3話 皆で囲む食卓
和彦は芽衣子たちに勧められるまま酒を飲んで、昼間からもうベロベロに酔っていた。
彼女たちは随分酒に強いのか、絶えず飲みながら談笑している。
夏美においては酒と煙草を交互に楽しんでいた。
こんなに潰れるまで飲んだのはいつが最後だったろうか。
酒を飲む楽しみもすっかり忘れていた気がした。
気が付いたら眠っていた。
部屋の中は随分騒がしく、人数もさっきより増えている気がする。
目を覚ました和彦に最初に気が付いたのは、お団子頭の女性だった。
幼い顔立ちはしているが、学生ではないようだった。
「おじさん、起きたみたいですよ」
彼女は天使のような笑顔で答える。
あの智代や芽衣子とは全く違うタイプに見えた。
更にその横から、厚化粧の目つきの悪い女が和彦の顔を覗き、彼はぎょっとした。
さっきまで天使がいたと思ったのに、急に悪魔が現れたような気分だ。
「ほんとだ。こんな場所で寝られるなんて、呑気なおっさんだね」
厚化粧の女はそう言って鼻で笑う。
和彦は慌てて起き上がり、周りを見渡した。
そこにはさっきの倍、それ以上の女性がいた。
急に起き上がったせいか、頭がずきずきと痛んで顔をしかめる。
「おはよ。潰れるのが早すぎるよ。もっといろいろ話したかったのに」
芽衣子が和彦の顔を見て笑って言った。
あれから芽衣子たちはずっと休み事無く飲んでいたらしい。
良く体を壊さないものだと感心する。
気が付けば、目の前にはテーブルが2つ並び、その上には大皿に乗った料理が乗っていた。
手料理なんて久しぶりだ。
リストラの話を聞いた日から妻の文子は落ち込んで、ご飯を作るどころではなかった。
それにこんなに大勢の人と囲んでご飯を食べるのも久しぶりである。
初めてきた場所なのに、なぜだか和彦の心はほっとしていた。
芽衣子は和彦の分のご飯を注ぎながら話しかけた。
「おじさんもずっと仕事を頑張ってきて、ご飯を誰かと食べる感覚も忘れていたのではないのかい? 私も昔はそうだったからわかる。みんなと一緒に囲むご飯ほど、美味しい料理はないんだよ」
芽衣子はそう言って、和彦にお米をついだ茶碗を渡した。
彼女は彼の気持ちを誰よりも察しているようだった。
おそらく彼女も昔は和彦と同じように会社員だったのだろう。
必死に働いて来て、それでもなかなか報われなくて、最低な終わり方をする。
そして、全てが終わった時、絶望するのだ。
もう、先には何もないと思い込んでしまう。
ただ、彼女たちを見ているとそうでもないような気がしてきた。
「私たちはしがない芸術家たちばかりなのだよ。この年にして、アルバイトで暮らしてる。生活は苦しいし、贅沢も出来ない。けど、私たちには他の人たちにはないものをここで得ているんだ。それは何だと思う?」
芽衣子は優しく和彦に問うた。
和彦は自分を落ち着かせて考えてみたがわからない。
ここで貧乏暮らしをして、得られるものなんて想像がつかなかった。
「本当の意味での自由さ。私たちは自分たちが思うがまま、芸術を楽しんでいる。誰かに制限されるわけでもなく、常識に縛られるわけでもなく。芸術もまた、大衆に認められることで確立すると考えている人が多い。しかし、そうではないのだ。芸術とはそのものを心から楽しみ、満足できたものを言う。苦しんでいる時点で、もうそれは傑作とは言えないのだよ」
和彦は芸術の何たるかを知らない。
これと言って触れてきたこともないからだ。
しかし、彼女たちはこの生活を心から楽しんでいる。
豪華な飯出なくても、極上のご馳走のように美味しそうに食べている。
ボロボロのアパートの中でも温かみを感じる。
誰もが見て幸せな生活とは言えないけれど、彼女たちにとってここは現実という砂漠に残されたオアシスなのかもしれない。
