3話 ペットショップ

塾の講義中、突然、譲は吐き気を催した。

目の前がくらくらして、頭ががんがん痛んだ。

目の前のプリントの文字がぐにゃりと曲がる。

講師の声もこもっていてうまく聞こえない。

講師が指示棒で何度も黒板を叩く音が頭に響く。

額から汗が滲み、息が苦しくなってきた。

それに気がついた講師が何度も譲の名前を呼んだ。

輝も心配そうに見つめている。

それでも譲は返事すら出来ないでいた。



譲は目を覚ますと、事務所の応接室で寝かされていた。

事務員のお姉さんが心配して譲に近づいてきた。

譲は身体を起し、周りを見渡す。


「園田君、大丈夫?体調が悪そうだったから、ここまで運んできてもらったんだけど、今丁度親御さんに電話しようと思って――」


そう言い掛けた瞬間、譲は声を荒げて叫んだ。


「お母さんには言わないで!」


事務員のお姉さんも驚いて、目を見開いた。

事務所に残っていた講師たちも譲の方を見る。

譲は慌てて、きゅっと唇を結んだ。


「で、でも…」

「大丈夫です。心配するので、母には自分で連絡します。今日は早退してもいいですか?」

「それは大丈夫よ。けど、大丈夫?まだ体調が悪いなら、私の車で送るわよ?」

「いいえ。昨日、夜遅くまで勉強していたので、少し寝不足なだけです。家も遠くないので一人で帰れます。ありがとうございました」


譲はそう言って、椅子の横に立てかけてあった手提げ鞄を取って、起き上がった。

まだ、若干頭痛がする。

しかし、さっきよりも随分と楽になった。


譲は事務員のお姉さんに心配そうに見送られながら、塾を後にした。

このまま、まっすぐ帰るつもりはない。

このまま、家に帰ったところで、明恵になんと言われるかわからなかったからだ。



譲は帰り道、ふらふら歩きながら、ふと商店街に目をやった。

それほど大きい商店街ではないが、まだ何件かやっていたし、本屋もあった筈だ。

譲にとって丁度いい暇つぶしの場所だった。


商店街を歩いていると、譲の耳に動物の鳴き声が聞こえた。振り向いてみると、そこにはペットショップがあった。

随分前からそこにペットショップがあったのは知っていたが、入ったことはない。

動物には興味がないわけではないが、母親があまり好きではないので飼う事などないと思ったからだ。


ケースの中に、犬がいた。

一匹は眠っていて、一匹はうろうろと歩き回っていた。

隣のケースには猫もいる。

すでに体は大きくて、譲が見ていると、猫は片目だけ開いて譲を見ると、興味がなかったのかまた眠り始めた。

譲はゆっくり店の扉を開ける。

中は動物の臭いで臭かった。

中にも何個もケースが並んでいて、いろんな種類の犬や猫がいた。

後ろの棚にはハムスターやウサギの小屋もあった。

譲はケースの中を覗きながら、犬達を観察する。

殆どの犬や猫が寝ていた。

譲が見つめても、どの動物も興味がなさそうだった。

ただ、可愛いプードルの子犬がケースの前でうろちょろしている。

値札のうえには予約済みという赤い札がついていた。


譲の耳に何かがこすれる軽い音が聞こえた。

これは鉛筆を擦る音だ。

振り向いてみるとそこにはスケッチブックを持って椅子に座り、動物達の絵を描いている店員がいた。

じっと動物を見つめながら、真剣に描いている。


「植木さん!また、絵なんて描いて。そろそろ仕事始めてよ」


奥の方から年配の女性が出てきて、その女性に話しかけていた。

女性はスケッチブックをカウンターに置いて、立ち上がる。

よく見ると、それはあの川岸で絵を描いていた女の人だった。

名札には『植木理々子』と書いてある。

理々子も譲に気がついて、振り向いた。


「いらっしゃいませぇ。って、あれぇ?」


理々子は首を大きく傾ける。

そして、しばらく考えた後、思い出して声を上げた。


「ああ、君はこの間、川岸にいた子ですね」


譲は恥ずかしくて目をそらせた。

理々子はにこにこして近づく。


「今日はどうしたんですか?うちの子たちに会いに来てくれたんですか?」

「別に…、たまたま寄っただけで、今日ここに来たのも初めてだよ」

「そうだったんですかぁ。なら、じっくり見て行ってあげてください。きっとこの子達も喜びますから」


理々子はそう言って、仕事に戻っていった。

譲はまたふらふらと店内を見て回る。



譲はじっとケースの中にいる動物たちを見つめていた。

どの子も窮屈そうで、寂しそうだった。

譲るから見れば、ペットは人間のエゴの塊でしかないと思った。

でも、どこか自分にも似ている様な気がした。

ケースの裏側から理々子が覗く。

餌をやりながら、小屋の掃除をする。

ケースの中にあるトイレシートを替えて、ケース内を拭いていた。

どの子も餌に夢中でしっぽを振って食べている。

理々子は譲を見つけると手をひらひらと振った。

そして、掃除が終わると譲の隣に立った。


「ここのお店は6時で閉店ですよ。君は帰らなくても大丈夫ですか?」


譲は俯いた。帰りたくはない。

けれど、行くところもない。


「なら、隣の本屋に行くから、大丈夫」


