぶ台を置いた。
「よし、これで大丈夫だな。芽衣子、茶碗とってくれよ。御櫃はこっちにあるから」
さっきまで煙草を吸っていた女、滝川夏美が煙草をもみ消して、しゃもじを掲げ、芽衣子に指示した。
芽衣子もあいよと返事をする。
気がついてみると、部屋の端にも誰か一人いた。
あまりに静かだったので、譲は一瞬幽霊かと思ったが、彼女の前にも箸と取り皿置かれたところを見ると、彼女もこのアパートの住人なのだろう。
名前を山手靖子といった。
料理を持ってきた色っぽい女性の田中亜紀が最後にお茶を持ってきて、その隣にいた知香がグラスを配っている。
「はい。これは譲君のお箸と取り皿。それとご飯ですね」
隣にいた理々子が譲にご飯の入ったお茶碗を渡した。
譲はそれを受け取る。
「遠慮は要らないぞ。男なんだから、ばんばん食え!」
理々子の隣にいた夏美もご飯をよそいながら譲に話しかけてきた。
譲も戸惑いながらも大皿の八宝菜を取り、食べてみた。
今までに食べたことがないぐらい美味しかった。
「亜紀の飯は美味いだろう。亜紀は料理家なのだよ」
譲の隣にいた芽衣子がもりもりと食べながら譲に言い、譲も食べながら返事をする。
「うん……。料理家ってシェフとか、そういうもの?」
「うぅん、どうかな。近いような遠いような。でも、確かに昔は高級フレンチレストランのシェフだったらしいよ」
今度はじっと亜紀を見る。
亜紀もそれに気がつき、にっこり笑う。
「シェフじゃなくて、スーシェフ。料理長の次に偉い人よ。あと少しでシェフにもなれたのだけどね、なり損ねちゃったわ。なる前に自分から辞退しちゃったの」
「ええ、なんで? もったいない……」
「そうね。でも、やっぱりオーナーと意見が違ったから仕方がなかったのかしらね。私は身分や立場を貰う以前に大切なことがあったから。それに、実力があってもまだまだ女性には厳しい世界なのよ。私は、高級感のある店舗よりも、一流の評論家の評価よりも、単純に私の料理を食べる全ての人に喜んでもらいたかっただけなの。それが出来ないのなら、シェフになっても仕方がないと思ったわ」
譲にはわからなかった。
料理人になる以上は、目指すのは料理長であって、周りからの評価であって、そうでないと成り立たないと思った。
明恵は再三言っていた。
夢を持つのはいい。
でも、現実的な考えを持っていなければ、夢などけして叶わないのだと。
料理人だって、お金を稼げて意味がある仕事だ。
それは譲にも理解できた。
すると、突然、譲の足の指に痛みが走った。
慌てて立ち上がって、足下を見る。
するとそこには鼬が一匹いた。
害獣かと思い、譲は大声を上げる。
「う、うわぁ。
すると鼬はするりと譲の足下を抜けて、今度は芽衣子の前に止まり、ちゃぶ台に乗り上げようとしていた。
芽衣子はそれを掴んで、ひざに乗せる。
鼬はばたばたと暴れていた。
「何、それ、ペット?」
譲が座りなおして、鼬を指差して言った。
「そうですよ。フェレットのふうちゃんです。ここに暮らしているみんなの仲間です」
理々子は笑顔いっぱいで答えた。
「フェレット? 鼬じゃないの?」
「イタチ科ですよ。元はヨーロッパケナガイタチだといわれていますが、それを家畜として飼い始めたのがフェレットなのです」
ふぅんといって、譲は物珍しそうに見ていた。
「ていうか、人の足をかんだんだけど? ちゃんと躾してよ」
「失礼な。これはふうちゃんからのご挨拶みたいなものさ」
芽衣子はふうを抱えて言った。
「それもこいつの愛嬌とはわかってるがね。嚙むのは良くないわな」
夏美も小さく笑いながら、譲に賛同する。
「猫ならわかるけど、フェレットって……。ここにいる人たちって変ってるよね。みんな何してる人なの?」
「ここにいる人はですね、みんな私と同じ、アーティストなのですよ。芽衣子ちゃんは小説家、夏美ちゃんは作曲家、知恵ちゃんは漫画家、智代ちゃんは写真家、靖子ちゃんは造型作家。後、まだ帰ってきていないけど、美穂ちゃんはデザイナーなのです。皆さん、有名なプロとは違うのですが、立派なアーティストなのですよ」
「アーティストってお金を貰ってるプロのことだけを言うんじゃないの? それに、そんな世界で成功する人間なんて殆どいないってお母さんが言ってたよ。現実的じゃないって。そんなの賢い生き方じゃないよ」
「なら、賢い生き方が出来れば、君は満足なのかい?」
今度は芽衣子が聞いてきた。
譲は口を尖らせて振り向く。
「そうだよ。しっかり勉強して、いい学校に入って、一流の仕事に勤めるんだ。そして、そこで出世して、お金持ちになる。それが一番早い幸せになる方法なんだよ。友達でもよくスポーツ選手になりたいとか、芸能人になりたいとか言ってるけど、なれる人なんて殆どいないし、なったところで定期的な収入がある人なんて殆どいない。そうでしょう?」
芽衣子はつい笑ってしまった。
何がおかしいのかと譲は芽衣子を睨んだ。
「君はすごいな。その歳で、もうそんな考えが出来るのかい?」
