3話 講義の抗議

それは突然起きた。

夏休み明けの大学の講義で、あの女が大学にまでやって来たのだ。

手にはあの捨てられた冊子を持ち、格好は相変わらずのおさげに黒ぶち眼鏡。

上下は赤のストライプジャージ姿でものすごく目立った。

武は言葉を発することが出来ず、ただ茫然としていた。

隣りの席にはマン研の藤堂が座り、教室にいた生徒たちも皆こちらに注目していた。


「待たせたな」


彼女は仁王立ちして腕を組む。

その顔は実に真剣だった。


「いや、なんかピッコロのスタイルでそのセリフ言うのやめましょうよ」


すると彼女はガクッと膝をついて頭を抱えた。


「ああ、私としたことが。鳥山明とりやまあきら先生の『ドラゴンボール』でピッコロが遅れて登場するシーンをついイメージしてしまった……」


隣りにいた藤堂もどう接していいかわからず困惑していた。


「誰だよ、こいつ……。きめぇ」


すると再び彼女は立ち上がって、武にあの冊子を見せる。

武は顔をそらした。


「なんでわざわざそんなもの持って来たんだよ。いらねぇって言っただろう」


武がふてくされたように言うと、今度は武の前に500円玉を置いた。


「君はこの作品を捨てたわけじゃない。これは私が君から買ったのです」


彼女はそう言って、武を見た。

床に落としたそれは、少し変形していて汚れていた。


「はぁ、それ武の漫画じゃねぇか。わざわざ金払いに来たの? 律儀だねぇ」


横で見ていた藤堂がからかうように言った。

武は言葉を失う。


「私がこの漫画に価値を付けた。だからお金を払いに来た。当然でしょ?」


彼女はなんの迷いもなくそう言った。

とても不思議な女性だった。

武は恥ずかしくなって、椅子から立ち上がり、彼女の腕を引いて出口へと歩き出した。

後ろから、藤堂の呼ぶ声がしたが無視をする。

武が出ていくタイミングで、講師の先生が教室に入ってきたが、それでも武はとどまろうとはしなかった。




足早に館内から出て来たので、武は息を切らしていた。

そして、キャンバスの屋外にある木陰のベンチに座る。

彼女は何事もなかったように飄々した顔で立っていた。


「で、あんたなんだっけ。穴熊太郎? なんかへんなペンネームだったよな」


彼は息を切らしながら、彼女に質問する。


「は、東京都杉並区西萩南出身!! 堀口知香です!」


知香は右の拳を胸に当て、左の拳を腰に当てて、軍人のように答えた。

これには、武も呆れるしかなかった。


「それってサシャ・ブラウスの訓練兵団入団式の場面だよね」

「いやはや……、つい諫山創先生の『進撃の巨人』の彼女の名場面を思い出してしまった。さすが、武殿。この名シーンにすぐに気づくとは」


武は自分の名前を聞いて驚く。

自分は知香に自己紹介などしていないからだ。


「ああ、もしかしてペンネームの方がよろしかったですかな。たしかぁ――」

「いやいや、いいから!」


急に恥ずかしくなって、武は知香の言葉を閉ざす。

こんなところでペンネームを出されたくない。

考えてみれば、あの同人誌は大学のサークルで出版したもの。

同人誌の最後のページには大学で使用しているメールアドレスが付いていた。

おそらくそれを見てこの大学の事を知ったのだろう。


「東京落合大学のマン研に寄らせていただいて、この冊子を見せたでござるよ。そしたら、武氏はここにおると教えてくださったので、着た次第であります」


武は大きなため息をついた。

とんでもない厄介者と知り合ってしまったみたいだ。

彼女は物珍しそうにキャンパス内をきょろきょろと見ていた。


「大学はそんなに珍しい?」


武は知香に訪ねる。

知香は大きく頷いた。


「はい。自分は大学には通ったことがない故、こういう場所に来るのはとても楽しいのでござる」


知香はキラキラした目でキャンパス内を眺める。

武にはどうも知香のテンションと独特の話し方についていけない。


「武殿は偉いですな。漫画を描きながら、大学でも勉学に励むとは。感心、感心なのですよ」

「別に大学なんて来たくて来たわけじゃないよ」


武はそうはっきりと答えた。

それに対し、知香は不思議そうにしている。


「俺はずっと漫画を描いていたかった。けど、親が嫌がんだよ。結局、俺はコミケでも漫画が売れない。親の言う通り、大学卒業して、適当な会社に勤められればいい」


彼は投げやりにそう言った。

知香は一瞬立ち止まり、まっすぐ武の目を見ていった。


「親には親の人生がある。お前のはお前の人生がある。お前が背負う必要があるのは、お前の人生だけだろう」

「それって……」

三田紀房みた のりふさ先生の『ドラゴン桜』の名台詞です」


武は再び大きなため息をついた。

どうしても目の前の女は漫画を絡めないと話せないらしい。


「喋りかけるなとは言わないが、その漫画のネタ絡めるのやめてくれない?

