4話 芸術家の想い

知香に案内されるままに武はついて行った。

授業もサボってしまったし、バイトも今日はない。

家に帰ったらネームを仕上げようと思ったが最近スランプで描けていない。

なら、知香が自分の部屋を見せてくれるというのでついて行こうと思った。

しかし、女性の一人部屋に行くのは少し気が引ける。

知香が自分よりだいぶ年上であることはなんとなく察していたが、女性であることは変わりがないのだから、多少の遠慮は必要だろう。


「そんな遠慮はいらないですぞ」


知香は電車の中であっさり答えた。

彼女は高円寺駅から徒歩10分ほどの距離に住む、ある漫画の作家のアシストをしているらしく、校了日が近かったので徹夜をした帰りだった。

なんとか仕上げまで出来て、編集にOKをもらうと知香はそのまま武を探しに来た。

徹夜明けなのに元気であることが不思議だった。


「遠慮はいらないって……」

「私の家は長屋なのでありますよ。玄関も風呂もトイレも共用で、家賃は2万」


2万と聞いて驚く。

この東京で家賃2万と聞いたら、事故物件か今にも倒れそうなボロアパートしか考えられない。

しかし、シェアハウスなら、値段は多少下がるのが妥当だろう。


「そういえば長屋のようなアパートに住む漫画って多いよな。例えば、「鳴滝荘」とか「合川荘」、「ひだまり荘」や「寿荘」とか…」

「おお、さすがですな、武殿。「鳴滝荘」は 小島あきら先生の「まほらば」ですね。そして、「合川荘」は 宮原るり先生の「僕らはみんな河合荘」で「ひだまり荘」は蒼樹うめ先生の「ひだまりスケッチ」。そして「寿荘」は香月日輪先生の「妖怪アパートの幽雅な日常」は漫画ではなく、小説が原作でしたね。とにかく、漫画にも小説にも長屋的アパートは多いわけです」


武は自慢げに話す知香に感心する。

いくら漫画好きだからと言って、作者や作品名がすらすら出てくるのは異常だ。


「あんたはアシスタントの仕事をしながら、自分で漫画描いて、そうやって漫画もいろいろと読んでるのか?」

「はい。どの漫画も素晴らしくいくら読んでも読み足らないぐらいです。漫画はすごいのですよ。その中に一つの世界が入っていて、幾人もの人物の人生を描いている。私たちの世界なんて、自分の人生、頑張っても家族の人生しか見ることができないのに、漫画はそこに世界を作ってしまうんです。神の所業です!」


確かに物語を描くというのは創造神になるのに近い。

一から人物を立ち上げて、そいつの人生を描いていく。

自分ですら進んでいない向こうの未来まで予測して描くなんて、確かに神の御業だ。


「今から行くアパートには私のたくさんの仲間が一緒に住んでいます。彼女たちはとても魅力的な個性を持ち、そして夢を持っています。どんな夢かわかりますか?」

「夢?」


武は突然の話できょとんとする。


「私の住む「メゾン・ド・リベルテ」は、いろんな芸術家が集まる場所なんです。私同様に芸術家と言ってもそれで生計をたてられている人は一人ぐらい。みんな名も無きアーティストなんです」

「なら、プロになりたいとか、それで食べていきたいとか、そういう夢?」

「普通の人ならそうなんです。芸術家にとってそれで食べていくことは夢で目標です。私もアシスタントではなくて、プロとして自分の作品を世に送りたい。けど、違うんですよ」


彼女はにっこり笑って言った。


「彼女たちの夢は自分に正直に生きること。本当に好きなことを心から楽しんで生きることです。その為に彼女たちには芸術があります。誰かに認められる芸術があったとしても、それが自分の本当に満足できる作品でなければ意味がないんです。お金儲けは二の次です。自分が好きなことをするために、生きていくことをするために必要だから求めますが、そうでなければ、私たちはただひたすら自分の満足する作品を作り続けたいと思っています」


だからと彼女は繰り返した。


「私は武殿が漫画を諦める理由など全くないと考えています。親が認めてくれないとか、周りが認めてくれないとか、そんなことは関係ない。だって君は君が書きたくて漫画を描いているんです。君が初めて漫画を描いた時、それが誰かに認められるために描いたものでしたか?」


知香の質問に武は首を横に振る。

最初に描いた時はただ憧れたから。

漫画の世界に憧れて自分も漫画を描きたいという衝動でしかなかった。

そして、その漫画が完成したことに喜びを感じていた。


「作品を描いていくとね、気が付かないうちに人は周りの目を気にするようになるんです。これは芸術だけじゃない。きっと生きるということ自体がそうなんだと思います。自分一人だった世界から、自分以外の他人のいる世界を知って、そしてその他人と自分を比べるようになる。社会に出れば、毎日が競争で優劣を付けられる。だから自然と上に行かなきゃ、誰かに認められなきゃって焦ってしまいます。でも、それって最初の自分を世界に忘れてきているんですよ。私たちは競争をするために生まれてきたわけじゃない。私たちは人生を楽しむために生きて来たんです」


彼女はそう言って笑った。

何かの漫画で言っていた。

人は幸せになるために生きてるんだと。

そんなの綺麗ごとだと思って来たけど、そうでありたいという気持ちはある。

いつの間にか世間に合わせて、自分を見失っていた。

知香はたとえ、このまま自分の漫画が評価されなくても満足して死んでいくのだろう。

それに比べてと武は迷った。

やりたいことがわかっているのに、評価をされないから辞めるなんて贅沢な事なのかもしれない。

頑張れないわけじゃない。

知香のように自分に正直に生きることだって不可能なわけじゃないのだ。





気が付くと随分遠い場所にやってきた。

何度か電車を乗り継いで降りた場所は大きなキャベツ畑に囲まれた場所だった。

線路は一つ。

ホームも一つ。

駅は無人で、とても小さかった。

ここは本当に東京なのか疑わしいぐらいだ。

知香について歩いて行くと、数は少ないながらも何人かとすれ違った。

余所者は珍しいのか、大人たちがじろじろと武たちを睨んでいる。

こんな田舎に余所者が来たのでかなり警戒されているようだ。


知香が案内した場所は確かに長屋だった。

全体が木造で簡素な作りだ。

入り口は一つで、奥にはシャッターのようなものが付いていた。

入り口の前には手作りの看板。

女性がシェアしているマンションには見えない。

しかもここは都心から1時間ぐらい離れた場所だ。

正直、この立地なら家賃2万も納得した。


知香はその数センチ開けっ放しのアルミ製の扉を無理矢理開けた。

ゴロゴロと嫌な音を鳴らす。

玄関にはなぜか大量の女ものの靴が並び、多くは奇抜なデザインのものだ。

知香が声をかける前から、誰かが長屋の玄関に現れる。

それは細身で地味な格好の女だった。


「知香、おっかえりぃ」


彼女はにこにこしながら知香を出迎えた。

そして、その後ろにいる武をじっと見つめた。


「おやおや、知香までお客さんを連れてくるようになったのかい? しかも珍しく男の子とは、やりますなぁ」


彼女はにやにやと笑い、知香と武を眺めている。

武にはすごく気まずい環境だ。


「芽衣子は相変わらず家にいるんですね。仕事はどうしましたか?」


知香は目の前の女、芽衣子に質問する。

そう、芽衣子は本来この時間は本屋で店番をしなければいけない時間なのだ。


「なんか、千代のばあさんがぎっくり腰で店が休業になってな。私以外は、靖子ぐらいしか家にいない。後はみんな仕事だけど、夕方ぐらいには帰ってくるんじゃないいかな?」


芽衣子はそう適当に言った。

しかし、ここで問題となるのはこの武をおもてなしできるのが、目の前の知香と頼りなさそうな芽衣子しかいないということだ。

靖子は基本部屋から出ないし、人と話をすることは少ない。


「とりあえず私の部屋に行きますか?」


