3話 交渉
「君がさっき言った、ならなぜ彼女が私たちとうまくやれているかの質問だったが、それは恐らくここの生活を見ていたらわかるよ」
そう言って芽衣子は手作りの看板に指をさした。
メゾンドリベルテ。
フランス語で自由の家だ。
この名前を付けたのは芽衣子自身だという。
「ここは個人を尊重する。だから、やっさんが部屋から出たくないと言えば、私たちは無理に彼女を出させたりはしない。過剰な心配もしない。食事もしないことが時々あるが、お腹がすいてはいけないと共用の冷蔵庫の中に彼女用のご飯を置いておく。食べなかったら、翌日それを誰かが食べる。それだけのことだ。誰も必要以上の干渉もしないし、自分の意見も押し付けない。それがここでのルールだ。それがわかっていて、彼女はここに住んでいるのだよ」
「でも、気にならないのか? もしかしたら、栄養失調で倒れてるかもとか?」
それはと芽衣子は自分の後ろにあるアパートの壁を叩いた。
薄っぺらい木の板の音がした。
「うちは元々短期間従業員が住む、簡素な建物でね、音は筒抜けなんだ。だから、一番奥の部屋で騒いでいても、住人の誰もが存在に気付く。うるさいと怒られることも多いがね。だから、彼女が倒れているかどうかは一緒に暮らしていたらわかるんだ。たまに本当にヤバい時があって、病院にも連れて行ったがな。あれは本気で勘弁して欲しかった。やっさんは集中すると飯も寝ることも忘れるんだ。時間の感覚がなくなる。唯一、トイレと風呂が共有だから、誰かに八合わすことも稀にあるのもこのアパートでいいところだな」
他人同士、必要以上に干渉しあわない関係。
それでも本当に困った時は助け合う。
それが靖子にとって理想的な関係だったのかもしれない。
なら、ますます靖子に専属原型師の話なんて受け入れてもらえるわけがない。
専属になれば給料はいいが、注文も多くなる。
そんな注文に靖子は耐えられるとは思えなかった。
仕方ないと芽衣子は立ち上がった。
「酒が入ってここまでベラベラとしゃべってしまったのはおっさんが初めてだよ。まあ、他の社員より切羽詰まった感が居た堪れなかったっていうのが本音だが、ここまで来たら諦めきれないだろう? 私がやっさんと話をさせてやる」
まさか、芽衣子が靖子との仲介役に徹してくれるとは思わず驚いた。
しかし、おっさんと言われても、芽衣子もなかなかの年増だとは思う。
彼女たちにおっさん呼ばわれされるのはいささか納得がいかなかったが、今回は聞かないことにした。
芽衣子に連れられ、もう一度アパートの中に入らせてもらった。
靖子の部屋は2階の一番奥、205号室だった。
芽衣子はドアの前に立ち、ノックをする。
「やっさん、メーカーさんがどうしてもやっさんと話がしたいらしい。もう、しつこくてさ、なかなか帰ってくれないのだよ。おっさんも切羽詰まっているみたいだし、ドア越しでいいから、話だけでも聞いてやってくれないかい?」
芽衣子の言葉から、数十秒沈黙が続いた。
そして、内側からいいよのノック2回が戻って来た。
芽衣子は頷いて、福原を扉の前に立たせる。
「寿堂の福原孝則といいます。フィギュアの営業担当をしています。山手さんにはぜひ弊社の専属原型師になっていただきたくて参りました。打ち合わせはメールのみでも構いません。弊社への訪問も不要ですし、契約も私が来て手続きさせていただきます。報酬も他の専属社員より多くお支払いできると思います。ですので、ぜひ、弊社との契約を……」
こんなことを言って受けてくれるとは思わない。
今までどんな会社が訪ねてきても、断って来たのだ。
福原は念のため、扉の下から自分の名刺を差し入れた。
名前だけでも見てほしかったのだ。
靖子からは予想通り、お断りのノック1回が戻って来た。
福原は扉の前で落胆する。
しかし、せっかくここまでこぎつけられたんだ。
このまま引き下がるなんてこと出来るわけがない。
福原は扉に食いつくように靖子に話しかけた。
「山手さん! 弊社にはどうしても山手さんのお力が必要なんです。このままだと弊社のフィギュア部門は他社に負け、縮小していくでしょう。しかし、そうなればわが社の利益は底に着きます。山手さんの作るフィギュアがあれば、うちはまた立て直すことが出来る。だから、お願いです。この話を受けていただけませんか? 報酬について不満があれば、私の方から担当者にいくらでも話を通します。だから――」
「帰ってください!!」
初めて、靖子の声を聞いた。
彼女はなぜか怒っているようだった。
その理由を福原は理解できない。
さすがの芽衣子も靖子が話すとは思わず驚いている。
「正直に話してくださったことは感謝します。けど、私の
それ以上、靖子は何も話そうとはしなかった。
断られるとは思っていたが、ここまで撃沈されるとは。
もう、どう説得していいのかわからなかった。
このまま社に帰って、左遷を受け入れるのも一つだろう。
それを見た芽衣子がさすがに不憫に思ったのか、別の部屋に案内してくれた。
それは靖子の下の部屋、智代という住人の部屋だった。
なぜ、自分の部屋ではなく他の住人の部屋なのだろうかと疑問になったが、それ以上聞くのは辞めることにした。
当然、智代は不服そうに芽衣子を睨んでいる。
「思った通りだったけど、思いっきり玉砕したね」
芽衣子はへらへら笑いながら話す。
キッチンからグラスを持って、また酒を飲もうとしているようだ。
「やっさんに会いに来たんだろう、あんた。そりゃ、そうなるだろうね」
智代も理解したのか、手元のカメラの手入れをしながら言った。
窓辺には胡坐をかいて、煙草を吸っている夏美もいた。
「自分、フィギュアとかジオラマとか何でもいいけどさ、なんか作ったことあるの?」
夏美は福原に顔を向けながら聞いた。
福原も夏美の顔を見て答える。
「大元からはないけど、プラモぐらいなら何度か」
「で、どう思った?」
「どう思ったって?」
「だから、作った時の感想だよ」
感想と言われて、昔、プラモを作っていた時のことを思い出していた。
あの時は何を考えて作っていたのだろう。
「出来上がった時は感動したよ。けど、作り終わったら満足して、そのままただ棚に飾ってたかな。一度誤って床に落としちゃってバラバラになって捨てたけど」
そうなんだよなぁと夏美は天井を仰いで答えた。
それで何が理解できたのかわからない。
「出来上がったものを作る方はその程度なんだ。プラモって言っても設計したのもデザインしたのもあんたじゃないんだろう? だから時が来て、壊れたらそのままゴミ箱にポイっと出来る。でも、最初から最後まで自分が作ったものなら、そう思えない。作品に対する愛が違うんだよ」
夏美はそう言って、吸っていた煙草の煙を思い切り福原に吹きかけた。
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