「『芸術は、命令することが、できぬ。芸術は、権力を得ると同時に、死滅する』太宰治の言葉。私、結構この言葉好きなのだよ。芸術家ならではの言葉だと私は感じるのだよね」
彼女はそう言って笑った。
彼女たちの生き方は自由でいいのだと教えてくれているようだった。
こうやっていい年をした女が古いアパートに集って、バイト暮らし。
街の人が見れば、情けないと嘆く場面なのかもしれない。
ああなってはいけないと子供たちに言い聞かす親もいるだろう。
しかし、生き方に正解などないと、そんな気がする。
彼女たちはこの生活になんの不満も持っていないし、後悔もしていない。
出来ることを出来るところまでやる。
それだけだ。
智代はそれに気が付かせたくて、自分をここに連れてきたのだろうと思った。
定職がなければ、死しかないと思い込んでいた自分に、それ以外の選択があることを教えてくれた気がした。
「おっさんは頭がかちんこちんで困る。かの坂本龍馬も言ってるだろう。『人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある』ってさ。こんな場所で悩んでても仕方がないじゃない。どうすればいいかわからなきゃ、出来ることから始めりゃいいのよ」
厚化粧の女、美穂が言った。
隣のお団子娘の理々子も笑いながら答える。
「テディ・ルーズベルトも言っていましたよね。『あなたにできることをしなさい。今いる場所で、今あるもので』。この世の中にどうにもできないことはありません。きっと何か手段があります」
「確か、バスケットボール選手の有名な人も言ってたわね。『できないことに気を取られずにできることをやりなさい』って。あれは誰だったかしら?」
そう答えたのは、この中で唯一美人ともいえる女性だった。
料理を運んできた亜紀という女性だ。
「ジョン・ウッデンじゃなかったっけ? そういうことだよ。おじさんは今、とても視野が狭くなっている。いきなりリストラとか言われて、家族までパニックになっちゃって、焦る気持ちはすごくよくわかる。けどさ、命捨ててまでやることなんて何もないんだよ。無理にお金をひねり出すことより、どうやったらみんなが満足いく選択ができるかってことだろう? もう出来ないことを悔やんだって仕方がないんだ。今できる範囲でやればいいじゃない」
最後は智代がそう答えた。
ここにいるみんな、和彦の事情を知っているようだった。
だからと言って過剰に同情する者もいない。
ただ、ありのまま受け止めて、対等な人間として話している。
食事が終わるともうすっかり日が暮れて夜中になっていた。
帰ることも出来ず、かといって女性の部屋に泊まることも出来ないから、智代は和彦を連れて、管理人の男のもとへ向かった。
ドアをたたくと、不機嫌そうな顔をした管理人、加藤治之助が出て来た。
「おっちゃんを泊めてよ」
「急に人の部屋訪ねて、泊めろだぁ? もう少し常識っていうものを学べ」
加藤の言っていることは正しい。
しかし、智代はめげる様子はなかった。
「そんなものを今更、私たちに求める気?」
「ま、無理な話だわな」
加藤はそう言って、入りなと和彦に手招きした。
そして、加藤は押し入れの中からお客用の布団を取り出す。
加藤の部屋は管理人室のせいか、他の住人の部屋より広く感じた。
それにまさかお客用の布団まであることには驚く。
「あいつらはすぐに知らん奴をここに連れ込むからな。布団の一つぐらい用意しておかないと、夜通し飲み明かす馬鹿たちなんだよ」
加藤は呆れながら、それでも少し嬉しそうに笑った。
きっと加藤も智代たちの事が嫌いではないのだ。
非常識でも自由に生き生きと生きている彼女たちを気に入っている。
だから、こうして一緒に暮らしているのだと理解した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます