2話 色彩

家には帰りたくなかった。

もう、どんな顔をして明恵に会えばいいのかわからなかったからだ。

今までも、全国模試の成績はあまりいいものじゃなかった。

それでも、時間は充分にあったので、明恵も大目に見ていたのだ。

しかし、もう6年の夏だ。

これが最後のチャンスだと思った。

けれど、期待を裏切られ、どうしようもない結果となってしまった。



譲は川岸の芝生に座り込んだ。

夕日がとても綺麗だ。

ここにはよく輝と一緒に塾の帰りに訪れていた場所だ。

お互いの成績表を見て、慰め合ったり、元気付けたり、いろんな話をした。

輝は将来弁護士になりたいと言っていた。

だから、自ら有名私立校を受験したいと言ったのだ。

しかし、譲には夢がない。

弁護士にも医者にもなる気はなかった。

ただ、平穏で争いのない場所で暮らしたいだけなのだ。

中学受験を済ませてしまえば、高校受験は苦労しなくて済む。

譲には中学で名門校に入るより、高校で名門校に入るほうが難しいと思ったのだ。

そういう気持ちから、譲は中学受験を決意したのかもしれない。


ここで輝と譲は同じ学校に通おうと誓い合った。

けれど、今はその約束が果たせそうにない。

最近では、輝と口を利くのも辛くなってきたのだ。


「よし。今日もいい夕日ですね」


突然、譲の真横で大きな荷物を降ろして、夕日を眺めながら呟いている女の人がいた。

小柄で、頭の天辺には大きなお団子が角のように生えていて、上からすっぽりと布をかぶせたような凹凸のないワンピースを着ていた。

彼女は大きな鞄からエプロンを取り出し、つけた。

イーゼルを立てて、キャンパスをそこに置く。

パレットと筆を出し、絵の具の入った小さな着の箱を開ける。

そこには絵の具とビンが二種類入っていた。


キャンパスの角度をそろえた後、彼女は筆を立たせて持ち、夕日に向かって翳した。

まるで、今から写生するぞという合図のようにも見えた。

彼女は黙々と絵を描き始める。

次第に譲は彼女の描く絵が気になり始めた。

間近で油絵を描く人は初めてみるのだ。

興味をそそられた。


譲はゆっくり立ち上がり、恐る恐る彼女の後ろに忍び寄る。

そして、そのキャンパスに描かれた絵を見た。


「うわぁ、ひでぇ……」


想像とはあまりに違う彼女の絵を見て、譲はつい声を上げてしまった。

その声に気がつき振り向いた彼女と目が合う。

譲はやばいと逃げ腰になり、譲に気が付いた彼女はぽかんとした顔をしていた。


「ありゃぁ、ここの先客さんでしたか」


彼女はそう言って笑った。

ひどいことを言ったのに、彼女は少しも怒らなかった。

譲はその場から逃げることも出来ず、少しの間目を泳がせ、キャンパスを指差しながら彼女に聞いた。


「それ、何?」


彼女は指を指されたキャンパスを見た。


「油絵ですよ?」


彼女は首をかしげてゆっくり答えた。

聞いている意味を理解してないと譲は頭を横に振った。


「そうじゃなくて、それ、何の絵なの?」


やっと譲の言いたいことに気がついたのか、彼女は納得した表情を見せた。


「夕日です。私、ここから見る夕日が好きで、よく描きに来るのですよ」


譲は苦虫を嚙みつぶしたような顔をした。

どう見ても、夕日には見えない。

ただ、適当に絵の具をキャンパスに塗り抱くっているように思うだけだ。


「ええ、それが夕日? 全然、見えない」


譲ははっきりと答えた。

それを聞いた彼女はあたふたし始める。


「え、えぇ。見えないですか?」

「はっきり言って下手。まさか、そんな絵で自分は画家だとか言わないよね」


彼女は眉毛を下げて困った顔をする。

そして、それ以上何も言わずにしゅんとした。

さすがに言い過ぎたと思い、今度は彼女のフォローをした。


「別に、芸術は自由だからさ。俺にはわからないけど、世界のどこかであんたの絵がいいって言うやつもいるんじゃない? 俺は美術とかよくわかんないし、絵も得意じゃないしさ」

