4話 山登り

深夜3時。

突然、管理人室に智代が現れた。

和彦はあまりに驚いて布団から飛び起きたが、隣に寝ていた加藤は慣れていたのか、全く目を覚まさなかった。


「山登りに行こう!」


寝起きの和彦に何の前置きもなく、提案した。

頭はまだ完全に目覚めていないし、こんな時間に何を言い出すのか理解できない。


「日の出を見たいんだ。おじさんも付き合ってよ」

「付き合ってよって言われても私はスーツしか持ってないよ。それで山なんて登れないでしょう?」


和彦はひとまず布団から起き上がり、ハンガーにかかっていたスーツを指さした。

今着ている服も加藤が貸してくれたものだ。

いきなり山登りに行こうと言われても困る。

しかし、智代は躊躇なく勝手に加藤の部屋のタンスを開け始めて、服を探す。

そして、山登りにあいそうな服を選び、和彦に投げた。

人の物を断りもなく、探るなんて常識に反していたが、智代は全く悪びれた様子はない。

一式揃うと、智代は笑顔で言った。


「さ、着替えて。日の出までに時間がないよ」

「そ、そういう問題じゃないでしょう? 加藤さんの服、勝手に借りちゃヤバいでしょう?」

「ちゃんと洗って返せば大丈夫だよ。加藤のおっちゃんには貸しがいくつかある。こんなことで怒りやしないって」


智代の言うことがいまいち信じられなかったが、ここはもう従うしかないようだ。

智代が外に出ているというので、和彦は渋々服に着替えて、靴を履いた。

この靴も登山用の靴だが、加藤の私物だ。

意外にも加藤と和彦の背丈も足のサイズもほぼ同じでその辺の問題はなかった。

和彦が加藤の部屋から出てくると、智代は和彦にヘルメットを渡す。

どうやら、山の麓まではバイクで行くらしい。

恐らくそのバイクも誰かの借りものだろう。


外はまだまだ冷え込んでいた。

夜中ともなれば空気もまだ冷たい。

智代はエンジンをふかして、和彦に後ろに乗るように勧めた。

和彦はバイクの後ろに乗るなんて初めてでどうしていいかわからない。

しかも、女性の後ろなんて余計に戸惑った。

逆に智代は気にしていないようで、和彦がバイクに跨るとしっかり体に捕まってと言って、自分の背中に抱き着かせた。

今頃の若い人は気にしないのかと思いながらも、智代にしがみ付くと智代は想像よりもずっと速い速度で走り始めた。

和彦は驚き声が出ない。

恐怖を感じつつも、必死で智代の体にしがみ付いていた。


麓に着いたのは、バイクに走らせてから15分ぐらいだった。

和彦にはこの15分がすごく長く感じた。

智代は荷物を抱え、慣れた様子で山道へ向かう。

和彦も慌てて、智代について行った。


「板橋さんは、随分夜明けの山登りに慣れているようだけど、よく来るのかい?」


和彦は慣れない山道を登りながら聞いた。

威勢よく登っていた智代が振り向いて答えた。


「智代でいいよ。そうだね。月に1回は登ってるかな。日の出は久々だけど」


彼女はそう言って暗闇の中、ヘッドライトだけでサクサク登っていく。

和彦の方はものの5分で息を切らす始末だ。

今登っている山はそう高くはない。

昼間なら素人でも30分もしないうちに着くだろう。

初心者にはうってつけの山だった。

それでも夜中の暗闇の中の登山はなかなか厳しい。

何度も足を取られそうになりながら、やっと山頂らしき広場に着いた。

地平線の向こうがうっすら色づいていたが、まだ日の出には早いようだ。

智代は鞄から三脚とお気に入りの一眼レフを取り出す。

そして、朝日の出る方向へレンズを向けた。

和彦はただただ疲れ果て、その場で座り込んだ。

年になって登山がここまで大変な事なのだと改めて実感させられた気分だ。


「たまにはいいでしょ? 山登りも」

「ああ、昼間ならもっと良かったけどね」


和彦は苦笑しながら答えた。

確かにここは自然豊かで癒される空間だ。

あの都会の真ん中では感じることのない澄んだ軽い空気。

美味しい空気とはこういうものだろうか。

久々すぎて忘れていたような気がした。


「アメリカの写真家エドワード・スタイケンが言った。『他のあらゆる芸術家は空白のキャンバスから始まるが、写真家は完成品から始まる』って。私もそう思うんだ。特にあの家で皆と暮らしているとね。写真って他の芸術とは異質なんだよ。皆が頭に描いた創造物を形にしている中で、写真家は創造物の中から被写体を選んでその一部分の一瞬を切り取るように写真を撮る。その一瞬が芸術になるんだ。私が何をしたわけでもない。写真家の芸術は目の前にある現実そのもので、タイミングを合わせてシャッターを切るんだ。けど、その一瞬はもう二度とこないこの世でたった一つの瞬間で、だから価値がある。だからこそ、人を感動させられる」


彼女はそう話して、和彦の方を振り返った。

地平線に浮かぶうっすらとした光のラインが、智代と重なって独特の雰囲気を作り出していた。


「私はね、写真の中にはその人の人生そのものが入っているような気がするんだ。家族との思い出を残すために撮った写真の中にもそれは現れていると思う。その人の人生は1秒だって止まってはいなくて、ずっと続いている。その延長線上に縦線を書いたように時間を止めて収めたのが写真。写真はその一瞬だけを映しているんじゃない。その人たちの人生そのものを映しているんだよ。だから、私は写真が辞められない。今日の日の出だって一緒。同じように見えても、この時、この瞬間の日の出は今しか撮影できないんだ」


彼女はそのままファインダーを覗いて、シャッターを切るタイミングをはかっていた。

光は徐々に上がってきて、山と山の谷間に朝日を覘かせる。

その瞬間を智代は逃さないようにシャッターを何度も切った。

和彦も呆然と見つめていたが次第に自分も写真が撮りたくなって、手で親指と人差し指を立てて、ファインダーを作るようにして朝日をその指の中に収める。

その一瞬を心の中に刻むように、映し出すように見つめた。


写真を撮り終えると、智代は鞄の中に入ってあった水筒を取り出して、コップにお茶を注ぐと和彦に手渡した。

和彦は快くそれを受け取って、朝日を見つめながらお茶を飲んでいた。


「智代さんはいい写真家になれるよ」


和彦は軽い気持ちで智代に向かって言った。

その瞬間、あんなに笑顔だった智代の表情が曇る。


「写真を撮るってこと自体はとても簡単なんだよ。若い子だって今はインスタなんかで素敵な写真をバンバン出しているじゃない? 綺麗で目を引く写真を写すことはもうそんなに難しいことじゃないんだ。だから芸術としての写真は評価も難しい。簡単に撮れてしまうものだから、余計難しくしているんだ。そうは言っても、貴重な瞬間とか、撮影が難しい場所の写真とかまだまだ技術と時間、手間がたくさん必要な奇跡の1枚ってものもあるのも事実だよ。でも、私が目指しているのはそういうものじゃないんだ。その何気ない日常の一部を切り取った世界に見える先のようなものに心を動かされる作品を作りたいんだ」


和彦は写真の事はわからない。

それがどれだけ難しくて、どれだけの人が写真家として生きようとしているのか知らない。

確かに携帯のカメラの技術の向上でそれなりに綺麗な写真は撮りやすくなったとは思う。

けど、それだけが写真ではないと智代は言っているような気がした。

気が付くと携帯に着信が入っていた。

それは看護学校を卒業して、一人暮らしをしている娘からだった。









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