2話 トランペット

夏休みの練習は続く。

夏期講習が終わったら、急いで音楽室に向かい、練習の準備を始めるのだ。

最初は、同じ担当楽器のメンバーで集まり、チューニングをして音を合わせる。

そして、自分達のパートを演奏していく。

おかしなところがあれば、指摘し合い、その間に昼飯も済ませておかなければならない。

3時からは全体の合わせの練習が始まる。

全員が第二音楽室に集まり、顧問の竹下の指示で練習が始まるのだ。


「ホルンしっかり吹け!フルート遅れるな!サックス、リズム取れてない。トランペット、音外すなって言ってるだろう!」


竹下は激怒し、演奏を中断させた。

そして、芹那を睨みつけ、指揮棒で差した。


「おい、松本。今の部分、ソロで吹いてみろ」


芹那は真っ青になりながら席を立ち、深呼吸した。

前の席で心配そうに見つめる咲と、ひどい顔で睨みつける里紗がいた。


芹那は吹き始めた。しかし、やはり途中で止められる。


「そこ、違うだろう!お前はちゃんと楽譜見てるのか!」


芹那は小さな声で謝った。

そして、もう一度、同じように吹いてみせる。


「いい加減にしろ!お前は素人か!トランペットのメンバーもちゃんと松本の演奏を聞けよ!こんなことも注意できないのか、お前らは」


今度は、同じトランペットの担当の子達まで怒られてしまった。

彼女達はいかにも迷惑そうな顔で俯いていた。


「もういい。松本、一人で練習して来い!お前の所為で、全員の足を引っ張るな」


そう言って、竹下はひゅっと指揮棒をドアに向かって振った。

芹那はトランペットと楽譜を持ったまま、教室を出て行った。

そんな芹那を咲は心配そうに見つめていた。




芹那は一人で音楽室から遠く離れた特別校舎の踊り場で練習した。

グラウンドでは陸上部が走り、サッカー部が試合をしていた。

美術部の女子生徒がキャンバスを持って友達と楽しそう話しながら、一人練習する芹那と廊下をすれ違った。

こだまする様に廊下の向こうから、彼女達の笑い声が響いた。


芹那は何度も同じ箇所を練習する。

指がプルプル震えてうまく演奏が出来ない。

格好の悪いトランペットの音が一つ響いていた。

涙が出そうになった。


自分がみんなの足を引っ張っているという自覚はあった。

芹那は楽器演奏がそれほどうまくない。

自分に才能があるとも思えない。

それを理解しているからこそ、練習は人並み以上にしていると思う。

パート練習では、うまくいっていたはずだ。

しかし、全体練習になるとつい間違ってはいけないというプレッシャーにかられて、指がこわばってしまうのだ。

怒られれば、怒られるほど指が硬くなる。

周りからの目線も怖くなって、頭の中がくるくると回った。

こんなに下手なら、いっそうやめてしまおうかとすら思う。

ピアノのレッスンのように、諦めてしまえばいいのだ。


芹那は演奏をやめて、手に持っているトランペットを見つめた。

ぴかぴかに磨かれたトランペット。

演奏は上手ではないけれど、楽器への愛情は深いつもりだ。

最高の音を出してもらうために、毎日の手入れは欠かせない。

そんな大事な楽器を自分は手放すことが出来るのだろうかと真剣に考えてしまう。


芹那は踊り場の端まで歩き、じっとグラウンドを眺めた。

運動部の部員たちが声を張り上げながら、汗を流して練習に勤しんでいる。

芹那の目にはそれがとても楽しそうに見えた。

なら、自分はどうなのだろうかと自問自答してしまう。

自分は彼らのように、精一杯練習に励んでいるだろうかと考えてしまう。




「こら!練習サボるな!」


突然、甲高い聞き覚えのある声が聞こえた。

芹那は慌てて振り向く。

そこには咲が立っていた。


「びっくりした。驚かさないでよ」


芹那はほっと息を吐いた。

咲は謝りながら、芹那の隣に立った。


「でも、もしこれが部長だったら大変だったよ。そのために私、練習が終わった後誰よりもすぐにここに来たんだけどね」


咲は自慢げに笑う。

芹那もつい笑ってしまった。


「練習はこれで終わりだよ。芹那も今日はもう終わっていいって。ねぇ、今日は『あんみつ屋』のカキ氷食べて帰ろう。私、久々にあそこのカキ氷食べたくなっちゃった」


落ち込んでいる芹那に咲は元気付けるために、放課後のお誘いをした。

芹那もゆっくり頷く。


楽器を持って教室に戻る帰りの廊下で、里紗とすれ違った。

里紗の隣には芹那たちと同級生の女子生徒も一緒に並んでいる。

いかにもな作り笑いを浮かべて、里紗に愛想を振りまいて話していた。

里紗が芹那に気がついた瞬間、怪訝な顔をして、芹那を睨む。

芹那も咲も里紗とは目を合わせないまま、すれ違いざまに一礼した。

当然、里紗は無視をして通りすぎる。

咲はそれを横目で睨みつけた。


「なにあれ。やな感じ」


芹那は攻める気にはならなかった。

里紗は真剣なのだ。

次のコンクールまで入賞できなかったら、歴代の先輩達に面目が立たない。

里紗は真面目な女だ。

どうしても次回のコンクールで、この汚名を返上したかった。

その気持ちは芹那にも伝わってくる。

だから、場を乱す自分が許せない里紗の気持ちが理解できるのだ。




夏休みも中盤に差し変わって、学校もお盆休みとなった。

この間だけは、夏期講習も部活の練習もない。

芹那の実家は高校からかなり離れた山の中にあった。

東京なのに、田んぼの広がる田舎町だ。

すぐ近くには、山や森もあり、自然豊かな場所だった。



芹那の家は、父親の両親と一緒に暮らす二世帯暮らしで、お盆に帰省するということはなかった。

