3話 才能
女の名前は、滝川夏美と言った。
泣いている芹那をどうしていいかわからずに、一先ず彼女の下宿先のアパートに向かった。
そこはひどいぼろアパートだった。
玄関は一つだけあり、そこには8つの個室と共用お風呂とトイレ、そして管理人の部屋のある長屋だった。
表には看板に『メゾン・ド・リベルテ』と彫ってあった。
「おお、なっちんが女の子連れて来たぞ。誘拐か? 拉致監禁か?」
突然、現れたのはほっそりとした身体の女だった。
縁の太い眼鏡に無造作に束ねられた髪。
年齢不詳の女だ。
「おい、芽衣子。物騒なことを言うな。今知り合った音楽仲間だよ」
「ほほぉ。女子高校生かな。私は牧野芽衣子。なっちんの親友だよ」
芽衣子は芹那に握手を求めた。
芹那もとりあえず挨拶をして、握手を受ける。
そして、部屋に入るように促された。
一瞬躊躇いがあったが、女ばかりの下宿だというのでとりあえずお邪魔することにした。
「おいおい、なんだ? お客か?」
そこに顔を出してきたのが、105号室の板橋智代だった。
夏美と芽衣子が智代を見つけるとすばやく彼女に駆け寄り、夏美が確保する。
そして、智代の部屋の扉を開けて、芹那に中に入るように勧めた。
智代は夏美の腕の中で暴れている。
「お前ら、また、私の部屋を使おうとしてるだろう! いい加減にしろ! 私の部屋は酒飲みのたまり場じゃないんだ!」
芹那は呆れながら、部屋に入っていく。
なんだか、夏美も芽衣子も楽しそうだ。
芹那は芽衣子に勧められるまま、ちゃぶ台の前に座った。
遅れて、夏美と智代も入ってくる。
芽衣子は席を立って、101号室の田中亜紀にお茶を入れてもらうように頼みに行った。
夏美の隣で、智代がぶすっとしている。
そして、芽衣子が部屋に戻ってくると芹那の持っていたトランクに気づいた。
「おお、これは何かい? 楽器みたいだね」
芹那はなんていえばいいかわからず、慌てた。
すると代わりに夏美が答える。
「トランペットだよ。私の部屋にもあっただろう」
「へぇ、じゃあ、芹那ちゃんは楽器が演奏できるんだ。すごいね」
「いえ、そんな。音楽は好きだけど、私はあんまり才能なくて……」
芹那はぎゅっと手を握り締めて、下を向いて話した。
自分が人様に音楽をやるなんて恥ずかしくて言いたくなかった。
「才能……、ね。そんなの普通の高校の生徒じゃ、わからないだろう」
芹那はぱっと顔を上げる。
目線の先には苦笑した夏美がいた。
「でも、本当に下手で。部活の皆にもいつも迷惑かけてるんです。部長にも顧問の先生にも練習の度に怒られるんですよ」
「怒られるってことはいいことじゃないか。期待されてるってことだろう?」
「私の場合は、違います。一人で練習するときはいいんです。でも、皆で練習するときはいつも失敗しちゃって。しかも初歩的なところなんです。これ以上迷惑かけられないし、最近は部活もやめたほうがいいのかなって思ってます」
4人は皆黙ってしまった。
そして、息をついた夏美がゆっくり答えた。
「芹那はトランペット好きじゃないのか?」
「好きです!」
芹那はすぐに答えた。
それは嘘じゃない。
「音楽は好きか?」
夏美の質問に、芹那は戸惑う。
好きだと思ってきた。
しかし、部活で練習をしているときは、ものすごく苦しかった。
楽しいなんて思えなかった。
だから、ちゃんと返事が出来ない。
「あたしは、芹那が音楽を好きだと思った。ぴかぴかに磨かれたトランペットも何度も何度も読み返された楽譜も、音楽と必死に向き合おうとしている芹那の姿が見えた。音楽に下手も上手いもないんだ。そりゃ、私も昔は必死で練習したし、いろんなところで苦しんだ。しまいには音楽に殺されるんじゃないかと本気で思ったよ。けど、それじゃいけないって思えたんだ。音楽は楽しめなきゃ意味がない」
今度は横にいた芽衣子も加わる。
「確かに。音楽って『音』を『楽しむ』って書くからね。ヘルマン・ヘッセがこんなことを言った。『詩は音楽にならない言葉であり、音楽は言葉にならない詩である』。実に芸術的だね。音楽は詩の様に奏でればいいのじゃないかな。心を込めて、愛を込めて。それだから、音楽は素晴らしいと思う」
「私はあの言葉が好きだな。バッハの言葉。『音楽だけが世界語であり、翻訳される必要がない。そこにおいては魂が魂に話しかける』」
夏美も思い出したように答えた。
「音楽の本質的な部分はそこじゃないかな。音楽は、人間が、いや、音を聴くことが出来るすべての者達の特権なんだよ。音楽があれば、たとえ言葉が通じなくても理解することが出来る。自分達の嬉しさや喜びが音でたくさんの人に届けられるんだ。それを忘れなければ、きっとあんたはいい演奏者になれるさ」
夏美の小さな微笑に見入ってしまった。
芹那には夏美がたくさんの何かを潜り抜けて、ここにいるのだろうと思えた。
だから、彼女の音楽は感動するのだ。
すると、一人の女性が智代の部屋を覗き込んできた。
今までで唯一、女性らしい女性だった。
他の人たちはどことなく、女らしくは見えない。
しかも、彼女は美人だ。
「入ってもよろしかったかしら? 頼まれたお茶、持って来ましたよ」
智代がドアを開けてやる。
そのまま、彼女がお盆のまま机にのせて、グラスを配った。
そして、芹那に笑顔を向ける。
彼女が101号室の亜紀だった。
「あ、そうだ。なっちん、折角なんだし、あれをしよう!」