そう言って、譲は背を向けて店を出て行こうとした。

その時、理々子が譲に声をかける。


「私もお仕事そろそろ終わるのですよ。もし良かったら、一緒に帰りませんか?」


理々子はにっこり笑って言った。



理々子と譲は並んで歩いていた。

別に待つつもりはなかった。

店を出て、本屋にいると理々子の方から声をかけてきたのだ。

家の方向も同じなので、理々子とともに帰ることにした。

帰りたくない理由もいいづらかったのだ。


「私は植木理々子です。君のお名前を教えてもらってもいいですか?」


理々子は歩きながら、譲に聞く。

譲は小さな声で答えた。


「園田…譲」

「譲君ですか。いいお名前ですね。今日は学校の帰りですか?」

「学校なんてとっくに終わってる時間だよ。塾に通ってたんだ」

「塾ですかぁ。すごいですね。勉強熱心です」


そう言って、理々子はまた笑った。

譲はそれにイラついた。


「当たり前だろう。受験生なんだから」

「受験生。譲君は何歳なのですか?」

「12だよ。小学校6年生だ」


はぁと理々子は感心して見せた。

今時珍しくもないのに、不思議そうな顔をしている。


「そうですか。私は中学受験をしていないので、ぴんとこなかったのですが、大変そうですね」

「あたりまえだろう。受験生なんだから」

「なら、譲君は行きたい学校があるのですね。素晴らしいです。その年で、自分の進路を真剣に考えられるのは立派です。譲君は将来何になりたいのですか?」


理々子は何気ない質問をしたつもりだった。

けれど、譲は足を止め、立ち止まる。

表情は暗かった。


「将来の夢なんてないよ…。そんなのあっても仕方がないだろう。どうせ、大人になったら皆消えちまうんだから」


しばらくの間、二人は黙っていた。

しかし、徐に理々子が話し始める。


「私はありますよ。将来の夢。もう大人ですけど、夢はずっと持ち続けています。それが叶うかは今の私にもわかりません。でも、叶わないからといって、捨ててしまう気にもなれません」


譲はゆっくり顔を上げた。

理々子は優しい表情だった。


「私の周りには大人になっても夢を持った方がたくさんいらっしゃいます。皆さん、とても難しい夢です。でも、誰も諦めようとは思っていません。純粋にそれを受け入れ、心から夢を追いかけることを楽しんで生きています。譲君はまだお若いのです。叶うか、叶わないかではなくて、こらからどんな人生を歩んで生きたいのか、譲君にとってどんなことが楽しいことなのか、それだけでいいと思うのです。夢のない人生は少し味気ないですよ。まるで、モノトーンの世界のようです」

「俺は…、大人の世界がいいなんて思ったことがないよ。やりたいこともないし、憧れることもない。考えていることは、どう人生を楽に生きるかだ。だから、俺は逆らわない。それが一番楽な生き方だから…」

「楽な生き方ですか…。まるで大人みたいな口ぶりですね」

「悪いかよ」


譲がむっとした顔で言うと、理々子は頭を振った。


「そうじゃありません。それはまるで譲君の言葉ではないような気がしたのです。譲君、大人は多くの時間を生きています。だから、自分たちが生きてきた時間にいろんな思いがあると思うのです。けれど、それはその人の人生です。譲君は譲君の生き方をすればいいのだと思います。自分が感じたまま、素直に受け止めることも、今の君にしかできないことだと思います」


譲は言葉に詰まった。

要領よく生きろと教えてくれたのは母親の明恵だ。

譲は小さい頃からずっと明恵のそんな言葉を聞かされてきたので、そうではなければならないと思ってきた。

いつの間にか、明恵の言葉が譲の言葉となっていた。


「俺…、帰りたくないんだ。もう、お母さんにどんな顔して会えばいいのかわからないんだ。今だって、お母さんは俺が塾で勉強してるって信じてる。でも、本当は…」


すると、理々子はすっと譲の手を掴んで、引っ張った。


「なら、社会勉強をしましょう。もしよければ、うちに来ませんか?私のアパートには面白い人たちがたくさんいます。きっと、譲君の悩みも相談にのってくれると思いますよ」

「でも…、知らない人にはついていくなって学校で言われたよ」


譲があっさりそう言うと、理々子は慌てて手を離して、あたふたした。


「ち、違うのですよ。これは誘拐ではないのです。おうちへのご招待で、その、拉致とか、そんなことはしないのです。で、でも、譲君が危ないと思ったら、断っていいのですからね。無理やりとか、そう言うことじゃなくて…」


譲はふふっと笑った。


「わかってるよ。このままじゃ、帰りづらいだけだし、俺、あんたの家に行ってみたい」

「そ、そうですか。あ、でも、本当は知らない人について行ったりしたらいけないのですよ」

「なら、帰るけど」

「いやいや、そういうことでなくて…。まぁ、もしよければどうぞ!」


そう言って、理々子は掌を広げて、一軒のアパートを指した。

そこにはボロアパートがあり、入り口に手彫りで『メゾン ド リベルテ』と書いてあった。

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