母親の実家もわりと近所にあり、一日あればいける。

家にいてもすることがない芹那はトランペットを持って、田んぼに向かった。

家で練習すると近所迷惑になる。

特にお盆は家の中にいることが多い。

それに、練習するところを家族に見られたくなかったのだ。



芹那は田んぼの真ん中へ行き、トランペットを出した。

そして、地面に楽譜を置いて練習を始める。

地面に置くと楽譜は殆ど読めないが、ほぼ暗譜していたので問題はなかった。



芹那は何度も苦手な箇所を繰り返し、繰り返し演奏していると誰かがそっと芹那に近づくのがわかった。

芹那は演奏するのをやめて、近づく人を見つめた。

見たことのない人だった。

彼女は足のシルエットのくっきり出る細身のズボンに丈の短いノンスリーブのシャツを着ていた。

今にもおへそが見えそうだった。

長い髪をふわっとさせて、前髪は長く流している。

顔つきがどことなく男らしくて、美々理を思い出させた。


「おい、ひどい演奏だな。それじゃ、トランペットが可愛そうだ」


女はにやにや笑っていった。

彼女の手にはトランクが一つ持たれていた。

大きさからして、バイオリンだ。


芹那は無視をして、演奏を再開する。

すると演奏した瞬間、女がまた叫んで来た。


「だめだ、だめだ、そんなんじゃ」


むっとした芹那は演奏をやめて、女を睨みつける。


「あなた、誰なんですか?勝手に人の演奏にけちつけないでください」

「ケチつけたつもりはない。けど、あんたの演奏を聞いてたら居た堪れなくなった」

「は?どういう意味なんですか。私の演奏が下手でもあなたには関係ないでしょ?嫌なら離れてください。私は練習しなければならないんです」

「でも、今のあんたじゃ、何度練習したって無駄だよ」


芹那は更に腹を立てて、女に叫んだ。


「あなたに何がわかるっていんですか!いい加減なこと言わないでください!!」


女はあきれた顔で芹那を見た。

何もかも見透かしたような顔だ。


「あんたの音楽が最低なのは、幼稚園児でも理解できる」


女はそう言って、芹那に近づいた。

芹那は警戒して、身を硬くした。

そして、女は芹那の持っているトランペットを眺めた。

それはとても穏やかな顔だった。


「そのトランペットは大事にされているんだな。ちゃんとあんたの愛情を感じる。けど、あんたにそんな風に演奏されたら、トランペットもがっかりするだろうな。だって、あんたの音からは愛情を感じない」


芹那は女の言っていることが理解できなかった。

まるで、この女は楽器と会話しているように見える。


女は徐にケースからバイオリンを出した。

そして、その場で突然、弾き始めたのだ。

芹那は驚き声も出なかった。


女はすごい勢いで弦を引き始める。

足は軽やかに、踊るように動いた。

音はどこまでも響き、優しい波のように続く。

リズムをとるように大きく身体をくねらせていた。

しかし、それが全然おかしくなく、むしろ女は身体全体を使って演奏しているみたいだった。

女が音に合わせるのではなく、音が女を受け入れ合わせているかのよう。

そんなはずはないのに、確かにバイオリンは女の期待に答えていた。

上手いとか下手とかそういう次元ではなかった。

芹那の音楽とは何かが違う。

何が違うか、わからなかったが、芹那は女から目が話せなかった。

バイオリンだけだ。

バイオリンだけなのに、そこはオーケストラのようで、周りの稲たちもバイオリンの音楽に合わせるように揺らいだ。

風が彼女のために吹いているようだ。



彼女の演奏が終わると、芹那は息を止めていることに気がついた。

いっきに息を吐き、苦しい。

女は芹那を見て、笑った。

芹那は呆然と女を見つめる。


「音楽は楽しむものだろう。そんなに辛そうに演奏したら、どんな名曲だって駄作になっちまう。音楽は身体で感じろ。無理をして演奏をするものじゃなくて、音に寄り添うように、歌うように奏でるんだ。そんなギスギスした動きじゃ、音楽はこたえちゃくれない」


芹那には女がキラキラ光っているように見えた。

芹那の頬から汗が流れる。

あの時に似ていると思った。

新入生歓迎会の日に見た、美々理の姿だ。

けして主役とは言えないサックスだったけど、彼女の演奏する姿は誰よりも格好良くて、誇らしげだった。

それは、彼女が心から音楽を楽しんでいるからだ。

それを知っていたはずなのに、芹那は必死に練習している間に忘れてしまっていた。


「忘れるな!音楽は自由なんだ。いっそう楽譜なんて捨てちまいな。まずは心から音楽を楽しむことだ。音楽に合わせて踊り、音楽に合わせて歌う。そうすれば、音はあんたに合わせてくれるさ。そうしていくうちにわかってくるんだ。その音楽を作ったやつの気持ちを。どのような情景を想像して、どんな思いを持って曲を作ったのか。わかれば、ちゃんと楽譜どおり演奏できる。楽譜にはその人の想いが入っている。言葉に出来ない想いが。我々演奏者は、その想いと共に演奏しなきゃならない。その想いを届けないといけない。その想いが届いたとき、初めて感動に変わるんだ」


芹那の瞳から涙が零れた。

何が悲しかったのかはわからない。

ただ、涙が溢れた。

女は驚き、あたふたしている。

心の中で必死に止めていた何かが涙と一緒に溢れる気がした。

悩んでいたはずなのに、彼女の演奏と共にその重い靄が一緒に消えていってしまったようだった。

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