5話 過去
夏美にとって音楽は全てであった。
家はもともと音楽家の家庭で、物心がついた頃からピアノやエレクトーン、ヴァイオリン、フルートやトランペットなど様々な楽器を習わされていた。
あまりに小さい頃からしていたことなので、その事に疑問も感じなかった。
だから、音楽以外に関してはひどく欠落していた。
常識も知らなければ、人と会話をすることも少なかった。
朝起きて、ご飯を食べて、レッスンをして、寝る。
勉強さえも二の次だった。
練習で忙しいときは、学校に行くのもやめて家庭教師を雇っていた頃もある。
家が裕福だったこともあるだろう。
彼女は同じ年頃の子たちとは明らかに違っていた。
小学校の頃から音楽学校に通い、音楽に囲まれているのが当たり前。
夏美には才能も期待もあったので、特別授業をすることも少なくない。
生きることはすなわち音楽を奏でることである。
それがずっと夏美の宿命か何かかと思ってきた。
だから、夏美には音楽で苦しむという意味も理解できない。
ただ、そこにあるのは出来るか、出来ないかだけだ。
悩むということを知らない。
出来るまでやり続ける。
ただ、ひたすら楽譜を見て、隅々まで暗譜して、正確に時間を計り、リズムを身体に叩き込み、まるで音楽に捕らわれたのかと思うぐらい、夏美は音楽の奴隷であった。
それに、違和感を覚え始めたのは、高校の頃だった。
夏美はそれまで友達というものを持ったことがない。
心から思ったことを口にし、笑い合うことを知らない。
相手はいつも大人であったし、自分の意見など持つ必要がないのだ。
なぜなら、答えは全て譜面に書いてあるからだ。
ただ、それを忠実に再現すればいい。
それだけで、人は夏美を褒め、必要とした。
夏美の存在はそれ以上でも、それ以下でもなかったのだ。
ただ、高校の文化祭の日、学園祭の特別コンサートで練習をしていた時、窓から見える学園祭の光景を目の当たりにした。
今まで一度たりともお祭りなど行ったことがなく、賑やかな場所に行くこともなかった。
そこにあったのは夏美の知らない世界だ。
教師や生徒以外が校内に足を踏み入れ、テントをはり、屋台を始めて賑わっている。
そこには親も教師も先輩も後輩も分け隔てなく楽しみ、成績での優劣もない。
皆、平等に楽しんでいる光景が見えた。
笑っている。はしゃいでいる。心の奥底から。
夏美にとって学園祭など、ただの恒例行事でしかなかった。
やるべきものだから、やる。
それだけのはずなのになぜ、他の人たちはこんなに楽しそうにしているのか理解できなかった。
その日、初めてコンサートに立つ事を辞退した。
当然、両親や親族からはひどく責められた。
夏美の中になんとなく疑問が生まれたのだ。
自分と他の子たちの違いは何なのだろうか。
どうして、あの子達はあんなに幸せそうに祭りを楽しめるのだろうか。
音楽に身をささげ、奴隷として生きてきた事が本当に正しい選択だったのか、初めて自問自答した。
答えなんて出るはずはない。
それ以外に自分の生き方などないと思ったからだ。
それからは、それ以上にがむしゃらにレッスンを受けてきた。
ただひたすら講師の言うように、譜面の言うように。
そうすれば、どこかで自分への答えが見つかると思ったのだ。
しかし、そうではなかった。
海外の大学に進学し、自分が立った世界は見たことのないような世界だった。
自由だったのだ。
服装も自分の考えも、生き方さえも。
夏美は学生の誰とも口をきけなかった。
どこまでも孤立した。
孤独であることに寂しいなんて思ったことはなかったはずだ。
家でもレッスンでも学校でも自分はずっと孤独だったからだ。
それなのに、大学に入り、キャンパスを歩くだけで、人の笑い声が耳に飛び込んで来た。
はしゃぐ声も楽しそうに話す声も聞こえた。
その度に、夏美の心はなぜか押し潰されそうになっていた。
理由はわからない。
わからなければ、わからないほどレッスンに明け暮れた。
音楽を奏でていれば、何かが判る気がしたのだ。
でも、何もわからなかった。
その夜は眠りにつくことが出来なかった。
一階の音楽スタジオに置いてあるピアノで夏美はチャイコフスキーの『交響曲第6番』を演奏した。
なぜ、この音楽を選んだのかは夏美もわからない。
ただ、演奏の難しいハンガリー狂詩曲6番よりも、チャイコフスキー『四季』よりもこの曲を選んだ。
