3話 普通の幸せ

気が付くと由美は亜紀の働く店、飲み屋の『のんのん』に来ていた。

涙でくしゃくしゃになった顔で店の扉を開ける。

カウンターにいた亜紀がいらっしゃいませと声をかけると、すっかり傷心した由美の姿があった。

また何かあったのだろうと、ひとまずカウンターの席に由美を案内した。


「で、今度はどうしたのよ? この間、メッセージくれた時には順調だって言ってたじゃない」


彼女はそう言って、由美の前におしぼりを置く。

由美はそれを掴んで、顔を思いっきり拭きだした。

亜紀はそれを見て、呆れすぎて声が出ない。


「子供がいた……」


やっと話したと思ったら、唐突もない話過ぎて亜紀には理解できなかった。


「どういうこと?」

「だから、池本さんに子供がいたの! もう奥さんとは離婚してるけど、借金まであって、私、何も知らなくて、だからプロポーズも受けて……、どんだ誕生日になっちゃった」


それを聞いた瞬間、亜紀は大きくため息をついた。

そんなことだろうとは予想していた。

必死で結婚相手を探す相手にも事情というものがあるだろう。

由美のような自分に甘々の女が満足するような男がそうそう現れるとは思わない。

何かしら由美を幻滅させる要因が出てくるとは思っていた。

亜紀は仕方なく、店長に承諾を得て、由美の隣に座って少し話を聞くことにした。

あいにくこの日は客が少なったので、店長一人でも回せる状態だったのだ。


「ねぇ、由美。あなたは結婚相手に何を求めているの?」


亜紀は由美の顔を覗き込んで聞いた。

由美は顔を上げ、亜紀の顔を見る。

マスカラがすっかり落ちて、目の周りは真っ黒だ。


「何を求めてるかって?」

「そう」


亜紀は頷く。

由美は黙って考えた。

普通の事だ。

ちゃんと働いていて、浮気はしなくて、自分の事を一番に愛してくれる人。

高収入も高身長も綺麗な容姿なんて高望みしてない。

平凡などこにでもいる普通の人と結婚したかっただけだ。


「当たり前の事よ。誰もが思っている普通の結婚がしたかった。皆がしているような幸せな結婚が出来ればよかったのよ。高望みなんてしてないわ!」


由美は亜紀に責められているような気がして、必死になって否定した。

自分はいつまでも結婚の出来ない高望みの女とは違う。

ただ、ありきたりな幸せを求めただけ。


「世の中に当たり前なんてことないのよ」


亜紀は真剣な顔で由美に言った。

由美には亜紀の言っていることがわからない。


「は?」

「あなたはいつだって人の表面しか見てない。だから、今までの恋人のマイナス面もぎりぎりになるまで気づけなかったの。あなたが思っている当たり前の幸せも普通の結婚も存在しないのよ」

「嘘! みんな幸せそうじゃない!」

「それは苦労がないってことじゃない。幸せなふりをしている人もいるし、どんな状況でも幸せだと受け止めようとしている人がいるだけ。どんな人生にもずっと幸せなんておとぎ話の最終回みたいなことはないの。結婚しても、子供を産んでも、人生は続くの。結婚してもうまくいかない夫婦もいる。仲が良かったのに若くして死別した夫婦もいる。子供の事で苦労している夫婦もいる。世の中にはいろんな人生があって、あなたの思うような都合のいい幸せなんてないのよ!!」


由美の目からは再び涙が溢れた。

こんなに傷ついているのに、まさか友人にまで責められるとは思わなかった。


「ひどい! 私は被害者なのよ! ずっとずっとそうだった! 私は皆に傷つけられてばかり。何もしてないのに。今回だって、そうじゃない。子供の事も借金のことも隠していた彼が悪いんじゃない。隠して、結婚しようだなんて、詐欺師よ!」