「そうですね。私の絵は私のために描いている絵ですから、全ての人に上手いと言ってもらえるとは思ってはいません。それでも、誰かが私の絵を見て、私の見た素晴らしい光景や美しい時を共有してくだされば、とても嬉しいのです」


譲は変なやつだと思った。

そして、彼女は再び筆を動かし始める。


しばらくの間、譲はそれをじっと見つめていた。

何があるわけでもないし、その絵がいいと思えてくるわけでもなかったが、なんだか物珍しくて、見ていたかっただけだ。

そして、譲は再び彼女に質問を投げかけた。


「絵なんて描いて面白いの?」

「面白いですよぉ」


彼女は満面の笑みで答えた。

譲はどきっとして目をそらせる。


「俺には全然理解できないな。絵なんて描いても意味ないじゃん。いくら描いたって金にならないし、そういう絵の具や道具だって高いんだろう? 理にかなってないよ」

「そうでしょうか。私たちは別にお金が欲しくて描いているわけじゃないのです。これは一つの表現方法なのです。私の嬉しいとか悲しいとか楽しいとか、綺麗で感動したこととか、そういった私の感じた世界をキャンパスの中に描いているだけなのですよ」

「そんなの口や文章で伝えればいいだろう? わざわざ時間とお金をかけて、絵で表現する意味がわからないよ」


彼女はふふふと笑った。


「私にもそういう才能があれば、そうしたかもしれません。上手に言葉や文字で私の感じた世界を表現できたら、きっと私の描いた絵よりももっとわかりやすく相手に気持ちが伝わったでしょうね。でも、私にはそれが苦手なのです。私の感じた全てを表現しようと思ったら、絵を描くことしかなかったのです」

「そんなの単純にストレートに言葉にすればいいじゃん。むかつくとか嫌いだとか、気持ち悪いとか」

「私の中では、『楽しい』にしても一つじゃないのです。心が温かくなるような桃色の『楽しい』や心が跳ね上がるような黄色の『楽しい』、なんだかほっこりするような緑色の『楽しい』、少しきりっとする青色の『楽しい』とたくさんの『楽しい』があるのです。それを言葉ではっきり伝えようとしても私には出来ないのです。だから、絵にするのです。形や色をキャンパスで彩ることで、私の今の気持ちはこうだよって伝えられるのです」


黄色や青色の気持ちと言われても譲にはわからない。

譲は唇をへの字にした。


「俺には赤は怒り、青は悲しみ、緑は冷静、黄色は愉快だけどな。青の楽しいとか意味わからないよ」

「色だってたくさんあるのですよ。同じ青でも、青と藍色は違いますし、群青色や水色も違います。元は一つの青からいろんな色を合わせて作っている色ですが、それらの色の感じ方も違うのです。気持ちも同じなのです。『楽しい』とか『哀しい』とかの一言じゃ、本当の自分の気持ちは伝わらないでしょ? 人の心はとっても緻密にできているのですよ」


彼女は優しくそう言った。

譲は返す言葉を失う。


「きっと君は、ちゃんと自分の本当の気持ちを皆さんに伝えられているのでしょうね」


伝えられているはずがないと譲は即座に心の中で答えた。

そのストレートな言葉でさえ言えていないのだ。

勉強は頑張っている。

夜遅くまでやって、何度も参考書を読んで、問題を解いている。

それなのに、全然頭に入ってこないのだ。

同じ箇所を何度も間違える。

覚えたと思っても、テストになると忘れる。

頭の中がかっと熱くなるようになって、真っ白になるのだ。

そうすると何も考えられない。

折角頑張ってきたのに無意味になるのが嫌で、必死に思い出そうとすればするほど思い出せなくて、時間だけが去っていく。

そんな成績を見て、明恵が理解してくれるはずがない。

これでは、何もやっていないのと同じなのだ。


気持ちは結果が伴わなければ意味がないと思った。

人は過程など見てくれない。

どれだけ頑張ったかは、結果で理解するのだ。

だから、自分の感情などどうでもよかった。

そんなものは明恵には興味ないだろうし、いくら言っても言い訳にしか聞こえないだろう。

譲には気持ちを表現することなど意味がないことだと思っていた。


「君の目から見て私の絵は下手っぴにしか見えないかもしれません。けれど、私の目から見たこの景色はこの絵のように見えるのです。私の見えている世界がキャンパスの中にあるのですよ」