落ち込んでいたからかもしれない。
今まで一度も音楽と触れ合っていて苦しいと感じてこなかったのに。
むしろ、音楽に触れているときだけは、幸福でいられたような気がした。
その時だけは、自分が自分でいられたような気がしたからだ。
この曲は別名『悲愴』。
チャイコフスキー本人が名づけたかははっきりしないが、とても悲しい音楽。
曲を奏でながら夏美は、この時チャイコフスキーは何を考え、何を感じて曲を作っていたのだろうかと思った。
今までそんなこと自分で考えてこなかった。
授業で習った歴史もただ事実だけを記憶しただけだ。
この曲はチャイコフスキーが死の直前に書いた作品だ。
彼の人生の苦悩が集約されている。
今まで曲に何かを感じたことがなかった。
特に好きな曲もなければ、心打たれる曲もない。
ただ、演奏していくうちに、息が苦しくなり、だんだん演奏に集中できなくなってきた。
音楽に触れて苦しいなどと思ったことはないはずなのに。
手が何度も止まりそうになる。
そして、次第に涙が溢れて来た。
哀しい。
悔しい。
虚しい。
辛い。
心の内側から熱い何かが溢れてきて、それは自分の身体から出ようとすれば出ようとするほど、身体を侵食し、硬くする。
重く、地中深く沈んでいくようだ。
悪いことばかりの人生ではなかったはずだ。
夏美は他の生徒よりもずっと才能もお金にも恵まれていたはずだ。
それなのになぜ、こんなに苦しいのか。
哀しいのか。
それがわからなかった。
演奏を終えた時、ピアノを弾くことがこんなに苦しいことなのかと思えるほど苦しさを感じた。
窓の外から月の光が差し込んでいた。
真っ暗な空の中にはっきりと自分を主張するような月だった。
この時、夏美はやっと自分の意思にたどり着いた気がした。
その日から、夏美は楽譜を見て演奏するのは辞めた。
殆ど暗譜していたが、その時感じるままに演奏した。
どれほどの大人たちがその演奏に嘆いたことだろう。
常に完璧を目指していた夏美が、独創的な演奏を始めたのだ。
作曲家達の代弁者とも言われた夏美が、全てを捨てて思うままに演奏している。
まるで素人のように。
夏美は演奏では一流でも感情を持つ人間としては三流以下だ。
それを自覚した音楽だった。
ある講師はそんな彼女の演奏に激怒して、罵声を浴びせた。
散々批難し、作曲家を、音楽家を侮辱するような音楽だと罵った。
夏美はその教師の前に立ち、楽譜を破り裂いた。
講師は何も声も出せなかった。
音楽家としてあるまじき行為だ。
許されたものではない。
捨てるだけならまだしも、びりびりに引き裂いたのだ。
彼女は自ら大学を去った。
そして、厳格な家族の元からも去り、独りで生きる決意をした。
常識の知らない夏美がまともな生活が出来るわけがない。
とにかく生きることに必死で、家から持ち出したものはどれも楽器ばかりだった。
楽器を売ればいくらかお金にはなったが、夏美は一つだって売りやしなかった。
とにかく、夏美を持てる全てを使って、お金を稼ぎ、生きた。
そして、夏美は演奏家になるのではなく、作曲家になる道を選んだ。
その道は夏美にとって未知な世界で、素人同然だったが、知りたかったのだ。
作曲家たちがどんな思いで曲を作り、時には苦しみながら、時には喜びながら、感情を曲に混ぜていく。
自分の心が取り戻せる時がくればきっと自分にも曲が作れると思った。
それが、駄作だとしても良かったのだ。
だからこそ、今の彼女は音楽を本当の意味で楽しめた。
今まで感じたことない喜びだった。
身体は自然と跳ね上がり、笑顔が溢れた。
曲一つ一つに一喜一憂し、心で音楽が聴けた。
夏美は、芹那にもっと音楽を楽しんでもらいたかった。
折角音楽と触れ合えることが出来たのだ。
才能があるとか、他の人よりも下手だとか、そんな理由で苦しんでもらいたくなかった。
楽譜に愛されたものだけが、音楽を奏でていいわけじゃない。
誰にだって、音楽を楽しむ権利がある。
それは今みたいな立派な楽器が出来る前から、人類は知っていたことだ。
誰も彼女達から音楽を奪えない。
例え楽器を奪われても、声を失っても、耳が聞こえなくなっても、目が見えなくなっても、音はちゃんと身体で感じられるのだ。
音楽はずっと昔から自分達のそばにあったのだから。
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