誕生日なのに。

由美は心の中で叫んだ。

自分に男運も男を見る目もないのもわかっている。

けど、こんな仕打ちはないと思った。

だってもう、自分は30歳になったというのに、これでは自分も結婚できない女の仲間入りになってしまう。

そんな由美を見て、再び亜紀は息をついた。


「確かにそんなことを聞いて、あなたがショックを受けているのはわかる。彼ももっと早くあなたに本当のことを話せば良かったんでしょうね。けど、そのことを話せばあなたが離れて行ってしまうと彼も思ったから今まで言わなかったんじゃないの? 仲をしっかり深めて、信頼し合えれば、自分の負の要因も受け入れてくれるって思ったのかもしれない」

「そんな都合良くいくわけないじゃない!」

「そうね。それは彼の勝手な都合だわ。でも、あなたのその事情も勝手な都合」


その言葉を聞いて、由美はきっと亜紀を睨んだ。

しかし、亜紀がそれで怯むことはなかった。


「私はなにもその彼の勝手な事情を聞き入れて、結婚しろって言っているわけではない。そこで結婚するもしないも、由美次第だと思うから。でも、そうすれば由美が願っていた結婚生活はまた遠のいてしまう。だからって結婚したから幸せになれるとは限らない。あなたの事だから、彼と出会ったこと自体を後悔しているとは思うけど、過去の事をいくら後悔したって意味はないのよ」


何もかも見透かしている亜紀の目が由美は嫌だった。

自分の我儘を見せつけられているような、聖人のような亜紀の存在が今の自分を惨めにする。


「亜紀にはわからないわよ! 亜紀みたいな美人で才能もあって、男にモテる亜紀なんかに私みたいな何の取り柄もない女の気持ちなんて!!」


さすがにこれには亜紀もむっとしてしまった。

何にも見ようとしない逃げ腰の由美にイライラした。

人の批難ばかりして、被害者ぶって、自分には落ち度がないって顔をしている。

由美がろくな男とづき合っていないのは知っていた。

けれど、それは不運だからだけじゃない。

出会いさえあれば幸せになれると勝手に思っている由美にも原因があるのだ。


2人の間がぎくしゃくしているタイミングで、お客が入って来た。

どうしたものかと見ていた店長も、新しい訪問客にほっとした。


「いらっしゃい!」


そこで暖簾をくぐったのは、亜紀の同じ長屋に住む芽衣子と夏美、それと美穂だった。

また、どきついメンバーが現れたと店長は渋い顔をしたが、わざわざ外まで飲みに来るとしたらこのメンバーなのだろう。


「亜紀! 久々に飲みに来たよ!」


芽衣子は亜紀を見るなり、笑顔で手を上げた。

後ろには無表情な夏美といつも不機嫌そうな美穂が立っている。

亜紀は椅子から立ち上がって、腰に手を当てて3人に話しかけた。


「それはいいけど、うちはツケとかないからね! 払える分で飲食しないと今度こそ、警察に引き渡すから!」

「亜紀は容赦ないなぁ」


芽衣子は困ったという顔をして空いている席に座る。

席に着くなり、夏美と美穂は煙草に火をつけようとしたので、亜紀がそれを取り上げた。


「うちは禁煙です」


美穂は露骨にちっと舌打ちしてそっぽを向く。

夏美は仕方がないと諦め、芽衣子がとりあえず生とビールを3つ頼んだ。

亜紀はあいよと答えて、ビールの準備に取り掛かった。

それを横目で由美が見ていた。

そして、カウンターに立つ亜紀に質問する。


「あの3人は誰?」

「同じアパートに住むルームメイトかな。前に話したことがあるでしょ?」


確かに由美は聞いていた。

亜紀が今住んでいるアパートにいる、正規雇用者でもなく、30も越えて未婚のまま呑気に夢を語って生きている赤っ恥の人たちを。

由美は立ち上がると、芽衣子たちに向かって歩き始めた。

そして、3人に向かって叫んだ。


「あんたたちさ、三十路過ぎてアルバイトの未婚人生生きてて恥ずかしくないの!?」


亜紀は止めようとしたが遅かった。

3人は驚いたまま、由美を見上げていた。

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