漫画ネタ禁止!!」


武はそう言って知香に指さした。


「ええーーーっ」


知香はちょっと嬉しそうに答える。

武はそれが不気味でならない。


「それは天野こずえ先生の『ARIA』の愛華ちゃんの「恥ずかしい台詞禁止!」の応用編ですねぇ」


知香は自分の身体を抱きしめてくねらせた。

本当に気持ち悪かった。


「ってか、あんまり漫画ネタばっかり話すならお金をとり……」


その言葉を言った瞬間、武に悪寒が走った。

知香が目を光らせてこちらを見ているからだ


「そ、それは ふじた先生の『ヲタクに恋は難しい』のヲタク用語封印縛りですね。500円とはなかなか高いですが、これも最後のお楽しみのためと考えると、アリです!」


知香は涙を流しながら、親指を立てた。

この頭の中漫画100%の女をどうしようか本気で迷った。


「とにかく、俺は今回のコミケに賭けてたんだよ。でも、結局買ってくれたのは付き合いで買ってくれたサークル仲間とサイトをフォローしてくれてる唯一の読者だよ。だから結局3冊。あんたの合わせても、4冊だ。本気でこんな漫画に価値があると思うか?俺には漫画の描く才能なんてないんだ。もう、これで辞めようと思う。大学3年になったし、就職活動も忙しくなるだろ」


武の頭に微かに自分の部屋に散らばっている漫画の道具を思い出した。

最近ではめっきりタブレット使ったデジタル作成した漫画だけど、未だに漫画に関するものは一つも捨ててはいない。

諦めたいとは思ってはいないけれど、目の前の数人がいい漫画だねって言われたって漫画で生きていくことは出来ないのだ。


「武殿」


知香は真顔で武の名前を呼ぶ。

武もそっと顔を上げる。


「最後まで希望を捨てちゃいかん。諦めたらそこで試合終了だよ」


二人は少しの間、黙って見つめ合った。


「生涯で一度は言いたい漫画の名台詞だよな」


武は少し怒っている。

どこかで言うとは思っていたが。

逆に知香は舌を出してふざけている。


「井上雄彦先生の『SLAM DUNK』の安西先生の名台詞ですよ。この言葉を知らない日本人はいないのではないでしょうか?」


知香はうきゃうきゃしながら一人騒いでいた。


「もう良いだろう。その本はあんたに売る。金も貰ったし。だから、とっとと帰ってくれ」


武はそう言ってベンチから立ち上がった。

そして荷物を持って再び校内に入ろうとした。

しかし、知香がそんな武の腕を掴む。


「本当に諦めていいのですか?」

「は?」


今度はどんな漫画のセリフを言ってくるのかと思った。

しかし、そんな様子は知香にはなかった。


「君にとって漫画とはその程度の物なんですか?」

「その程度って…」

「君は今までの人生をかけて漫画を描いて来たんですよね!?」


知香は武の顔を力いっぱいの顔で話す。

逆に武は目をそらし、鞄のベルトをぎゅっと握った。


「漫画を一度だって描いたことのない人間の意見なんて知らない。けど、私は漫画を描くという大変さも辛さも知っています。漫画は小説のように内容が決まればすぐに形にできるものではありません。内容を考えて、ネームに起こして、正書して、ペン入れして、ベタぬって、修正をしながら、トーン貼って、その1マスに、その1頁にかける時間も労力も全てを注ぐ。読む方は一瞬でも私たちにとって漫画の1コマは一瞬じゃない。読んでいるだけの人はそれを知りません。どんな思いで武殿がこれらの漫画を仕上げたのか、見ているだけの人はわからないのです。だからって君がその努力を簡単に捨てていいのですか?」

「簡単になんかじゃない!!」


武は腕を強く振り払った。

知香も驚き、手が止まる。


「簡単に諦められる奴なんているかよ。そうだよ。俺は今までの時間、全部漫画に費やした。バイトで稼いだ金も皆が遊んでいる時間も全部全部だ。それでも、そんなに努力しても漫画で認められる人間はほんの一握りなんだよ。努力なんて過程でしかない。俺都合でしかない。読んでもらえない漫画はゴミと一緒だ!」


知香は完全に固まっていた。

武も校内に向かう足が止まったままだ。

自分で言っても悔しい。

こんなことしか言えない自分がすごく情けなくて、格好悪かった。

すると知香の顔が一瞬にして暗くなって、今にも泣きそうな顔になった。

武は驚き、戸惑う。


「漫画はゴミじゃないです。周りがどんなに駄作と言われようが、完成度が悪かろうがゴミなんかじゃない!! 私たち漫画家はいつだって命懸けで漫画を描いているんだ!」


知香はそう叫んだ後、顔を上げる。

周りにいた学生も何事かと集まってきた。


「命削って描いた漫画を自分でゴミだなんて言わないでくださいよ。誰が何と言おうとそれは君の魂がこもった作品、子供と一緒です。まずは自分が一番に愛してあげなければいけない存在です。そこには見えないかもしれないけど、君の努力と時間と想いが詰まっています。それだけの情熱があるなら、他人の評価に踊らされたり、誰かの偏見に心傷つけられる必要はないです。諦める時は漫画を本気で嫌いになった時でいい」


武は何も言えなかった。

知香もおそらく本物の漫画家だ。

コミケで本を出版しているぐらいだからプロではなく、アマチュア作家なのだろう。

しっかりとは見ていなかったが、知香の絵は綺麗だった。

表紙に描かれた登場人物は生き生きしていて、今にもアニメのように動き出しそうだ。

それ以上に、彼女の漫画はどこか楽しそうなのだ。

知香がどんな想いをして描いたのか、きっと彼女以外知らない。

けど、同じ漫画の描く努力をしてきた奴なら、少しは彼女の漫画への想いが伝わるだろう。

同じ苦労を知るものだから言える言葉。

きっと漫画や物事を知った気で評価した奴らにはわからない世界だ。


だんだん野次馬が集まってきたので、知香はもう一度武の腕を掴んだ。

そしてそのまま校門へ向かう。

武はされるがままについて行く。

ここでまた口論になっても恥ずかしいだけだ。

武も授業の事は諦めて、知香について行くことを決めた。

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