【絵画】私の見ている世界がキャンパスの中にある
1話 受験
明恵は優秀な人だった。
小学生の時に名門女子付属中学に合格し、中学から高校までの間も成績上位者であった。
エスカレーター式でいける大学には行かず、別の有名国立大学に進学し、大手一般企業に入社した。
何の汚点もないエリート人生を歩んでいたのだ。
しかし、会社で知り合った上司の
健は明恵の会社の下請けをしていた会社の営業部社員で、久本のお気に入りだった。
久本は兼ね兼ね、「うちの社員などはいかん。安定した職だからといって堕落しておる。金があっても、度胸がない」と言っていたので、自社の社員を明恵に勧めなかったのだ。
健との交際はとんとん拍子に運び、そのまま結婚までに至った。
それが全ての間違いだったと明恵は嘆いていた。
健は真面目な男だ。
少し気の弱い所はあるが、正直者の優しい男である。
その実直さが久本の目にとまったのだが、出世に向いていたとは思えない。
当然、当時から明恵の年収の方が勝っていて、明恵の職場方がクオリティーも高かった。
紹介されたばかりの頃は結婚する気などさらさらなかった。
会社のお世話になっていた上司の勧めだったので、やむを得ず紹介を受けたのだが、キャリアの低い男などと付き合いたいとは思わなかった。
断るに断れずにずるずるとデートを重ねていたのだが、思いのほか健は真面目な男で、明恵の知る男達の中で最も優しく紳士だった。
時間が経つたびに、健のそばにいることに居心地良く感じ始め、双方の両親との関係もうまくいっていたので、流れるように結婚してしまったが、結局のところ、健がほとんど出世することもなく、今でも明恵の年収より低い。
明恵も譲を身ごもってからは、仕事を辞め、育児に専念した。
生活は一変してしまったのである。
打って変わって、同じ頃に入社した同期の
その息子も優秀で、名門の私立小学校に通っている。
自宅は麻布にある高級マンションで、最近までは専業主婦だったが、趣味が高じてか、マダム向けの料理教室を始めているらしい。
それを聞く度に、なんとも言えない虚しさが明恵の心に過ぎった。
どうして自分はしくじってしまったのだろうと後悔する。
入社した時は、瑞穂よりも明恵の方がいい大学を卒業し、仕事も出来た。
ただ、ついた上司が違ったがゆえにこうなってしまったのだ。
自分に要領の良ささえあれば、どの上司に媚を売り、どんな男と付き合えば良かったのかわかったはずだ。
そう思うと、息子の譲には自分と同じ後悔はして欲しくないと思った。
瑞穂の息子には負けないぐらい優秀に育て、譲には何不自由ない生活を送って欲しかったのだ。
小学校の受験も考えた。
けれど、その時は夫である健が反対をした。
お金もなかったこともあるが、まだ自分の意思もはっきりしていない子どもに親の意向で私立小学校に行かせるのは納得いかなかったのだ。
近所の公立の小学校も特に問題はなく、知り合いの子どももたくさん通うので、公立に通わせることに決めた。
そして、小学校に上がり、高学年になると、明美は譲に尋ねた。
このまま、公立の中学に上がるのか、私立の中学を受験するのかと。
中学ともなれば、受験するものも少なくない。
クラスの3分の1は受験をする。
明恵の本心を知っている譲に断れるはずもない。
ここで受験をしないと言えば、母親がどれほど落胆するかを理解していた。
だから、譲は受験すると答えたのだ。
幸い明恵の英才教育のおかげで成績も悪くなく、第一志望の中学に行けない実力でもなかった。
ただ、譲自身が特に行きたいとも思ってはいなかった。
正直なところどこでも良かったのだ。
明恵が納得するなら、譲はどの中学に行こうとも構わなかった。
ただ、最近の譲の成績は伸び悩んでいた。
上がるどころか、落ちていく一方だ。
小学校6年生にもなれば、周りの受験生達も本腰で勉強を始める。
受験を希望して塾に入った頃より、受験前の今の全体の平均点が上がり、譲が追いつけないでいた。
譲は今月の模試の成績を見ながら、ため息をついた。
また、順位が下がっている。
点数も上がっていないし、志望校の偏差値に追いついていない。
このまま行けば、確実に志望校には落ち、格段下の中学ぐらいしか受からないだろう。
そうすれば、明恵がどれだけ失望するのか、目に浮かぶようだった。
譲の模試の成績表の紙を握りしめる手は、ひどく汗ばんでいた。
紙の端が汗で滲んで皺が出来ている。
譲にはもうどうしていいかわからない。
サボっているわけではない。
他の受験生達と同じように専門の塾に通い、必死で勉強していた。
仲のいい友達と遊ぶのもやめて、学校から帰るとすぐに塾に通い、授業が始まるまでは自習室で勉強した。
塾から帰っても、晩御飯を食べた後に、また勉強を始める。
たくさんの時間を勉強に費やしているというのに、なぜ自分の成績が上がらないのかわからなかった。
そんな時、同じ小学校の
譲と同じように輝の手にも模試の成績表があった。
「園田、どうだった? 俺、二つも落としちまった」
輝は苦笑いを浮かべる。
それでも輝の成績表の志望校にはB判定とついていた。
譲は奥歯を噛み締めて、成績表を手で握り締めた。
それを見た輝が驚く。
「おいおい。いくらなんでも握りつぶすことないだろう」
譲は大きく頭を振った。
「こんな成績表、いらないよ」
譲には輝が自分に同情の眼差しを向けているように見えた。
所詮、成績のいいやつには自分の気持ちなどわからないと思った。
「でも、お前のところの親はきっとそれ見たがっているぞ」
輝は譲の家庭事情をよく知っている。
明恵と輝の母親は仲がいいからだ。
だからこそ、明恵はいつも譲と輝を見比べていた。
譲は輝に返事もせずにその場を離れた。
少し前までは輝とも仲が良かった。
親同士が仲のいいこともあるが、同じように中学受験を控えるもの同士話があったのだ。
けれど、小学校6年に上がってからは、輝と譲の成績が大幅に離れるようになり、譲は輝についていけなくなっていた。
輝と成績の話をする度にそれを実感した。
譲と輝の第一志望は同じだ。
余計に気まずかった。
譲は塾を飛び出すと、もう一度成績表を広げて見つめた。
志望校の合格判定D。
この時期にここまで追い込まれると、諦めなければいけなくなってくる。
これを見た、明恵はどう思うだろうか。
息子の将来を思い、一流の学校へ通わせようとしているのに、息子がそこまでの実力がないと知ったら、絶望するに決まっている。
明恵は信じているのだ。
自分の息子も自分と同じように頭がいいと。
けれども、譲はこの歳にして限界を感じていた。
譲は頭が悪いわけじゃない。
ただ、一流の学校に進学することが難しいだけなのだ。
譲はくしゃくしゃと頭を掻き毟った。
息苦しかった。
そして、その場でしゃがみ込む。
周りで歩いていた大人たちが譲の様子を見て、足を止め、近づいてきた。
そして、心配そうに声をかけてくるが、譲はそのままずっと蹲っていた。
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