彼女はにっこり笑っていた。

今の譲には彼女の言うことが今ひとつ理解できなかった。

形のない色ばかりの夕日の絵に何を感じろというのか。

美術など、普通の人間には理解できない世界だと思う。




譲は憂鬱な気持ちのまま家に帰った。

手にはくしゃくしゃになった成績表が握られている。

明恵にどう見せていいか迷った。

けれど、家に帰る以上逃れることができないだろう。




譲は重い家の玄関の扉を開けた。

ただいまの言葉と一緒にリビングのドアの開く音と、スリッパのすれる音が聞こえた。

キッチンからは何かの煮込まれた匂いがする。

顔を上げると明恵が立っていた。


「お帰り。今日は模試の結果の日でしょ?」


明恵はそう言って、譲に手を差し出した。

顔色はあまり優れなかった。

譲はくしゃくしゃに丸まったままの結果表の紙を渡した。

明恵は更に険しい顔をしたが、そのことについては何も言わなかった。

丸まった紙を丁寧に広げ、評価を見る。

当分の間、無言が続いた。


「これじゃあ……、どうしようもないわね」


明恵は静かにそう言った。

険しい顔で掌を額に当て、譲に紙を返した。

譲は黙って紙を受け取る。


「もういいから鞄を部屋に置いてきなさい。ご飯にするから」


そう言って明恵はキッチンに戻った。

譲に怒鳴り散らすことはなかった。

譲はしばらくの間何も言わずに、玄関に立ったままだった。

部屋に鞄を置き、リビングに戻ると父親の健がすでに帰っていた。

リビングのソファーに座り、新聞を読んでいる。

譲が部屋に入ってくるのに気がつくと、そのまま振り向いた。


「譲。今日は遅いじゃないか」


すると譲が答える前に、明恵が言葉を返した。


「今日はあなたが早すぎるのよ。譲はいつも塾で自習してから帰ってくるの」

「授業の後にか? 譲はまだ小学生だろう。こんな夜遅くに帰ったら危ないぞ」

「あなたはわかっていないのよ。今時の受験生は皆そうしているわ。家ではなかなか集中できないし、緊張感がある場所でした方が勉強もはかどるのよ」


明恵は冷たい言葉でつらつらと並べる。

健は険しい顔をして、押し黙ってしまった。


譲は自分の席に着いた。

譲の前にはポトフとサラダが置かれる。

健も新聞を机に置いて、テーブルに着いた。

譲と明恵の三人が揃って食べるのは土日以外には久々だ。

ただ、明恵と二人で食べる気まずさを考えると幾分マシに思える。

明恵と譲はただ黙ってご飯を食べていた。

健だけがテレビを見ながら、場の雰囲気をよくしようとたくさん話していた。

しかし、それに返事すらしなかった。

すると、しばらくして、やっと明恵が口を開いた。


「譲の模試の成績、あまりにひどかったの。譲はこれからどうずるつもりなの?」


明恵は横目で譲を見た。

譲は目線を離して、手を止めた。


「おいおい。今は食事中だろう。そういう話は後でいいじゃないか」


今度は健も加わる。

すると、明恵がひどい顔で健を睨んだ。


「後じゃダメなのよ。この後、譲はまた勉強しないといけないの。今、どういう時期かわかっているでしょ?」

「そりゃ、大事な時期だってわかっているよ。けど、ご飯を食べるときぐらいゆっくりさせてやれよ」


明恵は大きなため息をついた。


「結局、あなたは何もわかっていないのね。譲にとって中学受験がどのぐらい大切なことなのか。そして、今がどれほど大事な時期なのか」

「わかっているさ。けど、そんな切羽詰ってもいい結果にはならないだろう。大事な時期だからこそ、リラックスも必要で――」

「リラックス? 他の受験生たちが今、どんな思いで勉強しているのかわかっているの? 皆必死だわ。ご飯を食べるのも惜しんで勉強しているの。しかも、譲の今の成績ではどこにもいけないわ。誰よりも必死にならないといけないのは譲の方なのよ。それなのに悠著にご飯を食べている時点で、今、あの子達にどれほどの差をつけられていることか。時間は平等なのよ。失われた時間は戻ってこないの」