「あれって…。ああ、アレね」
夏美は芽衣子に言われて思い出し、席を立った。
智代も亜紀もわけもわからないまま、部屋を出て行く夏美を目で追った。
そして、戻ってくると手にはたくさんの楽器を持っていた。
タンバリンを芽衣子に、マスカラを亜紀に、アコースティックギターを智代に渡した。
「ま、まさか、またアレをするのか?」
いやな予感がした智代は叫んだ。
夏美以外に智代だけがここに住む住人で、音楽が唯一弾けた。
智代の横で、亜紀は嬉しそうにマラカスを振っている。
芹那はわけもわからず、戸惑っていた。
そして、タンバリンを持つ芽衣子が芹那に話しかけてきた。
「芹那ちゃん、『カントリーロード』わかる?」
「ジョン・デイバーの『Take Me Home, Country Roads』ですか? あれ、一度ジブリの『耳をすませば』で流行った曲ですよね。私も友達と真似して覚えました」
「おお、そうです! そうなんです! ジブリの映画はどれも素晴らしい。私は特に宮崎駿監督のアニメが大好きです。でも、高畑勲先生の作品も捨てきれない。趣のある、いい映画ばかりなんですよねぇ。さすが、芽衣子さん! なんたって、『耳をすませば』は主人公雫が小説を書きながら、恋をしていくお話ですから。聖司君がまた格好良くて、胸がきゅんきゅんしちゃいますぅ。あのアニメには聖司君が雫の前でカントリーロードをヴァイオリンで演奏するシーンがあるんですよね。それが、あの映画の醍醐味ですよ。原作は
突然、現れて意味のわからないことばかりを言うジャージ姿の女性に芹那はビックリした。
彼女は、この部屋の隣の住人である、103号室の堀口知香だ。
知恵はいつも何かに察したように、突然芽衣子たちの前に出没するのだ。
夏美は早速、知香にリコーダーを渡す。
知香はなぜだか、リコーダーを持ってはしゃぎだした。
そして、最後に夏美が持っていたヴァイオリンを取り出して、芹那を見て、一つ頷き、演奏し始めた。
芹那は慌てて、声を出す。
「ちょっと、ダメですよ。トランペットで『カントリーロード』は無理です!」
「なら、歌でもいい。楽器なんてなんでもいいんだ。楽しく演奏できたら、それでいい」
夏美の言葉に理解できないまま、夏美の音に皆が乗っていく。
芽衣子はタンバリンを叩きながら歌いだした。
亜紀も楽しそうにマラカスを振る。
智代はギターを奏で、知香は半分、むちゃくちゃだ。
芹那も勇気を出して、トランペットを取り出した。
そして、夏美に合わせて演奏する。
そうしている間に、音を聴きつけたほかの住民がやってきて、そばに合ったグラスを並べて叩いたり、ドアの前で立ち、手を叩いていたりした。
音楽が一つになる。
誰も上手じゃないのに、音楽がのる。
夏美のヴァイオリンが響き、トランペットが歌う。
めちゃくちゃだ。
こんなの合唱でもなんでもない。
それでも、なんだか心がうきうきした。
演奏が終わると、全員で声を上げて拍手する。
気づけば、芹那の顔は笑顔でいっぱいになっていた。
「あんたたちぃ! いい加減にしなさいよ! うるさいったらありゃしないよ」
玄関から、近所のおばちゃんが怒鳴り込んで来た。
皆が一声に静まり返り、苦笑いを浮かべた。
そして、夏美と芽衣子が智代の背中を押して、謝罪させに行く。
最初は暴れていた智代だが、おばさんの怖い顔を見たら、素直に謝っていた。
残った芹那たちは声を殺して笑った。
おそらく、芹那のトランペットが一番うるさかったと思う。
けれど、それは黙っておくことにした。
夏美も芽衣子ものんだっくれて、いつの間にか寝てしまった。
帰りが遅くなったので、夏美の代わりに智代が送ってくれた。
「皆さん、本当に面白い人ばかりでした。今日は楽しかったです。ありがとうございます」
夜道を智代とともに歩く。
今日会ったばかりなのに、まるで前からよく知っていた人たちのようだった。
「気にすることはない。あいつらはああいうのが好きなんだ。でも、正直なところ、私には芹那の気持ちわかるよ。私もさ、ずっと写真家を目指して生きているんだ。いつかは写真で生きていきたい。今も、関わっているけど私の写真自体が認められたわけじゃないんだ。長い間努力しているつもりでも、なかなか結果が出ないと、やっぱり私には才能ないのかって思う。けど、やっぱり写真を撮ることが好きなんだ。そして、私の写真で私の見たこの世界の美しさを誰かに伝えたいと思う。それは芹那も一緒じゃないのかな」
芹那は呆然と智代を見ていた。
「あいつらはさ、みんな売れない芸術家なんだ。これからだって、ずっと売れないかもしれない。けど、後悔なんてしていないよ。お金にならなくても私たちは、その芸術そのものを謳歌している。心から楽しんでいる。だれも辛そうに生きてなんていないんだ。お金もないし、ボロアパートだし、バイトだし、世間から見たらいいところないけどさ、私たちにとってこの生活は、きっと理想なんだよ」
智代は笑った。
屈託のない素直な笑みだった。
きっと、あの『リベルテメゾン』の人たちには迷いはない。
今まで散々、迷って苦しんで、その先に彼女たちがいるんだと、芹那はそう思った。
そして、今度こそは自分達も楽しめる音楽にしようと心に決めた。
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