「馬鹿にしないでよ。俺はもう小6だ。来年には中学になる。このぐらいの知識がなければ、厳しい世の中なんて生きていけないよ」
「厳しい世の中ね……。君はたった12年間の人生の間でどんな厳しい世の中を味わってきたのかな。確かに君の言うように世間は厳しくて、卑劣だよ。けど、それを自覚できるのはもっと年月が経たないとわからないことなのだよ。大人達は勝手だからね、マスコミやネットなどを通じて、いろんなところで好きなことを言うよ。けれど、それが全て真実とは限らない。君は世間の厳しさを理解しているわけじゃない。知識として蓄えているだけさ」
「体験なんて無用だよ。そんなことをやっているうちに、どんどん周りの奴らに追い越される。いいポジジョンは早い者勝ちなんだ。それに、俺にはわからないね。アーティストなんて儲からないし、現実的じゃない。お金の蓄えもなかったら、老後になって苦労するだけなんだ」
「まったく生意気なガキだな」
そう言ったのは、夏美だった。
夏美は食事を終えて、酒を飲んでいた。
譲はむっとして、夏美を睨んだ。
「お前のは屁理屈ばっかりだ。いいか。そんな生き方してたらな、もっと歳を食ったときに苦労する。どんなに努力して、名誉や地位を手に入れても、虚しいだけの人生になるんだ。誰かの言いなりや考えで生きてるってことは、自分がないって事だ。自分がない人間に誰もついていかないし、信用もしない。お前の人生の先にあるのは、幸せなんかじゃない。孤独だ」
厳しい言い方をする夏美に割って入るように理々子は譲に話しかけた。
「まぁ、夏美ちゃんが言っていることも正しいと思いますよ。けれど、私はそれ以上に心配なのは、それで本当に譲君自身が幸せなのかと言うことなのです。譲君には将来の夢がないといいました。それはとても残念なことです。なぜなら、私は夢が持てることが本当に幸せだと感じているからなのです。夢があるから、辛いことがあっても乗り越えてきました。不安がたくさんあっても、道に迷わずに済みました。夢って、暗闇の中の小さな光のようなものなのです。例え、目の前が真っ暗になって、自分がどこにいるのかわからなくなっても、その一筋の光があれば、歩いていく場所が見つかるのですよ」
理々子はいつものように優しく笑った。
譲は口をつむぐ。
「知っていますか。世の中には生前ずっと無名で、死後自分の作品が評価された芸術家がたくさんいるのですよ」
「……聞いたことある。ゴッホとか?」
譲がゆっくりと口を開けた。
理々子は頷く。
「そうです。ゴッホは有名ですが、他にもゴーギャンやモディリアーニも今のような十分な評価は得ていませんでした。周りの風習や歴史がそうさせていたのかもしれません」
「画家だけじゃない。宮沢賢治だってそうだ。お札にもなった樋口一葉や、ドイツ作家カフカもそうなのだ。今なら大作家だが、当時はそうじゃなかった」
芽衣子も横から入り、付け加える。
「彼らは充分な評価がなくとも絵を描き続けました。彼らだけではありません。名前が知られていたとしても、貧乏だった画家はたくさんいます。お金を切り詰めてでも、彼らは絵を描くことをやめなかったのです。譲君のいうようなことが幸せなのだというのなら、なぜ彼らは筆を捨て、他の仕事に就かなかったのでしょう。その方が家族も幸せになり、自分の生活も潤うはずです」
「そ、それは……、彼らには才能があったから……」
理々子の言葉に譲はもごもごと消えてしまいそうな声で答えた。
「才能なんさ、お偉い評論家にでも評価されなきゃ、あるとは見なされないのさ。今までだって、たくさんの芸術家たちがいて、多くの作品をつくってきた。ベートーベンやモーツアルトのように素晴らしい曲を作っていたとしても、それが観衆の目にさらされなきゃ、ないのと同じなんだよ。それでも、彼らは作り続けた。その思いは、今の私たちだからわかる。私たちだってあんたぐらいの歳じゃ、全然理解できなかったよ」
夏美が煙草をふっと吐いて答えた。
「そうですね。今の譲君には難しくて当然なのです。だから、ゆっくり時間をかけて、理解することが大切なのだと私は思います。だから、もう、その歳で夢を見ることに意味がないとか、知識があればいいとか思って欲しくないのです。今しか見られない世界があると思います。12歳の君だから見える景色があるのです。それは大人になって、現実にもみくちゃにされた後じゃ、見られなくなってしまうのです。同じ風景でも、見る人が違えば、風景は違って見えるのですよ」
理々子は相変わらず優しい顔をしていた。
譲はその顔を見るとなぜだかほっとした。
「パブロ・ピカソは言っている。『子供は誰もが芸術家だ。問題は大人になってからも芸術家でいられるかどうかだ』今の君の時間は大人になってからの何十年間よりずっと貴重なのだよ。今の君の考え方は、ずっと大人になってからでいい。今はただ、感じるまま、見るままの世界を見て欲しい。理屈ではない、なにかをね」
芽衣子はそう言って、譲の頭に手をのせた。
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