「だからって、毎日勉強詰めにしていい成績なんて残せないだろう。他の子がどうなのか俺にはわからない。けど、譲には譲のペースがある。お前がぎゃんぎゃん言って、追い詰めなくてもいいだろう?」

「私が追い詰めているわけじゃないわ。試験までもう時間がないの。ここまできて、危機感がなければ、合格なんて到底無理。あなたは譲がこのまま受験に失敗してもいいっていうの?」


健は少しの間、押し黙った。

明恵は睨みつけるように健を見る。


「俺は……、譲に無理をして受験なんてさせなくていいと思ってる。もし、辛いならやめたっていいんだ。一先ず公立に行って、高校受験で挽回すればいい」


明恵は箸を持ったまま、机を叩き付けた。

健は驚き、肩を揺らす。


「あなたは何もわかってない。中学受験で勝てなかった人間が、高校受験で挽回なんて出来るはずがないわ。勉強には緊張感や競争意識が必要なのよ。公立の中学校なんて生ぬるい場所で育ったら、ろくな高校なんて行けないし、その子の人生が決まってしまうの。私は、譲のためを思って言っているのよ。高校受験は中学受験よりも厳しい。私やあなたの子どもだもの。特別に頭のいいなんて思ってないわ。だから、中学進学の時点でいい学校にいかせて、いい環境で育って欲しいの。今、苦労するほうが後で苦労するよりもよっぽどいいわ」


しばらくの間、健と明恵は睨みあっていた。

健はどんどん気まずくなる。


「……お前がどう思っているかはわからないが、俺はお前と違って公立の中学だし、受験もしてこなかった。時代が違うと言えばそれまでだが、それで後悔したことはない。俺はただ、勉強だけが全てじゃないって言いたいんだ。譲はまだ12だし、いろんな可能性も秘めている。譲がどうしてもその学校に通いたいって言うならいいんだ。けど、そうじゃないなら、別の選択だってあるんじゃないかと思う」

「簡単な事のように言わないでよ。ここで受験を諦めたら、きっと譲は後悔する。この受験が譲にとって自信になって、これからの人生を前向きに生きることができるのよ。譲は私の子なの。だから、よくわかってる。あなたはもともとタフで、鈍感なところがあるからいいわよ。でも私たちはそうじゃないの。中学からすでに優劣がつくの。受験で成功していい学校に通う子とそうじゃない子の人生は、全然違うのよ。その間には大きな溝があって、後になれば後になるだけ辛くなる。私は、譲にそんな辛い目にあって欲しくないのよ」


明恵は必死だった。

健も明恵から目線を離して、小さくため息をつく。

明恵が本当に譲のことを考えて言っていることは、健にもよくわかっていた。

けれど、遊び盛りの子どもを部屋に閉じ込めて、勉強ばかりさせるのもどうなのだろうかとも思えてしまう。

明恵の人生はそういうものだった。

後悔もしていないだろうし、それは明恵の自信にも繋がっていたのだろう。

ただ、健もまた、そうではない人生を生きて、後悔などしていないのだ。

その部分に関しては、譲自身に決めさせてやりたいと思うのが健の思いであった。

しかし、それはきっと明恵には理解できないだろう。


「大丈夫だよ、お父さん。俺、諦めずに頑張るから」


その場で居た堪れなくなった譲が答えた。

健も明恵も譲に顔を向ける。


「譲……」

「今の成績じゃ、到底、第一希望の中学には入れないけど、まだ可能性が0ではないからさ。やれるところまでやってみるよ」


譲は小さく笑顔を見せた。


「お母さんの言うとおりだよ。俺の実力じゃ、きっと高校受験の方が難しい。少しでも今頑張っていい学校へ行った方が自分のためだと思ってる。試験が近いからさ、他の受験組みの皆、今まで以上に必死で、圧倒されているんだと思う。だから、ごめんなさい。俺、今以上にもっと頑張るよ。それが俺のためだもんね」


もう健も明恵も何も言わなかった。

ただ、黙ってご飯を食べた。

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