知香はそう言って玄関で靴を脱いで部屋に上がった。

武もとりあえず、靴を脱いで開いているスペースに靴を並べた。

開けっ放しになっていた扉も力づくで閉める。

知香の後ろに立っていた芽衣子が笑いながらお礼を言って来た。


知香の部屋は1階にあった。

開けた瞬間、いろんな匂いが漂ってくる。

主にインクや塗料などのシンナーの匂いだ。

薄暗い部屋には壁一面に手作りの本棚が壁に直接取り付けてあった。

ちょっとした漫画喫茶かと思えるほどぼ漫画の量だ。

それは本棚に収まりきらず、床にまで散乱していた。

窓越においてある机にライトボックスがおいてあり、原稿が散乱していた。

知香は相変わらずパソコンやタブレットを使わずに手書きで漫画を描いていた。

スクリーントーンもたくさん買えばきりがない。

武が知香の原稿を拾い上げると、ほとんどが手書きで仕上げていた。


「背景はアシスタントをしていると技術が身に着くのですよ。アシスタント仲間から、いらなくなった昔のスクリーントーンとかもらえば、少しでも節約もできます」


知香はお金がなくても絵を描いていた。

閉まらなくなった押し入れの中には更に漫画たら雑誌やら詰まっていて、その中にいくつかのノートがあった。

それは知香が描いた昔の漫画だった。

武にも身に覚えがある。

小学生の頃は原稿用紙なんて買えなくて、ノートに鉛筆で漫画を描いていた。

それはものすごくくだらないものだけれど、武もちゃんと捨てないで持っていた。

なんとなく捨てる気が起きなかったからだ。


「私の家は母子家庭です。母は未婚で私を生みました。仕事も夜が多かったので、私は家で一人でいることが多くて、そんな私に母は一冊の漫画雑誌を買ってくれました。私はそれに感激して、何度も何度も本がぐちゃぐちゃになるまで読んだんです。それを見た母が、今度は別の漫画の単行本を買ってくれて、それからはちゃんとお留守番が出来るようになったらご褒美に漫画を買ってくれるようになりました。だから、私にはずっと漫画しかありません。母は私と会話をすることもほとんどなく、クラスメイトとも打ち解けず、私の頭は常に漫画の中。休み時間は一人でノートに漫画を描きました。ノートも安くないので近所の知り合いのおばちゃんに裏が白紙のチラシをもらったり、学校の先生がもういらないと言った排紙をもらったりして、そこに描いていきました。漫画が私の世界だったのです。だから、自分が描くことも必然で、漫画家になるという未来しか私には描けなかった。武殿のように大学に行くとか、就職するとか思いもつかなくて、私にできることはこれだけですから」


でもと言って、近くに落ちていた自分の同人誌を拾った。


「後悔とかないです。私は漫画が好きですから。好きだということが私の唯一の誇りなんです。何かの賞に上がるとか、たくさんの人に評価されるとか、それはやっぱり嬉しい事ですが、それにとらわれて、大好きな漫画を捨てるのだけは嫌なんです。私は誰よりも漫画が好き。それだけは負けない。誰が何と言おうが私には揺るがない物があるんです。私は漫画の描く大変さも辛さも知っています。徹夜なんて始終だし、手が腱鞘炎になることもあります。だから、わかるんです。多くの漫画家が私と同じように大変な思いをしながらも、一つの作品を作るために努力していることを。だから、どんな漫画家にも尊敬が出来る。作品を心から愛せるんです」


大学に来てずっとふざけていた知香だが、こうして家に連れてきて武に自分の本音を打ち明けてくれた。

そんな人は今までいただろうか。

自分と同じように周りに惑わされ、周りに踊らされて、他人の眼ばかり気にしていなかっただろうか。


そんな時、ひょいと芽衣子が顔を出してきた。

そして、一本の鍵を見せる。


「おっちゃんに智代の部屋の鍵借りて来た」


それに気が付いた知香が振り向き、親指を上げた。


「ナイスです!」


何のことかわからないまま、武は交互に二人を見た。


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